素晴らしい風景!!

色々歩いた山や国内の風景等をご紹介いたします。

国道141号の春

2010年04月27日 | 春景色

国道141号は、山梨県韮崎市から長野県上田市に至る一般国道である。           佐久甲州街道と言う別名もある。

一般国道に制定されたのは、1965年4月1日で総距離104.9km。今から45年前の事である。

韮崎より緩やかに上り出し、八ヶ岳連峰の東側山麓をまわり、清里、野辺山と言った高原地域を通過する。                                     その野辺山は4月と言うのに当り一面雪化粧であった。

山梨県内では大部分を須玉川、そして長野県内では大部分を千曲川に並行している。陽気も良くなり、モグラも活動開始の様である。

迫力ある八ヶ岳連峰を望み、牧場や高原野菜畑の中を走るのどかな国道である。

 

 

 


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🏯 小田原城 🏯

2010年04月15日 | 史跡・名勝探訪

小田原城が初めて築かれたのは、大森頼春氏が小田原地方に進出した15世紀中頃と考えられています。

16世紀初め頃に戦国大名小田原北条氏の居城となり、関東支配の拠点として次第に拡張されました。

豊臣秀吉の小田原攻めに備えて築造され、城下町を囲む延長9Kmに及ぶ総構の出現により、城郭の規模は最大に達しました。

北条氏滅亡後、徳川家康の家臣大久保氏が城主となると、城は近世城郭の姿に改修されたようです。                                       大久保氏改易後に城は破却されますが、寛永年間に稲葉氏が城主となると再び改修工事が実施され、城の姿は一新したとの事です。

その後再び大久保氏が城主となりますが、元禄16年(1703)に発生した大地震により天守をはじめ城内の各施設はほぼ倒壊・焼失していますが、本丸御殿等を除き再建され、小田原城は関東地方の防御の要衝として幕末まで存続しました。

明治3年(1870)に小田原城は廃城となり、売却された後、次々と解体され城址は御用邸時代を経て地元自治体に払い下げられ現在に至っている様です。

現在の小田原城跡は、本丸・二の丸の大部分と総構の一部が、国の史跡に指定されています。また、本丸を中心に「城址公園」として整備され市民に開放されています。

 

コメント (2)
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🏯 国宝・姫路城 🏯

2010年04月11日 | 世界遺産

1993年12月、姫路城は法隆寺地域の仏教建造物とともにユネスコの世界遺産委員会で我が国で初めて世界文化遺産に登録されました。

これは姫路城が、我が国の築城技術が高揚期を迎えた江戸時代初期に造営された最も完成された城郭建築であり、壮麗な連立式の天守閣群をはじめ数多くの建物が築城当時のままの美しい姿で今日まで残る唯一の城としてその普遍的価値が認められたものだそうです。

姫路城が長い歴史の中で一度も戦や大きな災害に遭うことなく奇跡的に生き残り、多くの人々の努力と熱意によって保存・整備されてきた結果であります。

姫路城の生い立ち                                播磨の守護職「赤松 則村」が元弘3年(1333)ここに砦を築き、その子貞範が正平元年(1346)城を構えたことに始まり、その後小寺氏、黒田氏が守ってきたようです。                                 最近の研究で築城は16世紀中頃の黒田重隆・職隆の時とする説もあるようです。

黒田官兵衛孝高のとき、彼の勧めで羽柴秀吉が天正8年(1580)西国攻略の根拠地として入城し、翌9年3層の天守閣を完成させました。

その後、羽柴秀長、木下家定と続き、関が原の役後、徳川家康の女婿「池田輝政」(52万石)が入封し、慶長6年(1601)から8年の歳月を費やして南の外堀を現在のJR山陽本線付近とする程の大きな規模に城域を拡張し、姫山に5層7階の天守を築きました。

池田氏3代のあと入封した本多忠政(15万石)は、長男忠刻とその室「千姫」(徳川秀忠の長女)のために、西の丸を整備して、元和4年(1618)今日に見る姫路城の全容が整備されたとの事です。

その後、城主は松平氏、榊原氏と変わり、酒井氏が寛延2年(1749)入封して明治維新を迎えました。

現在、大天守と三つの小天守、これらを結ぶ渡櫓(以上「国宝」)をはじめ、化粧櫓など櫓27棟、門15棟、土塀約1,000m(以上「重要文化財」)の建造物と、内濠・中濠の大部分が残っており、中濠以内は特別史跡に指定されています。

約半日、自分がどこにいるのか?分からなくなるほど天守や城内外を歩き回った。         工事現場の人は既に工事の準備に取り掛かっている。                                                        3月までは工事用クレーンも観光客に配慮して景観を損なわないように運転して下さっていたが、今後約5年は姫路城(白鷺城)の雄姿はお預けです。

 

 

 

 


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🏯 姫路城天守に登城 🏯

2010年04月09日 | 世界遺産

城のシンボル「天守閣」。ところが、その全てが築城当時そのままに残っているわけではありません。

江戸時代までに建てられた木造天守が現在まで残っているものを《現存天守》と言うようです。                                     それが全国に12ヵ所あるのみで、姫路城・松本城・彦根城・犬山城の4ヵ所が国宝で残りの8ヵ所が重要文化財に指定されているとの事です。

平成22年4月より大天守の修復工事が5年の歳月をかけて実施されると聞き、慌てて3月駆け足で登城してみた。

大阪城や名古屋城と他にも沢山の城があるが、みな鉄筋コンクリート造りで天守の中はエレベーターが有ったり、歴史博物館と言った城である。

ところが、この姫路城は大天守・小天守・渡櫓・門など城の主要部分が築城当時のまま残っている。それも今から400年も前のものである。             上の絵は天守閣最上階の長壁神社と言います。                  この天守の丘にあった地主神で、築城の際城外へ移されたのが、神のたたりがあると城内に戻されたもので、宮本武蔵の妖怪退治の伝説があるようです。

想像するだけでも、ウキウキ、ワクワク、ドキドキで登城した。           敵に一気に攻め込まれないように、幾つもの狭い階段や門を通り、大天守までは曲がりくねった通路を進む。

天守閣は外観5層、内部は地上6階・地下1階だそうです。              その天守閣は直径1m近い2本の柱で支えられています。そんな事で1層ごとに狭く急な階段を昇る。階段の堅い木も400年の歴史を経て、丸みを帯びていた。

廊下や階段を羽柴秀吉・羽柴秀長・木下家定・池田輝政等が行き来したんだろうと想像しながら歩いていると、つい自分の手で階段や柱に触れ、感慨深いものがあった。

将軍「徳川秀忠」の長女《千姫》は、大阪落城の後、本多忠刻に再嫁して姫路城西の丸で幸せな日々を過ごされたようです。                            化粧櫓や長局(百間廊下)が今もその名残りをとどめています。

 

 


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🏯 歴史探訪「大阪城」 🏯

2010年04月04日 | 史跡・名勝探訪

最初に建造したのは豊臣秀吉だが、当時の遺構は地中に埋もれており、現在残る櫓、石垣などは徳川時代のものとの事です。

天守は1931年に市民の寄付などで復興され、以来大阪のシンボルとして親しまれているようです。

大阪城は復興天守と言われ、資料を基に天守を再建したものの、かつての外観とは大きく隔たりがあるもの。                                   もしくは、往時の資料がほとんど無く、その姿を想定して再建されたものの、どちらかのようです。

動乱の歴史を刻む大阪城

大阪本願寺の時代                                    明応5年(1496)、浄土真宗の蓮如上人が今の大阪城付近に一つの坊舎を営んだ。   これはやがて大阪本願寺という大寺院に成長し強大な勢力を誇ったが、天正8年(1580)天下統一をめざす織田信長に屈し、寺院や寺内町は炎上した。

豊臣時代の大阪城                                織田信長没後、政治の主導権を握った羽柴(豊臣)秀吉が天正11年(1583)、大阪本願寺跡に築城を開始。                                  天下人の居城にふさわしい大城郭を築き上げた。                  しかし秀吉没後、政権は徳川家に移り、慶長20年(=元和元年・1615)の大阪夏の陣により落城した。

徳川幕府による再築                               大阪城は2代将軍秀忠の命により、元和6年(1620)から10年の歳月をかけて全面的に再築された。                                  寛文5年(1665)に天守を落雷によって失ったが、幕府の西日本支配の拠点として大きな役割を果たした。明治維新の動乱で多くの建造物が焼失した。

昭和の天守閣復興                                明治以後、大阪城は陸軍用地として使われた。                       その中にあって昭和6年(1931)、市民の熱意によって現在の天守閣が復興され、博物館施設として現在に至っている。                                大阪城一帯は第二次世界大戦の空襲によって損害をこうむったが、戦後は史跡公園として整備されたとの事です。

 

 

 


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🏯 名古屋城 🏯

2010年04月02日 | 史跡・名勝探訪

お城を見てみたいと思い、出かけてみた。                          「金の鯱(しゃちほこ)」で有名な名古屋城は、尾張徳川家の居城として1612年に完成。                                                      城郭の規模では全国屈指の大きさを誇り、《尾張名古屋は城でもつ》とうたわれた

                                              太平洋戦争の空襲で天守が焼失し、現在のものは復元である。            復元天守とは火災や破却などで天守が一度失われ、その後資料をもとに外観をほぼ元通りに再建したもので、多くは鉄筋コンクリート製である。

城の生い立ち                                     名古屋城は、関が原の合戦後江戸幕府を開いた徳川家康が、東海道の要所として、また大阪方への備えとして、清須から名古屋へ遷府を決定し、慶長15年(1610)加藤清正・福島正則・前田利常等北国・西国の諸大名20名に普請(土木工事)を命じ、天守閣や諸櫓の作事(建築工事)は、慶長17年(1612)に、ほぼ完成した代表的な平城です。            その後、明治維新を迎えるまで名古屋城は、御三家の筆頭尾張徳川家の居城として栄えたようです。

第二次世界大戦中の昭和20年(1945)5月、名古屋空襲の際、大・小天守閣、本丸御殿はじめ建物のほとんどが焼失しましたが、幸いにも焼失を免れた三つの櫓(西北・西南・東南)、三つの門(表二之門・旧二之丸東二之門・二之丸大手二之門)と本丸御殿障壁画の大部分は、重要文化財として現在に伝えられています。                              現在その本丸御殿を平成の市民普請により2018年(平成30年)の完成を目指して復元工事が始まっています。

名古屋城でもっとも名高いのは金鯱(きんしゃち)です。                          城の大棟に鯱(しゃちほこ)を掲げる事は室町時代の後期、城郭形態の完成した頃から始まったと言われています。

                                              当時は火除けのまじないであったものが後には城主の権威の象徴として大棟に飾られたようです。

 

 


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