素晴らしい風景!!

色々歩いた山や国内の風景等をご紹介いたします。

▲ 早秋の宝永山 ▲

2019年09月25日 | 私の見た山・登った山

富士山南東側の中腹にある寄生火山。                                宝永 4年(1707)の噴火活動によって生じた火口は北北西から南南東方向に三つ並んでいる。                                                                                                                                               この噴火は溶岩は流出せず火山灰の噴出が多く、江戸市中まで降灰があったとのことです。

今回はその宝永山(2693m)を歩いて来ました。今回は2回目の挑戦。                   前回は大石茶屋の分岐案内を見逃し、ブルドーザー道沿いの御殿場ルートを登ってしまい、突風が吹き荒れていたので標高2千m付近で撤退。

御殿場口新五合目駐車場に 6時半到着。富士山頂や宝永山はハッキリと確認できた。      20分で準備を整え、6時 50分出発。

                                           新五合目登山口の鳥居をくぐり、売店横の登山届投函箱に入山届を提出し大石茶屋に向かう。 この時期になると入山禁止のゲートが作られているが、天候を確認し自己責任で入山。    大石茶屋までは足慣らしの形で歩くリズムを作りながら登る。

大石茶屋通過、7時丁度。                                          茶屋の左手にある分岐標示を確認、前回は右の階段を登って前進し失敗した。

                                             今回はしっかり確認し、階段の左手へと進路をとった。                                                      こちらはブルドーザー道と違いキャタピラーの跡は無く、完全な登山道であり高度を上げて行くにつれ登山者の踏み跡は見にくくなり、登山道標示としてロープが備えられているのを頼りに登高。

今日の天気予報は晴れとなっていたので、宝永山の火口見学を実施ししたのに大石茶屋から二ツ塚(下双子山:1804m)までの登りはガスの中であった。

                                               なので黒い火山灰の登山道では、どこを見ても真っ黒、ロープの標示は非常に有難かった。

二ツ塚から宝永山の南面に回り込んだ四辻から御殿庭上辺りまでは、秋晴れの感じとなり斜度もなく気持ち良いハイキングができた。

                                            東側は風が無いせいかガスが流れず、登山道斜面に張り付いていた。

                                                   だが南面は軽いアップダウンの道で、静かに秋 を感じられる景色がとても素晴らしかった。  三辻 通過、8時 16分。                                           宝永山を中心に大石茶屋から時計 回りに南側から西側に回り込むように火山灰の道を前進。  小天狗塚 通過、8時半。

御殿庭入口の手前から見た宝永山。   群馬県と長野県の県境に聳える「荒船山」の様に見えます。

                                           御殿庭入口通過、8時 46分。

                                           ここからは御殿庭下、御殿庭中( 9時 28分通過)、御殿庭上そして第二火口縁へと厳しい登りが続いた。 休憩は控え、黙々と登り続けた。                                             ただ厳しい登りと強い日差しの中といえども、樹林帯の中であったことに救われた。

地図上には山体観測装置と表示された個所を通過する予定であったが、場所の確認はできなかった。                                                           既に森林限界は超え、岩礫や火山灰の滑り易い登山道となり、疲れていたので非常に歩き難かった。

第二火口縁通過、10時 12分。

第一火口縁通過、10時 27分。                                      ここは富士宮口登山道の基点である富士宮口五合目に大駐車場があり、そこから何組もの団体が宝永山を目指し、この辺りのみ賑やかであった。

                                           登る左手に山小屋の宝永山荘が確認できた。

第一火口縁からは宝永山の北にある馬の背に向け、火口に下って馬の背に向け登る吊り尾根を進む。                                                                                                                                        団体さんと合流すると歩き難くなるので、休まず第一火口に向けて吊り尾根を行く。

                                          第一火口と第二火口の間の登山道が吊り尾根 の様に見える。 その鞍部で宝永山を目指す団体が休憩を取っていた。

                                           この左手に見えるのが宝永第一火口である。

                                             自分は休まず馬の背に向けて前進。                                                                                     この登山道が砂走りを登る道で、1歩踏み出しても半歩くらいズルズルと戻ってしまう非常に疲れる 登りで参った。

                                            その上、途中で大腿四頭筋が 痙攣し駄目かと思ったが、ゆっくりとマッサージを行ったら正常に回復し、立ち休憩を入れながら登った。                                 今日は運良く、風が無く物が飛ばされる心配もなく寒さを感じることも無かった。      その代わりというか、ガスが動くことがなく近辺の火山灰の景色のみであった。

登山道の分岐にぶつかり、直進すると馬の背へ、自分は宝永山を目指して来たので右折というか東に進路をとった。                                                                                                          尾根に出たら間もなくで宝永山山頂に到着した。11時 22分。 

既に到着されている方に伺ったら、もう 30分くらい待機しているが一向にガスが消える気配はないと話して下さいました。

                                           自分も、この無風状態では期待は薄いと思い 10分休憩して馬の背に向かった。

砂礫状の火山灰の尾根を北へ進路をとった。10分弱で馬の背に到着。11時 40分。

山頂からの景色には恵まれず、待機しても天候回復の気配は感じられず、これ以上登ることは諦め、下山することとした。                                        ガスが流れると瞬間的に周りの景色が見える。その時の北東下方に下山道に使う大砂走りが確認できた。                                                 最初はガスが濃く4~5m先しか見えない時があり、往路を戻ろうと考えていたが下りでも優に 3時間は掛かるので思案。

                                           よし やはり登山計画書通りに大砂走りを下ろうと決定した。                        大砂走りに入っても一面黒い砂礫の火山灰であり下山道の砂走りか、ただ普通の富士山の斜面かを見極めることに集中しながら下った。                                   周りを見渡しても人の姿は無い。こんな時期に砂走りを下る人間が珍しい。                        地図を確認しても東に向けて真っ直ぐに大石茶屋に向けて下っている下山道。                              下ったのを登り返すことはできないので、地図を信じて転倒に注意し長距離走と同様に腕をしっかり振り一定のリズムで標高差 1200mを直滑降で駆け下りた。

時折、サッとガスが流れ広く景色が見える時があり、瞬間的にホッとする。        その時に視界悪化時のために用意された誘導用標柱やロープの位置を確認し、目標とした。                                                                                                                                              日本一の富士山の余りにも広い斜面に1人の人間が居ても、1個の砂粒や小石の様で、改めて超広大な裾野に驚いた。                                           駆け下りながらも 、本当に大石茶屋に出るのだろうか  という不安はぬぐえなかった。                                                                                                                                     ガスの中に薄っすらと木立が見え始め、小雨の中 キャタピラーの踏み跡を下る。                   馬の背から下り初めて1時間 10分、広い空き地に出た。                                                          そこには自衛隊のジープが止まっていた。                                                               自衛隊の演習地の中に下ってしまったのかとびっくりした。                   でも、右手に道路と駐車場らしき場所が見えたので、そちらに移動した。                  そこは大石茶屋を過ぎて御殿場口新五合目駐車場(標高1440m)の下の道路であった。           ブルドーザー道は大石茶屋の北側を駐車場の方に下っていた。                 道路を御殿場口の駐車場まで登り返した。 無事帰還 12時 55分。                                         直ぐに着替えて、下山届を提出し帰途に着いた。

 

 

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🐾 湯河原・真鶴ジオサイトを歩く 🐾

2019年09月11日 | ジオパーク

意外と沢山ある、自分の住む地域の大地の遺産(ジオサイト)を知らない。 

平成 24年(2012)箱根町、湯河原町、真鶴町、小田原市の一市三町の領域が『箱根ジオパーク』に認定され、平成 28年(2016)には南足柄市が加わり二市三町に領域が拡大されました。 

                                            そこで南足柄ジオガイドの会のメンバーで湯河原・真鶴のジオガイドさんとの交流会に参加し、箱根ジオパーク内の二町のジオサイトを案内して頂きました。

市役所に集合し、南足柄市のマイクロバスで真鶴駅に向かい真鶴のジオガイドさんと合流。真鶴港に移動し、挨拶のあと徒歩でジオサイト巡りに出発。

                          

真鶴港から近く、禅僧の風外彗薫(ふうがいえいくん)和尚が住んだと言われる『天神堂』へ。

江戸時代初期寛永 5年(1628)ころ、一人の雲水が真鶴に住みついた。                 素性知れぬ異形なその僧侶は禅画(特に達磨絵)が巧みで、里人に絵を示して糧食と引き換えていたが、やがてその絵が知れ渡り、厄除け・縁起達磨と近在の評判となった。

その禅僧の名は風外彗薫(ふうがいえいくん)。                                  上野(こうずけ)国(群馬県)に生まれ、幼くして両親と死別。村内で寺修行の後、上州の禅刹雙林寺(そうりんじ)の寺僧になるが、30歳のころ諸国遍歴に出たまま行方が知れず、再び記録にあらわれるのは 50歳にとどく頃、所は相州豊川村(小田原市)成願寺住職としてである。      しかし、寺職を嫌って数年後には付近の山中の洞穴に隠棲、ほどなく真鶴の地に山居を求めて移住した。

これを知った名主 五味伊右衛門は彼を客僧として遇し、その要望にそい自家近くに天神堂を建てて庵住させた。                                            時に風外彗薫63歳。定住の意を固めた彼は、ここで数々の書画を残した。

                         

次に15分ほど歩いて『日和山』・『さば大師』へ。

真鶴港の東側の出崎は磯崎といわれている。その小高い丘が「日和山」であり、山頂広場には「生飯(さば)大師」が祀られている。                                    寛文12年(1672)の「真鶴村書上帳」によれば、真鶴湊に出入りする船頭・船主は、早朝この日和山に登ってその日の天候を判断したという。                           日和山は、当時の気象観測所の役割を果たした。

日和山として利用される地点は 港から近いこと あまり高くないこと 展望がきくこと=空や沖合いが良く見えて港内も良く見渡せること。が条件になっている。

村内の漁師も、当日の天候を占い「生飯(さば)大師」に豊漁を祈り、帰港すると感謝の意を込めて獲物の一部を奉納した。                                     こうした願いが今も4月17日と8月30日の「さば大師様のお祭り」として生き続けているとのことです。

さば大師のある日和山から白磯海岸へ下りる途中に赤茶けた(軽石)地層が見られ、白磯海岸では板状節理が見られるとのことでしたが、千葉県に大被害を与えた台風15号で倒木により道が寸断され、今回は歩くことができませんでした。

白磯海岸は遠くから見るのみで、岩海岸の方へ移動。

源平盛衰記、吾妻鏡には治承 4年(1180)8月27日、源頼朝主従が岩海岸を船出したと記されています。

                                                  『新編相模国風土記稿』には、敵の追跡を免れた頼朝が喜びのあまり「祝村:いわむら」と命名したという村人の伝承を記しています。                                          龍門寺に伝来する宝永 2年(1705)如来寺(現廃寺)の半鐘銘文にも「相州祝里」とあります。

真鶴半島唯一の砂浜の海岸で、県内でも水質が高く、波が静かな所です。海上には、岩大橋が架かっています。

                                              岩大橋 1980年9月1日に開通。 かながわの橋100選に選ばれているそうです。                                     全長595m、幅7.5mで形式はPC箱断面ラーメン橋、コンクリート製。

岩海岸の弁天島(岩)付近は、大浦と呼ばれており、この弁天島は、赤褐色の巨大な円丘状の溶岩塊で西湘海岸の風景の中にあっては、極めて異色の存在とのことです。

                                

 如来寺跡へ移動。                                              岩大浦と呼ばれる一角に如来寺の跡があり、境内の裏に山腹をくりぬいて造った洞窟があります。奥行15m、幅4mほどの大きさで中間がくびれ2部屋になっています。

                                           如来寺の開山については、江戸時代に編纂された『新編相模国風土記稿』と岩、半田家所蔵の『古書類写集』に収められている延宝4年(1676)の岩村明細帳に書かれています。                                                                                                                                    本尊を阿弥陀如来としながら、禅宗の瀧門寺の末寺となっている。                  石仏の作者は、木食僧但唱(たんしょう)

                                            洞窟入口近くに閻魔大王をはじめ、地獄の裁判官十王像や奪衣婆、善悪人頭杖などの六道の還啓した石像が祀られていました。

                          

11時半、瀧門寺入口に建てられた宝篋印塔(ほうきょういんとう)前に到着。

                                           高さ6.5mの巨大な石塔で、真鶴溶岩類の新小松石を刻んで作られていました。                 明和 4年(1762)瀧門寺13世 宝永鳳州了梧和尚が人々の幸せな生活を願って多くの人々の浄財と労力奉仕によって建立されたと刻まれています。

                           

 長い石段を上がって瀧門寺境内へ 

                                           瀧門寺は天正元年(1573)林屋(りんおく)という僧によって中興開山された曹洞宗の寺院。 山号は多宝山、本尊は釈迦如来。                                                                                          本堂の横には土屋大次郎氏の 墓石がありました。

土屋大次郎は、岩村出身で石材業を営む土屋家に養子に入り、その後築地などに石材業を開業し東京市街電車の舗装用石を大量に受注するなど実績を残した。                      53歳の時、第10回総選挙に出馬、衆議院議員に初当選したが2年後に病で急死した。

                         

 午後は湯河原駅で湯河原のジオガイドさんと合流。

湯河原町は箱根外輪山の南麓で、千歳川と新崎川の二つの河川の沖積低地にあり、相模灘に面しています。                                               背後の外輪山、鞍掛山(1004m)、大観山(1012m)、白銀山(993m)の山々は箱根からの寒風を遮るので、気候は温暖で相模灘に面した丘陵地はミカン栽培の適地になっています。   二つの河川は水源の山々から水平距離でせいぜい 7~8Kmと短く、川は随所に滝を交えつつ相模灘に流れ込んでいます。                                           湯河原から小田原に向かう西相模地域は外輪山が相模湾に面している急峻な地形です。

車道から 400mほど下った『しとどの窟(いわや)』に 14時 10分到着。

窟は高さが約 5m、幅約 12m、奥行き約 11mですが、関東大震災等で崩壊したため、当時より入口が大分広くなったとのことです。                               しとどの窟は「土肥椙山巌窟」として、神奈川県で史跡文化財に指定されています。

                                             1180年に石橋山合戦で平家に敗れた源頼朝が 、この地にあった窟に身を隠し、箱根権現別当のもとに逃れた後、真鶴のしとどの窟から安房国(あわのくに)へ脱出したと伝えられています。                                          また、「しとどの窟」の由来は追手が「シトト」と言われる鳥が急に飛び出してきたので、人影がないものとして立ち去ったためだと言われています。                         しとどの窟周辺は箱根外輪山の溶岩と火山砕屑物(噴火で放出された石や砂など)からできており、窟は固結した火山砕屑物の部分が削られてできた洞です。

石橋山の合戦にて大敗した源 頼朝は、主従わずか 8名で山中に逃れ、湯河原近辺を領地とする土肥実平、遠平親子の案内で洞窟や大木の洞に隠れて敵の追手をかわしました。               土肥 実平とは相模国の豪族、中村氏の出で平安末・鎌倉初期に活躍した武将です。      土肥郷(現在の湯河原町)を本拠としており、JR湯河原駅から成願寺の辺りに実平の館があったと言われています。                                            この後、頼朝は実平が手配した小舟で安房国に渡って、再起を図り、敗戦の一か月半後である 10月 7日、大軍を率い堂々と鎌倉へ入りました。

吾妻鏡の記述には《・・・その時、頼朝は御髻(おもとどり)の中の正観音像を取り出され、ある岩窟に安置された。実平が頼朝のお考えを問い申したところ、仰ることには「自分の首が景親等の手に渡る日にこの本尊を見れば、源氏の大将軍のすることではないと人は恐らく後々まで避難するだろう」・・・》とある、❝ある岩窟❞がここと考えられている所です。

を覚悟していたことが伺われます。土地勘を持った郷土の武士土肥 実平の導きが大きかったにせよ、この地域の地形も命を救った要因と言えるのではないでしょうか?                      

 

 


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