素晴らしい風景!!

色々歩いた山や国内の風景等をご紹介いたします。

⛰ 塔ノ岳から丹沢山へ ⛰

2021年05月21日 | 日本百名山

丹沢山塊の日本百名山である丹沢山 (標高 1567m)へ。

塔ノ岳の山頂は見晴らし最高である。                                         南側には大きく広がる『相模湾』が目に入り、南東方向には『江の島』や『三浦半島』が見える。

                                           西には霊峰『富士山』、北側にはこれから目指す『丹沢山』そして『蛭ヶ岳』が眺められる。

山頂の方位盤の回りには木製のベンチが沢山設置され、好きな景色を眺めながら休憩が取れる。

休んだら目的の『丹沢山』へ向かう。塔ノ岳出発 11時20分。

尊仏山荘の左側から北側に延びる縦走路に入って行く。

木製階段を下り、登り返して整備された木道を進むと日高に着く。通過 11時35分。

日高の先も平坦道や緩やかなアップダウンの登山道で、とても歩き易い。

もう時期が遅かったようだが、まだヤマザクラを見ることができた。

それと、これから本格的に咲き始めるシロヤシオ(ゴヨウツツジ)を発見、疲れている時に綺麗な花に迎えられると、疲れを忘れる。

この辺りの登山道の両脇はクマザサに覆われ、綺麗な山である。

鞍部に下り着き、ゆるい登りに差し掛かる所が竜ヶ馬場である。 通過 12時05分。

                                              テーブルベンチが沢山あるので、爽やかな 風に当たりながら休憩するのは最高です。            左手には大山が確認できます。

竜ヶ馬場から先は、緩やかなアップダウンを過ぎ、ブナ林を登り詰めると目的の丹沢山に到着である。

                                           しずくちゃん 形の丹沢山と記された石碑がむかえてくれた。到着 12時35分。

誕生日
大昔からいます(年齢はヒミツ♪) 
生まれたところ
丹沢の山奥
性別
女の子
しずくちゃん
すきな食べ物
おいしい水を使った食べ物
得意なこと
空を飛んで、山や川を見に行くこと
お仕事
かながわの水源環境を守るための取組を応援・PRすること
きらいなもの
光の入らない暗い森、大好きな森を燃やしてしまう火
 
                                        
山頂からの展望は良くないが 、広いのに驚いた。若い頃登ったことがあるけど、覚えている所は何もなかった。  休憩と昼食を済ませた。

山頂の東側には立派なみやま山荘 があり、トイレも設置され南寄りには1等三角点がある。

大倉駐車場から塔ノ岳を経由して丹沢山までは、一寸厳しかったが 花に迎えられると頑張れる。

目的の山頂を散策して休憩もし、 お腹を満たし、13時05分 塔ノ岳に向け出発 。

13時20分、西側からガスが上がってきた。

竜ヶ馬場通過、13時25分。塔ノ岳が見えてきた。

塔ノ岳着、14時10分。ここからはラインがつながるので下山報告を送った。出発 14時半。

金冷シ通過、14時43分。 花立山荘通過、15時。 堀山の家 15時35分~45分。

駒止茶屋通過、15時56分。 見晴茶屋通過、16時24分。 観音茶屋通過、16時40分。

大倉駐車場着、17時05分。

 

   ※ 訪問、ありがとうございます。

 

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▲ 大倉尾根から塔ノ岳へ ▲

2021年05月20日 | 丹沢山塊

小田急線 から見える塔ノ岳 (標高 1491m)を目指す。

丹沢主脈の南端に聳えて存在感を示し、アクセスも良く、主脈で最も多くの登山者を迎えている山です。

ここでは最短の大倉尾根から登る。                               塔ノ岳までの標高差は約1200mで、登山道は平坦な個所もあるが、ほぼ登り一方のハードな登りごたえのあるコースなので、マイペースで登るのが丁度良い。

大倉駐車場(出発 7時)から車道を北上して行くと10分ほどで丹沢大山国定公園と表示された大きな看板が右手に見え、分岐にぶつかる。

                                           右手に車道が延びているが、ここは直進しコンクリートの道を登って行く。

登山道は観音茶屋 (通過 7時半)を過ぎた所で分岐にぶつかるが、どちらを登っても先の雑事場という所で合流している。

雑事場からは尾根道となり、見晴茶屋前を通過 (7時50分)すると急な階段の登りが始まる。

                                               この辺りからは、登りと平坦な道が何回か繰り返しあり、急坂を登っている時の左手に駒止茶屋が見えてくる。

駒止茶屋前(休憩 8時30~40分)の急な階段状の道を登り切ると平坦な道となり、堀山の右手を巻く感じで進むと堀山の家前 (通過 9時)に出る。

堀山の家の所に分岐があるが左へは二俣に下る道で、ここは右への登山道を登る。

                                                急な階段を登り切ると大倉尾根では貴重な広場に出て、テーブルベンチがあり休憩に丁度良い。小草平と表示されていた。 小草平付近で見たミツバツツジ。

休んだ後は頑張って露岩帯の階段を、慎重に登る。上に広く空が目に入って来ると花立山荘前(通過10時10分)の広場に出る。 森林限界を飛び出したような展望良好な所である。

                                             花立山荘からも階段状の登山道や木道を登り、花立というピークから馬ノ背と呼ばれるヤセ尾根を通過して鞍部から登り返すと金冷シ(通過 10時半)という分岐に登り着く。

久し振りに歩いたせいか、金冷シの手前辺りから両膝の上部内側にある大腿四頭筋の痙攣が起こり、歩くのに支障が出た。                                          多量の汗をかいていたので 、水分補給はこまめに取ってはいたのだが足りなかった。         直ぐにスポーツ ドリンクを飲み、塩飴をなめ木製階段の登山路であり、腰掛けてマッサージやストレッチ運動を行った。これを繰り返しながら前進。

金冷シを左へ進むと『鍋焼きうどん』で有名な鍋割山荘のある鍋割山へ、塔ノ岳へは右に進路を取る。

                                             金冷シ分岐を登ってから鞍部に下り、再び整備された木製階段を登り詰めると塔ノ岳に到着(11時)である。

                                                山頂は広々しており展望最高。曇り空だったが富士山を見ることができた。

塔ノ岳の山頂からは ラインがつながるので、到着報告ができ大変便利です。

 

   ※ 訪問、ありがとうございます。 

 

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🔶長いトンネルを抜けたい !🔶

2021年05月15日 | 出来事

長いトンネルに入り1年半を過ぎた。どこに向かって、どこに出るのだろう

表題の様な緑豊かな、澄んだきれいな空気の中で、思い切り深呼吸のできる出口を期待したい。

大阪の医師は現状を保つのが厳しい。 看護師さんは、もうメチャクチャと嘆いていられる。他県でも、その様な声は聞かれます。

新聞 を読んだり、テレビ 放送を見ていて、合羽の様な防護服を着て病院内を走り回り、いつか自分もコロナウイルスに侵されるのではないか、と思いながらも看護に当たられる姿には頭が下がります。

今年に入り、大阪では東京を上回る勢いで変異型ウイルスが猛威を振るい、若年層から高齢者までと幅広い層で感染拡大し、年齢の高い方は入院の優先順位を下げざるを得ない状況となっているようです。

海外で実施されました『命の選別』です。

東京のある病院では2~3階の窓に「医療は限界、五輪やめて」・「もうカンベン、オリンピックむり 」と貼り出し、厳しい現状を伝えています。

その様な医療状況を知ってか知らずか、五輪の大会組織委員会は看護師500人を派遣するよう日本看護協会に要請をしたとのことです。

菅総理は五輪開催を推進すべく、高齢者向けの新型コロナワクチンの接種を7月末までに完了させると語ったが、当初のワクチン接種優先順位は 医療従事者となっていたのに接種対象の医療関係者480万人のうち5月7日までに2回接種が終了した人は約115万人(23.9%)にとどまっています。

医療関係者からは『既に医療崩壊は始まっている。』との発言があります。

なのに菅総理は東京五輪・パラリンピックについて「国民の生命と健康を守り、安全・安心の大会が実現できるように全力を尽くすことが私の責務だ。」と何度も申しております。

新聞では、首相は『どうして根拠なき楽観論に立てるのか?』

ワクチンもない。 クスリもない。     竹やりのTwitterイラスト検索結果。                                  タケヤリで戦えというのか。                                    このままじゃ、政治に殺される。

私たちは騙されている。                                             この一年は、いったい何だったのか。                                     いつまで自粛をすればいいのか。                                    我慢大会は、もう終わりにして欲しい。                                     ごちゃごちゃ言い訳するな。                                            無理を強いるだけで、なにひとつ変わらないではないか。                              今こそ、怒りの声をあげるべきだ。                    宝島社

全国の自治体1700のうち700の自治体は「7月末までにワクチン接種はできない。」と回答しています。(2021.5.10現在)                                                その最大の課題の一つが医師・看護師の不足で「打ち手」の確保ができない。とのことです。

日本は島国であり水際対策をしっかり管理すれば良いところ、まだ空港・港湾関係は解放され、政府がコロナウイルス対策として外国からの入国者に求めている位置情報の報告では、指示に従わない人が1日最大約300人に上るそうです。                                 その約300人に連絡が取れず、その人が体調悪化したのか?、感染したのか? ザル対策のため把握できていないようです。

こんな状況下で五輪はともかく、国民の生命と健康を守ることは可能なのでしょうか 

一日も早く、医療関係・保健所・役所・介護施設等の皆様が、マスクなしで綺麗な森の中をノンビリ歩ける日が来ることを祈っています。

また、1年以上もの長きにわたり、真綿で首を絞める様な休業要請や時短営業、それと似たような業種で営業可、不可など理由のハッキリしない差別で大打撃を受けている事業主の皆様に早くすっきりとした五月晴れの日が来ることを祈っております。

 

 

   ※ 訪問、ありがとうございます。

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🏯 石垣山一夜城 🏯

2021年05月11日 | ジオパーク

豊臣 秀吉が一夜のうちに城が出現したかのように見せかけたとの伝承から『石垣山一夜城』とも呼ばれています。 エッ 一夜で  

『小田原城を遮(さえぎ)る大樹を悉(ことごと)く切る。小田原城中より是を見て、笠懸山に附城一夜に成就せるに驚く』や 『面向きの松の枝ども切りすかしければ、小田原勢 肝をつぶし、こはかの関白は天狗か 神か 、かように一夜の中に見事なる館 出来けるぞや』「大三川志」や 「北条記」に記され、後の一夜城伝説を生んだとのことです。

才知と算勘の能力を生かして、草履取から次第に出世した豊臣 秀吉は織田 信長に仕えて活躍。

信長の後継者となり天下統一を進めた。                                     四国・九州を平定した後、東国の攻略に乗り出し、容易に従わない北条氏を討ち滅ぼすべく、諸大名に命じ大軍を率いて関東に攻め入った。

小田原北条氏を攻めることを決意した関白豊臣 秀吉は、天正18(1590)年3月1日に京都を発し、4月6日に箱根町の早雲寺に本陣を構え、その日のうちに笠懸山(石垣山)に登って小田原城を眺望しました。

周囲9Kmにわたり、壮大な堀と土塁で周囲を囲んだ小田原城を力攻めにするのは難しい と判断した秀吉は、長期戦の構えでこの場所に城を築城することを決めたとのことです。

普請は急ピッチで進み、5月14日には石垣ができあがって広間・天守などの作事に差し掛かる段階にあったことを、秀吉は妻の北政所(ねね)に手紙で知らせています。         6月9~10日には奥州の雄、伊達 政宗が普請中の石垣山で秀吉に伺候(しこう)したようです。

その時 政宗は前日には無かった白壁を「紙を貼ったもの」と見破り、秀吉を初めとする諸将に賞賛されています。(木村宇右衛門覚書)                                 そして6月26日、秀吉は本陣を早雲寺から石垣山に移しました。

築城については『聚楽又は大阪の普請を数年させられ候に不相劣様』と、聚楽第や大阪城に勝るとも劣らない普請工事であったことを秀吉自身が書状にしたためており、秀吉入城までに3ヶ月の築城期間を要した関東唯一の豊臣 秀吉の城郭です。

一夜城伝説の真意はともかく、人員を大量動員して築城を可能とする秀吉の権威と財力が、小田原北条氏が降伏する決定打となったようです。

小田原北条氏は、臣従を迫る豊臣 秀吉と交渉を続ける一方、小田原城をはじめ諸城を強化し、総動員態勢を整え、特に小田原城に城下の街ごと囲む全長9Kmに及ぶ長大な総構を構築し、決戦に備えていた。                                                結果的に交渉は決裂。                                                小田原北条氏は、国境線を固めると共に小田原城に主力を投入、更に領内100ヵ所以上に及ぶ支城の防備を固めて防衛体制を整えた。

小田原城の攻略に当たり、十分な兵糧・資金を用意して長期戦の構えで臨む秀吉は、壮大な石垣山一夜城に淀殿や参陣諸将の女房衆召し寄せ、また千利休らの茶人や芸能者を呼ぶなど長陣の労を慰めた。

豊臣方の軍勢は水陸あわせて約22万。                                 徳川 家康らを先鋒とする秀吉の本隊は東海道、前田 利家・上杉 景勝率いる北国勢が上野(こうずけ)国(群馬県)から北条氏の領国に侵攻。                                 長宗我部(ちょうそかべ)元親・九鬼 嘉隆らの率いる水軍が兵員・物資を搬送し、海上封鎖に従事した。

                                           総構により中世最大の規模を誇った小田原城には、約6万とも伝わる人々が籠り、豊臣 秀吉・徳川 家康をはじめ、織田 信雄・蒲生 氏郷・羽柴(豊臣)秀次・宇喜多 秀家・池田 輝政・堀 秀政など、名だたる戦国の英雄を迎え撃ち、3ヵ月余りに及ぶ攻防戦を展開した。

小田原北条方は、各地の諸城に籠って防戦し、機会を見て反撃に転じる作戦であったが、主力の籠る小田原城を封鎖されたまま各地の支城を撃破され 、次第に孤立していった。

天正18年7月に至り北条 氏直は城を出て降伏を申し入れ、自らの命と引き換えに籠城した一族・家臣や領民らの助命を願い出る。                                          この行動に秀吉は感嘆し、氏直の父 氏政とその弟 氏照には切腹を命ずるが、氏直の命は助け高野山への追放とした。ここに戦国大名 小田原北条氏は滅亡した  

石垣山一夜城の二の丸(馬屋曲輪)は、本丸(本城曲輪)と並んで最も広い曲輪で、中心部分と北へ長方形に張り出した部分及び東の腰曲輪部分の三つの部分からなっています。 

『新編相模国風土記稿』では二の丸として紹介されているようですが、伝承によれば馬屋が置かれ、本丸寄りには「馬洗い場」と呼ばれた湧水もあったようです。

井戸曲輪に行く道の直ぐ横には「櫓台跡」が残っています。

井戸曲輪は、もともと沢のようになっていた地形を利用し、北と東側を石垣の壁で囲むようにして造られています。

                                           こちらの石垣は特に当時の姿を留めている部分との事で驚きです。                                          井戸は二の丸から25mも下がった所にあり、今でも湧き出る水を見ることができます。

石垣山一夜城は、高い石垣で築かれた東国で最初の近世城郭とのことです。            石垣は、あまり加工されていない石を用いた野面積(のづらづ)みで、築城に際して西国から穴太衆(あのうしゅう)と呼ばれる石工集団が派遣されていたことが文書に記されているそうです。

 

※ 訪問、ありがとうございます。

 

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🏞 藤原範茂史跡公園 🏞

2021年05月03日 | ジオパーク

鎌倉時代、公家(朝廷)が武家(幕府)への討幕の兵をあげ、朝廷の復権をめざした。

北条 義時が鎌倉幕府の執権の時に、巨大な軍事力を有していた後鳥羽上皇は朝廷の復権をめざして種々の政策を断行していった。                                         壮大な皇室荘園領を手中におさめた上皇は、その経済力で西国の武士や御家人たちを誘った。

後鳥羽上皇は勝気な性格で武芸を好み、盗賊逮捕の現場に加わり、自ら賊をねじ伏せたという伝説をもつほどの人物であったようです。

1219年、将軍 源 実朝が鎌倉で暗殺された。これにより、源氏将軍の血統は3代で絶えた。                                         幕府の実権は北条 義時が握っているとはいえ、将軍あっての北条氏であり、東国の武士すべてが北条氏に心服している訳ではなかった。                                 「いま突けば、幕府は崩壊する」・・・・。 

そう後鳥羽上皇は判断し、討幕の兵をあげることを決意。                             1221年、周到な準備のもと北条 義時追討の院宣(上皇又は法皇の命令を受けて出す公文書)を全国に下した。

畿内の御家人や西国武士が朝廷に味方したものの、東国武士は誰ひとり後鳥羽上皇の誘いに応じなかった。                                                 確かに鎌倉の御家人たちは院宣を受けてかなり混乱した。

だが、この時にあって武士たちの動揺を静め、彼らを一致団結させた女性がいた。          頼朝の妻で尼将軍といわれた北条 政子である。                                    彼女は御家人たちを一同に集め、次のように熱弁をふるったそうです。

『朝廷から差別され搾取され続けた武士たちを、現在の地位に引き上げたのはだれか。それは頼朝ではなかったのか。 その恩に報いるのは、まさに今である。                                                           もし朝廷に従う者あれば引き留めはしない。 申し出よ。                  ただし京都におもむく際には、私を斬り捨てて行きなさい。』                             

かくのごとき涙ながらの 訴えに、御家人たちは感じ入り、結束を固くして大軍で上方へ攻めのぼり、朝廷軍を打ち破ったのである。

一方、後鳥羽上皇は院宣の効力で、直ぐに幕府が崩壊するものだとたかをくくっていたため、大挙して上洛した幕府軍にあっけなく敗れ去った。                             後鳥羽上皇は捕縛されて隠岐へ流され、1239年、同地で死去した。

前記の争いが承久3(1221)年《承久の乱》といわれています。

この戦乱の結果、朝廷と幕府という公武の二元政治が終焉し、武家の全国政権がついに確立されたとのことです。

この戦乱後、上皇側の公卿(くぎょう)で参議であった藤原 範茂(のりしげ)卿はとらえられて京都から鎌倉に送られる途中、足柄峠を越えて関本に至り、明日はいよいよ鎌倉です。                            着くと、そこで首を切られてしまいます。

この頃、仏教の考え方では、首と胴が離れてしまった者は極楽に行けないというのです。   範茂卿は役人に頼み近くの清川(現在の貝沢川)で死なせてもらうことにしました。      着物のたもとや、ふところに石を入れ、清川をせき止めて入水し最後をとげたとのことです。

役人たちも哀れに思い高台に葬りました。                            それが、この宝篋印塔(ほうきょういんとう)のある場所です。

辞世の歌に

     思いきや 苔の下水 せき止めて

           月ならぬ身の やどるべきとは

                      と残されています。

 

                  ※参考図書「早わかり日本史」河合 敦著

 

  ※ 訪問、ありがとうございます。         

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