素晴らしい風景!!

色々歩いた山や国内の風景等をご紹介いたします。

🐾 旧東海道:大磯宿 🐾

2025年03月13日 | 日本の歴史

大磯宿は、東海道に宿駅伝馬制度が制定された慶長6年(1601)に平塚宿・小田原宿と共に開設された、江戸から8番目の宿場です。

ですが、江戸を発った旅人の多くは保土ヶ谷宿戸塚宿で一泊し、翌日は小田原宿に宿泊する場合が多く、遊行寺や大山・江ノ島詣でなどで栄えた藤沢宿のような観光拠点でもなかったので、あまり繫栄した宿場ではなかったようです。

宿場としてのご案内は少なく、大磯は明治時代に入り、日本最初の 海水浴場 の開設を契機に大磯駅が造られ、保養地・別荘地として発展し、政財界要人の別荘や邸宅が多く建てられ、歴代首相が8人も住んでいました。                            大磯に住んだ歴代首相には、伊藤博文、山県有朋、大隈重信、西園寺公望、寺内正毅、原敬、加藤高明、吉田茂などがいます。

また、島崎藤村など文化人も住んでおり、宿場以外の歴史もご紹介させて頂きます。

                            

江戸時代後期における大磯宿の宿場規模は、人口 3,056人、家数 676軒、本陣 3軒(小嶋・尾上・石井)、旅籠 66軒で、問屋場は北本町と南本町の2ヶ所にありました。         『東海道宿村大概帳より』

                        

地福寺                                                   山号は船着山円如院地福寺と称し、京都の東寺に繋がる真言宗の寺院です。

 

境内の一角には、晩年を大磯で過ごした島崎藤村のお墓があります。

この寺から見える光る海と境内の梅林は藤村が非常に気に入っていた場所で、生前 自らの墓所として希望していたそうです。                                  今では梅の名所として知られ、樹齢 100~200年の古木、約 20本に囲まれて藤村夫妻の墓碑が建てられています。

藤村の遺髪と遺爪(いそう)は故郷の馬籠にある島崎家の菩提寺「永昌寺」に分葬されているそうです。

 

小嶋(おじま)本陣跡                                                   本陣とは、宿場において参勤交代の大名、公家、公用の幕府役人などが休泊する施設で、豪壮な門構えや玄関、書院造りの上段の間などを備えていました。

延台寺                                                       山号 教山(ぐうきょうざん)延台寺とと称する日蓮宗の寺院です。                        寺伝によれば、曽我十郎祐成(すけなり)の恋人であった虎御前(虎女)が十郎亡き後、尼となり十郎供養のため高麗山(こまやま)北麓の虎池の傍らに小さな庵「法虎庵」を結んだのが始まりといわれ、永禄年間(1558~1570)に、この地に移されたとされています。

境内にある「虎御石(とらごいし)」は、虎女の父親 山下長者が子宝のお告げとして授かったもので、初めは小さな石でしたが虎女の成長と共に大きくなったと云われています。      後に十郎が工藤祐経の刺客に矢を射掛けられた時、この石の陰に隠れ、矢は石に刺さって難を逃れたと伝わります。

以来この石は「身代わり石」と呼ばれ『東海道名所記』に取り上げられています。

 

松本順謝恩碑                                       明治 18年(1885)軍医総監を退官した松本順は、「国民の健康増進と体力向上」のため照ヶ崎海岸に日本最初とされる海水浴場を開きました。                            海水浴場には西洋の様に病院があるべきとして、海水浴客のために建てられた旅館「祷龍館(とうりゅうかん)」に診療所を併設して自ら診察にあたったと云われています。           建設資金の不足は会員を募集して捻出し、会員には渋沢栄一・安田善次郎・榎本武揚・原善三郎ら東京や横浜の名士が名を連ねていたそうです。                             明治維新以降寂れる一方であった大磯は海水浴場開設によって息を吹き返し、国府津まで鉄道が開通し大磯に駅ができると、保養地として更には別荘地として発展していきました。

 

新島襄終焉の地                                              新島襄は明治 8年(1875)に同志社英学校(後の同志社大学)を設立した教育者であり宗教家です。                                                    大学設立準備のため東奔西走中の明治 22年(1889)11月、心臓病を 悪化させて大磯の百足屋(むかでや)旅館の別館「愛松園」で静養していましたが、翌年1月、46歳11ヵ月の生涯を閉じました。                                            石碑は百足屋旅館の玄関だった場所に建てられています。

 

鴫立庵                                                     鴫立庵は寛文4年(1664)小田原の外郎(ういろう)の子孫であった崇雪が、西行法師の有名な歌『心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕ぐれ』に詠まれている沢らしい面影を残し、しかも景色の優れているこの場所に草庵を結んだのが始まりといわれています。   元禄 8年(1695)俳人 大淀三千風が庵を再興して入庵、鴫立庵一世となり、今日まで続いています。

鴫立庵は京都の落柿舎・滋賀の無名庵と並ぶ日本三大俳諧道場の一つであります。

令和元年(2019)8月より 23世の現庵主に本井 英(もといえい)さんが就かれています。

 

上方見附                                                   大磯宿の上方見附は東小磯村加宿のはずれにあり、現在の「統監道」バス停付近にあった。 そこが宿場の出入口であり、標示の御料傍示杭が立っていた。                  この見附は平和な江戸時代に防御施設としての役目は無くなり、旅人に宿場の出入口を示す役目を果たすようになった。

見附とは本来城下に入る見張りの門のことでありますが、江戸時代の宿場の出入口にも見附を置き宿場を守る防御施設として造られた。                                    街道を挟んで両側に台形状に石垣をもって造られ 、高さは約 1.6mで、その上に竹矢来が組まれていました。                                               宿場の京都側にあるものを「上方見附」、江戸側にあるものを「江戸見附」と呼んでいました。

 

 

旧島崎藤村邸                                                   島崎藤村は近代日本文学を代表する一人で小説『破戒』・『夜明け前』、詩集『若菜集』などが有名です。                                             藤村と大磯の関わりは、昭和 16年1月 13日、神奈川県湯河原町に休養に訪れる途中、友人に誘われ大磯の左義長見物に立ち寄った時といわれています。                       大磯と この家をすっかり気に入り、ここでの生活を決意し、2月 25日に敷地面積 145坪に建つ 24坪の長屋を毎月家賃 27円で借り受け、翌年の8月には、当時のサラリーマンの約 30年分の給料に相当する1万円でこの邸宅を買い取り、終の棲家とされたとのことです。      『余にふさわしき閑居なり』

藤村邸は大正後期から昭和初期にかけて建築され、周辺には同じような貸別荘が数軒あり、一帯は「町屋園」と称されていました。

静子夫人宛ての書簡の中で藤村はこう表現しています。

小さいながらも素朴な冠木門を通れば、割竹垣に囲まれた小庭、そしてわずか三間(みま)の古びた平屋建ての民家が目に入ります。                                      昭和初期の一般家庭よりも天井の高さが一尺ほど低く茶室風に造られた四畳半の小座敷は、書斎として使われました。                                          『萬事閑居簡素不自由なし』 

この部屋からは簡素を信条とする藤村の気配りが最も感じられます。                      夫人は「大磯の住居は 50年に及ぶ主人の書斎人としての生活の中で、最も気に入られたものだったろう」と述べられていたそうです。

しかし、昭和 18年(1943)8月 21日に小説『東方の門』執筆半ば脳溢血で倒れ、翌日午前0時 35分に 71歳の生涯を閉じました。                                    静子夫人に告げた 「涼しい風だね」 が最後の言葉となったそうです。

 

東海道松並木                                                小田原に向かって樹齢 400年ほどの松並木が続きます。

江戸時代、幕府は東海道を整備して松並木、一里塚、宿場をもうけ交通の便を良くしたので、参勤交代や行商、お伊勢参りなどに広く利用されました。                         松並木は、今から 400年前に諸街道の改修の時に植えられたもので、幕府や領主に保護され約 150年前頃からは厳しい管理のもとに、立ち枯れしたものは村々ごとに植え継がれ大切に育てられてきたものです。                                                 この松並木は、このような歴史をもった貴重な文化遺産となっています。

 

 

 

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🏞 駿府城公園 🏞

2025年03月04日 | 日本の歴史

今川義元 全盛の時代 天文 18年(1549)に、徳川家康は人質として 19歳までの 12年間 駿府で暮らし、また晩年も「大御所」として 65歳から亡くなる 75歳までの 10年間を駿府で過ごされました。

 

 

その駿府城公園で、城跡天守台の発掘調査公開中とのことで見学してきました。

駿府城の歴史                                                    現在の駿府城公園周辺には駿河国の戦国大名 今川氏の館があったと考えられています。     今川義元が当主の頃、松平竹千代(家康の幼名)は駿府で暮らしていました。         永禄3年(1560)義元が桶狭間の戦で織田信長に討たれると今川氏は衰退し、永禄 11年(1568)に武田信玄により駿府を追われ、翌年 今川氏は滅亡しました。                       その後、武田氏が滅んだ後、5か国を領有する大名となった家康は天正 13年(1585)に駿府城築城を開始、天正 14年(1586)に浜松から駿府に移ります。                                 発掘調査では、金箔瓦と天守台が見つかっており、金箔瓦が葺かれた天守や石垣のある城であったと考えられています。                                             天正 18年(1590)家康は江戸に移り、秀吉家臣の中村一氏(かずうじ)が入城しました。    慶長 12年(1607)大御所となった家康は江戸から駿府に移り、全国の大名を動員し天下普請による大改修を開始しました。                                             二ノ丸までであった城の範囲を拡張し、三重の堀がめぐる輪郭式の城として整備しました。  家康の死後、天守は焼失し、設計図が残されていないため、その姿は謎に包まれています。  幕末まで幕府が直接管理していましたが、明治時代になると廃城となり、現在 本丸と二ノ丸の跡は、駿府城公園として整備されました。

駿府城の構造は、三重の堀が巡り、堀に囲まれた曲輪を内側から「本丸」・「二ノ丸」・「三ノ丸」とする典型的な輪郭式の縄張りとなっています。                                    現在 三ノ丸は、おもに公共施設が建ち並び、本丸と二ノ丸が駿府城公園となっています。

公園自体が広く大きいので入口が良く分からず、着いたところが北御門                      北御門は門を入ると石垣による枡形風の空間を通り、二ノ丸内部へと入り、本丸を囲んだ内堀は発掘調査のため堀の水はありませんでした。

家康による築城当時「小天守台」にどのような建物が有ったのかは良く分かっていませんが、絵図(駿府城御本丸御天守台跡之図)には、天守台へと登る階段や石垣などが描かれていることから、天守台を防御する機能を果たしていたと考えられています。

なお、ここから見える石は、石垣の最も下にある石(根石)で、江戸時代には地中に埋まっていた石とのことです。 

 

 

過去の発掘調査から、天守台があった場所には室町~戦国時代の今川氏の本拠地であったと推定されていました。                                                      天守台発掘調査でも、天正期(豊臣方)天守台の内部からは今川期の遺構と遺物が発見されたようです。                                                        発見された遺構は、断面がV字状になる薬研堀と窪地状(または池状)の遺構とのことですが、広い発掘現場の外側からしか見られず、よく見えないのが残念であった。

地上に姿を現した石垣も大御所家康が慶長期に築いた石垣と、それより古い時代の天正期に築いた石垣の作り方が異なっているそうです。

慶長期の石垣は加工した石を積む「打込接(うちこみは)」という工法を使用し、石垣の勾配(傾き)は比較的急となっています。                                一方、天正期の石垣は自然石を積む「野面(のづら)積み」という工法を使用し、石垣の勾配は比較的に緩やかとなっています。

打込み接(は)ぎ                                                      石の角を叩いて割り、割り石(矢穴を開けて割る)をもちいて石垣を築く方法です。             石の隙間には間詰め石を詰めています。

切込み接(は)ぎ                                                  切石(加工石)で石垣を築く方法です。

石垣の『刻印』                                                   石垣に使われている石材には『刻印』と呼ばれるさまざまな文字や記号が刻み込まれています。この刻印の役割は、石垣の工事に携わった大名の家紋を刻んだものや、石を積んだ職人のサインで、作業を担当した場所を表していたとされています。                                  ほかにも、石材の原産地を表していたり、奉行の名を記したり、その役割は今も研究されています。                                                          駿府公園(駿府城)で発見された刻印の数と種類は300以上あったとのことです。

最も多く見られる刻印 

大御所となった家康が全国の大名に声掛けして行った天下普請であり、駿府城で発見された『刻印』の数と種類が300以上もあったということは、各大名が我先にと駿府へ馳せ参じたことが良く分かります。

 

 

駿府城の刻印 - 検索 動画

 

 

 

 

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▲ 静岡浅間神社から賤機山ピストン ▲

2025年02月18日 | 宮詣で

東海の日光 『おせんげんさま』 を参拝しながら、市民憩いの山『賤機(しずはた)』を歩いて来ました。                                                神部(かんべ)神社・浅間(あさま)神社及び大歳御祖(おおとしみおや)神社の三社を総称して 静岡浅間(しずおかせんげん神社(通称:おせんげんさま) と申し上げ、いずれも御創祀は千古の昔にさかのぼり、駿河国総社として広く信仰されています。

 

総漆塗り極彩色の豪壮華麗な社殿群で26棟が国の重要文化財に指定され、「おせんげんさま」 という名称で江戸時代の庶民からも信仰を集めていました。

                          

石鳥居から総門を通り境内へ、色彩豊かな楼門が現れる。

回廊内の舞殿は見られましたが、本殿・大拝殿は工事中で見ることはできませんでした。

舞殿前から左の南回廊を通り、スポーツ・武道・開運・必勝の守護神である 八千戈(やちほこ)神社 へ   

こちらの神社境内には七つの神社が集合しており、各神社を参拝してから賤機山に向かった。

賤機山古墳に8時半着。                                     古墳は静岡平野の中心部に突き出た尾根の、賤機山南端に造られています。                   葬られた人物は特定できていないようですが、6世紀後半に この地方を治めた有力な豪族の墓と考えられています。

古墳の形は、直径約 32m・高さ約7mの円墳で、内部には巨大な横穴式石室が造られ、石室内には遺体を納めた家形石棺が置かれています。

古墳から尾根道を少し上がった所に「麓山(はやま)神社」が鎮座。                                  こちらは山をつかさどる神、大山祇命(おおやまつみのみこと)を主祭神とし、日本武尊を配祀しています。                                          山を歩く者として必ず❝大山祇命❞を祀る神社は参拝をしています。

古来、賤機山上に鎮座され、「山宮」と称された麓山神社に安全登山の祈願をし、尾根を北上する。

8時 50分、登山道の右手が開け北東方向の雲の切れ間に富士が望めた。

9時丁度、第二次世界大戦の戦没者の菩提を弔う救世観音菩薩像に到着。                     清水市は、昭和 19年 11月5日や昭和 20年6月 19日に大型長距離爆撃機 B-29により大空襲を受け、壊滅状態となりました。                                           そしてここ静岡市随一の名勝地賤機山の聖地に御霊の冥福と共に静岡市民の安泰と子孫繁栄、曳いては世界人類の平和と幸福を念願し建立されたとのことです。

礼拝後、更に尾根を北上した。                                          この尾根は静岡平野に突き出た尾根であり西風が強く、花粉症の方でしょうか? マスクやゴーグルをつけ頑張って歩かれていました。

低山なので沢山の方が歩かれる様で登山道はハッキリしていました。                      ただ尾根上には、低山とは思えない立派な大木が連なっていました。

9時 22分、賤機山(標高 171m)山頂にある 賤機山城跡」に到着。                         賤機山城は南北朝の動乱期(14世紀)に北朝方の今川氏が安倍川西岸の安倍城に本拠を構える南朝方の狩野氏に備えて築き、南北朝期以後は今川館の詰城となり、永禄 11年(1568)には武田信玄の駿府進攻によってその支配下へ、更に天正 10年(1582)の徳川家康の駿府入りにより廃城となったとのことです。

城は南北に続く賤機山の主尾根上及び、そこから派生する支尾根上に築かれており、範囲は東西約400m、南北約600m以上にわたり、要所には尾根を横切る形で大小の堀切が設けられ、敵の容易な侵入を防ぐ形の様です。

 

時間的に早かったので、更に北上した。

10時、静清バイパスを越えて見晴らしの良い場所に出た。安倍川の上流を望む。

何の標示もなく、この先は同じ様な尾根歩きが続きそうなので引き返すことにした。 

 

 

 

 

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🐾 旧東海道:平塚宿 🐾

2025年02月14日 | 日本の歴史

江戸から7番目の宿場で、日本橋からは 16里(62.8Km)の所に 平塚宿 があります。

江戸から6番目の藤沢宿からは3里 18町(13.7Km)にあり、途中、茅ヶ崎一里塚から間宿(あいのしゅく)南湖を過ぎ、舟渡し の相模川(河口付近は馬入川と言います。)を渡れば、高麗山(こまやま)が近づいてきて間もなく『平塚宿』に入ります。

次の大磯宿までは 27町(2.9Km)と大磯宿に大変近い所に造られました。

当時の旅人は一日平均 10里(約 40Km)を歩いたようです。                            所が、これほど近い所に藤沢宿~平塚宿~大磯宿と宿場が造られた理由に、平塚が隣村の中原にあった徳川家康の中原御殿並びに中原代官陣屋から東海道にもっとも近い場所だったからと考えられています。

中原御殿は家康が鷹狩りや江戸と駿府の往来のために築かれました。

江戸時代後期の平塚宿の規模は、問屋場2ヶ所、本陣、脇本陣 各1軒、旅籠 54軒、家屋数 443軒、人口 2,114人で東海道の宿場の中では規模が小さい方であったようです。

平塚の歴史は、地震津波、富士山の 噴火、空襲など多くの災害を乗り越えてきました。                                                                                                                                                「湘南ひらつか七夕まつり」 は第二次世界大戦末期の平塚大空襲からの復興を願い始められたとのことです。                                              その平塚が災害とどの様に向き合ってきたのか❓ その一部も見て来ました。

                            

平塚駅東口を 9時 20分、出発。                                          まずは駅から東寄りにある相模川に向かいました。                               かつての相模川には 60ヶ所を超える渡船場があったと云われています。                       この馬入の渡しもその一つで、旅人は渡船によって馬入川を行き来していたとのことです。

例外的に将軍の上洛、朝鮮通信使の来朝の時は、川に船を横に並べこれを繋いでその上に板を並べた「船橋」を架けて渡河したようです。

                                      

平塚八幡宮                                                    古くは鶴峰山八幡宮と言われ、相模国八幡庄の総鎮守です。

馬入村、八幡村、平塚新宿の鎮守でもあり、祭神は八幡大神(応神天皇)、神功皇后(応神天皇の母)、武内宿禰(すくね)の三柱です。                                             祭神の応神天皇は大陸文化を積極的に取り入れ、その結果、国勢が大いに発展したことから、国家鎮護、文化発展の神とされています。

平安時代後期、武士の台頭と共に武運長久の神として崇拝され、特に源氏が八幡神を氏神としたため全国に信仰が広まったようです。                                        また、平塚八幡宮は応神天皇とその母を祀っていることから、子宝、安産、子育ての神徳もあるとされています。                                              建久3年(1192)源頼朝は妻 政子の安産祈願のために神馬(しんめ)を奉納しています。

八幡山の洋館                                                  日露戦争後、日本海軍は無煙火薬国産化の必要性を痛感し、広大な遊休地のあった当時の平塚町にイギリスの三社との合弁による日本火薬製造株式会社を設立しました。                   この洋館は、その敷地内にイギリス人技術者の食堂・ホールとして明治 45年(1912)に建築されたものです。

大正8年(1919)日本火薬製造(株)の全施設は日本海軍により買収され海軍火薬廠となり、第二次世界大戦後は旧火薬廠の土地、建物はアメリカ軍により接収、昭和 25年(1950)には横浜ゴム(株)に払い下げられ、平成 16年(2004)横浜ゴム(株)より平塚市が譲り受け、八幡山公園に移築され、平成21年(2009)に一般公開されました。

建物は木造平屋建てで、塔屋のドーム、アーチ状の窓、二方向のベランダ、ドイツ下見板張りの外壁などが特徴です。                                               平塚市内では唯一の明治時代の洋風建造物で、国の登録有形文化財に登録されています。

『番町皿屋敷』のお菊                                                皿屋敷伝説のモデルといわれる 「お菊」 のお墓です。                               お菊は平塚宿役人 真壁源右衛門の娘で、江戸の旗本 青山主膳方に奉公中、青山家秘伝の唐絵の皿を紛失し、主人に斬り殺されたとされています。

井戸から夜な夜な聞こえる皿を数える うらめしい声。                                「いちま~い、にま~い・・・」でおなじみの 『番町皿屋敷』。                   大切な絵皿を割ったという濡れ衣を着せられ若くして処刑されてしまった主人公「お菊」のモデルは平塚出身だそうです。

平塚宿の伝承では、その亡骸は長持ち詰めとなって江戸から送られ、馬入の渡しで父親の源右衛門に引き渡されました。                                                お菊は評判の美人でしたが、源右衛門は変わり果てた娘の姿を見て、「もの言わぬ 晴れ着姿や すみれ草」 の一句を添えて涙し、祖先の墓の傍らに埋葬したとのことです。

 

江戸方見附跡                                                かつて江戸方見附のあった場所に、近年発見された資料や写真をもとに、見附が復元されました。

資料によると盛り土の周りを石垣で固めて、長さ 3.6m、幅 1.5m、高さ 1.6mの台状にしたもので、頂部の盛り土に竹矢来を施した構造物が、東海道の両側に東西に少しずれた形に設置されていたようです。

見附は本来、簡易な防御施設であるとともに、宿場の範囲を視覚的に示す効果を併せ持っていたと考えられています。

 

本陣跡                                                     平塚宿の本陣 加藤家は代々 加藤七郎兵衛を名乗り、門、玄関付き総欅造りの屋敷は比較的小規模でしたが、本陣としての格式としっかりした構えを備えていました。

本陣とは、公家・大名・幕府のお役人などの宿泊施設です。                            14代将軍、徳川家茂は文久3年(1863)と元治2年(1865)の2回、加藤本陣で休憩されたとのことです。

付近には、本陣の補助的な役目をした 脇本陣や人馬の継立と飛脚業務を行った 問屋場、幕府や領主の法令などを記した高札を掲げた 高札場などがあり、この辺りが平塚宿の中心となっていました。

平塚の塚                                                 平塚の地名の由来とされる史跡です。                                   江戸時代の天保 11年に幕府によって編纂された『新編相模国風土記稿』の中に里人の言い伝えとして、【昔、桓武天皇の三代孫、高見王の娘 政子が東国へ向かう旅の途中、天安元年(857)相模国のこの地で亡くなり、里人が松の大木の根元に塚を築いて弔ったそうです。時を経て塚は風化し平たくなったので里人はそれを 『ひらつか』 と呼んできた。】という一節があり、これが平塚という地名の起こりとなりました。

この事から平塚の歴史の古さが伝わります。

 

上方見附跡                                                     平塚宿の京側の出入り口であった上方見附の位置は定かではありませんが、この辺りにあったと云われています。

初代 広重によって描かれた東海道五十三次の平塚宿の錦絵も、上方見附からの眺めのものと思われ、変わらぬ高麗山(こまやま) の姿に往時の風情が偲ばれます。

数多くの旅籠が並んでいた頃の夕方ともなると、客引きをする留め女たちが旅人を奪い合う光景が良く見られたそうです。                                           江戸から京へ急ぐ旅人の袖をつかんでは、前方の高麗山を指して「あの山 を越えないと大磯宿には行けないよ。」と噓を言って、旅人を旅籠に引っ張り込んだそうです。

実際は高麗山を越えずに周りを歩くだけなので、苦は無いのです。                         客引きというのは、昔からあったのですね。

 

 

 

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🎶 耳を澄まして 🎶

2025年02月11日 | 癒し

私たちのバンドグループを指導して下さる方が開催された コンサート を聴きに行ってきました。

それぞれの楽器に精通された方々のJAZZバンド。 『Banda de Fnego』

折角の Jazzコンサートで是非皆様にも素晴らしい音色を、お聞きして頂きたいのですが著作権法により、ここに載せるわけにはいかず非常に残念です。

バンドの方々は全員がプロ級の方で、バンドマスターはギターを担当され、またボーカルの方の声が引き込まれる様に素晴らしかった。

Sax のアルトとテナーそしてトランペットを演奏された方が、我がシニアバンドを指導して下さる先生です。

ボーカルに後で黙々と演奏されるベースギターリスト、弦の数が少ないがリズム感やコードの知識と精度が求められ、ギターに比べて難しい楽器を見事に聞かせて下さいました。 

舞台は機材が沢山置かれ演奏者にとっては狭い感じでしたが、Saxの後ろで色々な曲に合わせて絶妙なフィーリングを聴かせて下さったドラマー、カッコ良く引き込まれました。

左奥のグランドピアノは音楽教室で生徒さんを指導されている先生、ジャズピアノはクラシックの様に楽譜通りに演奏する訳ではなく、アドリブが演奏できて観客を魅了させるんです。   その辺りを充分に聴かせて頂きました。  

ジャズ音楽とは即興性を重視し、アドリブを生かした自由なスタイルの音楽とのことで、何も知らなくとも自然に耳に届き脳の疲労回復やリラックス効果があり、集中力向上するといわれています。     

音楽を知らない私でも、『枯葉』・『サマータイム』・『星に願いを』・『A列車で行こう』・『イン・ザ・ムード』など2~3曲は聴いたことがあります。

ジャズって意外と身近なのですね。

 

 

 

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▲ 宝登山から時計回りに下る ▲

2025年01月25日 | 日本の四季

冬のロウバイ、梅をはじめ季節の花が咲く信仰の山。                            標高 500mに満たない低山ですが、秩父三社の一つ宝登山神社が鎮座する霊山であります。

山頂直下には花木が植えられ、特にこの時期ロウバイが黄色の花を咲かせ「もう直ぐ春ですね。」と知らせる様に迎えてくれる。

宝登山神社~表参道(奥宮参道)~宝登山~毒キノコ看板前(登山口)~奈良沢峠~氷池分岐~氷池~長瀞~宝登山神社の行程で歩いて来ました。

ロープウェイ山頂駅広場からも遠く秩父市の武甲山(標高 1304m:石灰岩採掘が進む。)が望めた。

穏やかな雑木の尾根道で、冬の陽だまりが嬉しい 長瀞アルプス をノンビリ下って来ました。

宝登山山頂を9時 55分に出発。                                            北西に向けて 関東ふれあいの道 を下る。

山頂直下は急な長い木製階段を下る。 登る方のことを思うと非常に厳しい登りである。

大きな毒キノコの看板が設置された登山口である林道に出た。 10時 17分。

小鳥峠通過、10時 29分。

のどかな尾根道(長瀞アルプス)進む。                                       私は下りでしたが、次々と登ってくる方とすれ違い人気の高さに驚きました。

登山口から野上駅へ向かう 長瀞アルプス は、ほぼ平坦で歩き易い道だ。

こちらの宝登山は秩父鉄道の野上駅と長瀞駅の両方に登山口があり、電車利用で来ても非常に登り易い山で、とても人気があります。

この日は風もなく、暖かな木漏れ日を浴びながら気持ち良く歩けました。

野上峠を過ぎると山間に入り、沢筋には天然氷を切り出す氷池が見られました。              あの切り出した天然氷で作るカキ氷は美味しいだろうな~ッと夏の暑い日を思い出しながらトボトボと下りました。

氷池から 15分ほどで長瀞町に出られ、11時 45分には宝登山神社駐車場に無事到着しました。

 

 

 

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▲ ロウバイの宝登山へ ▲

2025年01月23日 | 宮詣で

荒川の左岸に山裾を広げる標高 497.1mの 宝登山 を歩いて来ました。

宝登山は秩父山塊の中でも数少ない独立峰の体をしめし、秀麗な山容は四季折々の自然の美を生み出し、訪れる人々の心を和ませてくれます。

 

 

宝登山神社駐車場に8時到着。                              宝登山は麓に宝登山神社本社が、そして山頂には奥宮が鎮座しており、まさに御神体山であります。

 

ご由緒物語 | 寳登山神社

 

創立は西暦 110年、今からおよそ 1900年前、第12代 景行天皇の御代、皇子 日本武尊 が東征の帰途山容の美しさに惹かれ、ミソギの後に山頂を目指した途中で山火事に遭遇しますが神犬の神助を得て、無事に宝登山山頂に於いて神霊を祀られたことが宝登山神社の創建の初めと伝えられています。

宝登山神社の御祭神                                                        新日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと) 我が国をお肇(はじめ)になられた神武天皇      大山祇神   (おおやまづみのかみ)     山の御神霊  無限の山の幸を恵み給う        火産霊神   (ほむすびのかみ)        火の御神霊 無限の火の幸を恵み給う 

 

山名は「火を止める山」と表し「火止山=ほどさん」と定め、このことが寶登山神社の始まりと伝えられています。

 

8時 13分、駐車場を出て参拝に向かう。

綺麗な二の鳥居 

二の鳥居をくぐって参道を進み階段を上がると御本殿広場にたてます。

御社殿は明治初頭に造り替えられたそうです。                                  本殿、幣殿、拝殿より成る権現造りとなっており、きらびやかで色彩豊かな彫刻が施されています。

8時半、参拝を済ませ奥宮参道を登る。                                 宝登山はロープウェイでも奥宮参拝ができる様になっていますが、一歩一歩踏み締めて奥宮を目指しました。                                                上部に山頂駅があるため車道が設けられており、そこを歩いても良いのですが狭い車道なので、突っ切る様に造られた登山道を頑張って直登した。

9時 12分、宝登山小動物公園サイドを通過。

小動物公園からは車道歩きとなり、北側の山並みが見える様になって来た。

車道を一登りしたら、「これより 神域」 と書かれた標示板が目に付いた。

階段参道を登り、この上が神社創立ゆかりの地とのことです。

麓の宝登山神社本社と同様の白い立派な鳥居が見え、扁額には 寳登山奥宮 と記されていました。

その先には更なる鳥居と社が見えた。奥宮到着、9時 20分。

寳登山奥宮の狛犬 

奥宮裏手の高台が、標高 497.1mの 寶登山山頂。

山頂から宝登山ロープウェイ山頂駅間の南西斜面に広がるロウバイ園で、ぶらぶら青空に映えるロウバイ見学を楽しんだ。

ロウバイ園越しに遠く山並みが見え、左手のピークは秩父市の武甲山であります。

園内のロウバイは、まだまだ蕾が沢山あり、当分見られそうである。

最高の天気であり暖かく、山頂やロウバイ園で 30分ものんびりと過ごした。

 

   登山神社の祈りの心

神道では人も自然の中に共生するもので、私たちの周りのものや人に神が宿り、こうした自然の中に存在する多くの神々を崇め敬います。                              山川草木豊かな自然は清浄を生み成し、そこは聖なる清らかな場所として神が宿り給う処となります。                                                      私たちは特に優れた力や自然界の生命力をカミとして崇め敬い、自然が生み出す恵みと脅威をも受け入れ、「今」を大切に想い日々の生活を営みます。                             自然に恵まれた寳登山はまさしく神鎮まります聖なる空間として清らかな時間を清らかなこころで御参拝頂きますよう願っております。

 

 

                                         

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🐾 旧東海道:藤沢宿 🐾

2025年01月13日 | 日本の歴史

江戸日本橋を出発して6番目の宿場が 藤沢宿 であります。                            藤沢宿は日本橋から 12里半(49.1Km)、戸塚宿からは 2里(7.9Km)、次の平塚宿へは 3里半(13.7Km)の距離にありました。

藤沢宿の規模は、江戸時代後期で人口 4,089人、家数 919軒、問屋場2ヶ所、本陣・脇本陣各1軒、旅籠 45軒であったと記録されています。

人口は多い方でしたが、旅籠の数では江戸を出た多くの旅人が戸塚宿で宿泊するなどの立地上の理由もあって、比較的少ない方の宿場であったようです。

「東海道宿村大概帳」には、藤沢宿の名物を「大山詣で、江ノ島弁財天詣で」と記されていますが、江戸時代の藤沢宿の特色の一つは、多くの道が集まる場所であったこともあるようです。

メインの東海道を西へ、四ッ谷から北西に分かれる大山道(大山阿夫利神社・大山不動尊へ)、南へ下る江ノ島道(江ノ島神社へ)、遊行寺前で東へ向かう鎌倉道、北へ向かう八王子道(滝山街道)、北西に向かう厚木道などがあり、流通の中心地であった。

その様なことから、人々の往来や物資の集散も多く、鎌倉時代末期、室町時代の頃からは、時宗の総本山 『遊行寺』 の門前町としても発展してきました。

その後、江戸時代中期以降は「大山道」や「江ノ島道」の分岐点として「大山詣り」や「江ノ島詣で」の旅人の拠点となり、一層の賑わいを見せることとなった様です。

                                   

 藤沢駅を9時 20分、出発。                                           土曜日でもあり参加総数 84名、私は6班の 10人の皆さんと歩いてきました。

 庚申堂 9:36                                                 堂内には江戸時代前期の作といわれる青面金剛が祀られており、60年に一度、庚申(かのえさる)の年に御開帳されます。                                     次の御開帳は、15年後の 2040年になるとのことです。

庚申信仰は、十干十二支の組み合わせで 60日毎に廻って来る庚申の日に、その夜は眠らずに過ごして無病息災を願う信仰だそうです。

 

 遊行寺坂東門前 9:54                                              遊行寺坂は旧東海道で、お正月の恒例行事 「箱根駅伝」 のルートになっています。

遊行寺総門                                                  総門は黒く塗られた冠木門で「黒門」と称され、総門から山門迄のゆるい坂道は「いろは坂」といわれています。

山門は銅屋根の仁王門でしたが、明治 13年(1880)の大火 で焼け、今は礎石が残るのみです。

遊行寺本堂                                                     遊行寺と呼ばれる、この寺院の正式名称は 『藤澤山(とうたくさん)無量光院清浄(しょうじょう)光寺』 と称する時宗の総本山です。                              本堂には御本尊の阿弥陀如来坐像のほか、宗祖の一遍上人像、遊行4代呑海上人像などが安置されています。

現在の建物は昭和 12年(1937)に再建されたもので、木造では関東随一の広さを誇り、最大で約 700人が座れるそうです。

本堂右手には、諸国行脚中の一遍上人像が見られます。

一遍上人は常住の寺を持たずに諸国各地への賦算の旅(遊行)を続けていたことから、一遍は遊行上人と呼ばれていました。

遊行寺中雀門                                      中雀門は安政6年(1859)に建立され、明治の大火で焼失を免れましたが、関東大震災の時には倒れはしましたが壊れなかったため、そのまま建て直されました。

向唐門造りで側面の大棟に 「菊の御紋」 と屋根の下に 「葵の紋」 が見られ、境内最古の建造物とのことです。

 

 ふじさわ宿交流館 10:28                                                藤沢宿は江戸時代には旧東海道の宿場町として、大山詣でや江ノ島詣でをする人々の交通の要衝として賑わいました。                                      交流館は藤沢の歴史や文化に触れ、人々が交流できる場として平成28年(2016)に開館しました。

 遊行寺橋・高札場跡 10:35                                           東海道は藤沢宿内の大鋸(だいぎり)橋(現在の遊行寺橋)で境川を渡ります。                       橋のたもとには高札場がありました。

高札場とは、幕府や領主の命令などが木の板に書かれた「高札」を掲げる場所で、人通りが多い宿場の中心に置かれました。

   

 江ノ島弁財天道標 10:51                                            江ノ島道に建てられた道標は江戸時代の検校(けんぎょう)杉山和一(1610~1694)の寄進によるものだそうです。                                                杉山検校は江ノ島弁財天を信仰したおかげで管鍼術を会得し、徳川綱吉の病を治して幕府から優遇され、江戸、関東の盲官の最高位である惣録検校まで上り詰めました。                    終生、江ノ島神社への恩を忘れず、参詣の人々のために藤沢宿から江の島までの道案内に、道中 48基の道標を建てたと云われています。

現在、残っているのは 14基ですが、12基が藤沢市にあり市の重要文化財に指定されています。

 

 義経首洗い井戸 11:12                                           文治5年(1189)源義経は奥州衣川で、頼った藤原一族に攻められ、敗れて自害しました。  その首は黒漆櫃に納められて鎌倉に送られ、腰越で首実検にかけられた後、そのまま浜に打ち捨てられたと云われています。                                       言い伝えによれば、金色の亀によって境川を遡り藤沢に運ばれた義経の首は里人に拾われ、洗い清められ首塚に丁重に葬られたということです。

 養命寺 11:47                                                  引地山 養命寺といい、元亀元年(1570)に創建された曹洞宗の寺院です。          御本尊の 木造薬師如来坐像(像高 90.5cm) は鎌倉時代初期に造られたもので、運慶様式の作例とされ、昭和2年(1927)に国の重要文化財に指定されています。                    檜の寄木造・内削りで玉眼を入れ木肌に下地に布を貼って漆を塗った上に金箔を置いた作りになっています。                                                  寺内の格子天井には 224面の天井絵は、とても美しいそうです。

 耕餘塾(こうよじゅく)跡 12:05                                               耕餘塾は明治5年(1872)、羽鳥村名主 13代目 三觜(みつはし)八郎右衛門佐次郎が教育普及のため、小笠原東陽を招いて開いた郷学校の読書院(とくしょいん)に始まるようです。       東陽(1830~1887)は美作国(岡山県)勝山藩士 小笠原忠良の三男として生まれ、26歳で昌平坂学問所に入り儒学を修め、池上本門寺で僧たちに漢学を教えていた所、三觜右衛門によって藤沢に招聘され、廃寺となっていた徳昌院の跡地に読書院を開きました。

学制布告で羽鳥学校と改称しましたが、東陽は羽鳥学校とは別に読書院を残し独自の教育を続けました。                                                      こちらの塾からは、吉田茂(総理大臣)、平野友輔(衆議院議員)、鈴木三郎助(味の素創業者)ら政界・実業界で活躍した多くの人材を輩出しました。 

第45代内閣総理大臣 吉田茂      味の素創業者 鈴木三郎助      衆議院議員 平野友輔 

 

 

 

                                     

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🌄 2025 賀春 🌄

2025年01月01日 | 伝統行事

 

 

 

              本年も、どうぞよろしくお願い申し上げます。

 

           

                         壽                                                                                                              

              御祭神                                                     神代日本の国づくりをされた神 大己貴命(大国主命)をお祀りする

         東海の総鎮守の社 砥鹿神社里宮

               霊峰 本宮山 砥鹿神社奥宮

       すべての国に平和がありますように 

 

 

 

 

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▲ 霊峰本宮山と砥鹿神社奥宮参拝 ▲

2024年12月29日 | 宮詣で

愛知県東三河の平野に聳え立ち、神代より砥鹿(とが)の大神が鎮まります霊山 『本宮山(ほんぐうさん) を歩いて来ました。

美しい姿の本宮山は、千古の神山として仰がれています。

豊川市から北方を望めば山頂笠を伏せた如く一際秀でた山が 「本宮山(標高 789m) で、東三河の何処からでも拝することができます。                                       今も昔もこの砥鹿の大神の御神徳を慕って、山頂の奥宮へ登拝する人々は年中絶えることが無く、今年の山行の締めとして参拝してきました。

 

 

本宮山登山の出発点であるウォーキングセンターに7時 50分到着。                     出発の準備を進め8時 10分、 出発。

ウォーキングセンター前の道路から、真北に聳える本宮山(中央のピーク)を望む。

8時 20分、砥鹿神社奥宮の石塔のある鳥居を通過

鳥居を過ぎたら直ぐに「本宮山登山」と書かれた石柱が見えた。

ここ本宮山には山頂直下に鎮座する砥鹿神社奥宮を 50丁目として麓から丁目が刻まれており、登山者が自分の位置を確認できる目安として、とても助かりました。

8時 48分、十一丁目通過。

前半戦は非常になだらかな道で快調に進みました。 二十丁目通過、9時 04分。

ところが二十丁目を過ぎて間もなく、道の様子が激変しビックリ                   大きな露岩が現われ左手には木製手摺り、右手にはロープが設置され斜度がきつくなる。

二十六丁目の直ぐ下にある馬背(うまのせ)岩通過、9時 16分。                          登山道の中でも難所の一つで、岩の段々が馬の背骨の感じに良く似ていることから名付けられたと言われています。                                  またこの付近には梯子岩、蛙岩、日月岩など様々な名の付いた岩があります。

蛙岩の上にある見晴台、9時 24分通過。 外気温 2.0度

標高は低い山だが、領家片麻(りょうけへんま)岩や雲母片岩から成る岩山であり、ぶつけたり捻挫などに注意しながら登った。

                                              三十二丁目通過、9時 35分。

登っている登山道は本宮山表参道であり、段々神社への参道らしくなって来た。         上前方に鳥居が見えるが、きつい。

9時 44分、上部の鳥居に着いた。                                        鳥居の横には 「是より、霊峰本宮山 砥鹿神社境内」 と記されていました

三十八丁目通過、 9時 51分。                                                この辺りは傾斜が酷くきつく、一歩一歩慎重に登った。

三十八丁目と三十九丁目の間に 「山姥の足跡」 という伝説の岩がありました。        言い伝えによると昔、三河に住む山姥が本宮山と石巻山に両足を掛け、豊川の水で顔を洗った時にできた足跡だそうです。                                        昔から登山者がこの足跡を踏むと疲れがとれるとか、足が軽くなると云われ、下山の時も踏んでから下山します。忘れて帰ると足が重くなると云われています。              左の案内板の奥に足跡の岩があります。私も踏んだお陰で快調に歩けました。

四十一丁目通過、石段がずっと続きます。

10時 05分、お清水舎到着。                                              砥鹿神社 第一神域に入る前に、手を清め口を漱ぐ。

本宮山砥鹿神社奥宮へ行く参道には鳥居が幾つもあり、その多さにビックリしました。    10時 30分、是より砥鹿神社第一神域と記された鳥居を通過。

鳥居を通って間もなくの所に荒羽々気(あらはばき)神社に到着。                      大己貴命(おおなむちのみこと)の荒魂を祀っており、昔から足の願掛け神として崇敬されています。                                        東海唯一:健歩健脚の守護神                                       貴社に、今まで山歩きの出来たことの御礼を申し上げてきました。

10時 38分、やっと三河国一宮 砥鹿(とが)神社奥宮に到着。                               祭神は「大己貴命(おおなむちのみこと)」・【別称:大国主命(おおくにぬしのみこと)】             

登山道の終点は砥鹿神社奥宮の本堂につながっているとのことです。

奥宮の社叢(しゃそう)は昔から神域として保護されてきた暖帯自然林で、杉の巨樹が林立しています。 愛知県の指定天然記念物となっています。                                        「本宮山天狗の寄木」 といわれる御神木が最も大きく、高さ約 30m、根回り約 6.5m、樹齢 約千年といわれています。

本宮山山頂到着、11時丁度。                                       山頂からは豊橋平野や三河湾が眺望でき、運が良ければ富士山が見えるそうですが、雲があり残念でした。                                             三角点のある山頂には沢山のテレビ局の電波塔などが建っています。

山頂の一等三角点。

標高 789.2mの山頂直下まで 本宮山スカイライン が通っており、車でも気軽に訪れることができます。                                                    ただ、こちらの山は低山とは思えない変化に富んだ登山道があり、表参道をピストンして良い思い出になりました。

 

 

 

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🐾 旧東海道:戸塚宿 🐾

2024年12月24日 | 日本の歴史

江戸日本橋を起点として始まる東海道五十三次の五番目の宿場町 『戸塚宿』 を歩いて来ました

今から約 400年ほど前の旧東海道と言っても幾多の変遷を経て現在に至り、部分的な面影を探しながら歩く形であります。

戸塚駅東口を9時半に出発。 駅そのものが『戸塚宿』の中とのことです。

『戸塚宿』について

慶長6年(1601)東海道に宿駅伝馬制度が制定された時には、保土ヶ谷と藤沢は宿駅に指定され宿場町となっていましたが、その間にある「戸塚」は指定されませんでした。

戸塚宿は日本橋から10里18町(41.2Km)の位置にありました。                    江戸時代の旅では、健康な成人は一日当たり 10里の行程を歩くのが普通であったようです。

日本橋から10里余、箱根越えを控えた小田原宿までも10里余という立地にあり、旅人にとって戸塚は宿泊するのに最適な地でありました。

江戸寄りの保土ヶ谷宿へは品濃坂の急坂を越える2里9町(8.8Km)の道のり、京寄りの藤沢宿へは大坂の急坂を越える2里(7.9Km)の道のりで、保土ヶ谷宿から藤沢宿までは4里余の道のりがあり、2宿間の距離が長く、更に品濃坂、大坂という急坂を登り下りするため人馬が疲弊することが多かったようです。 

このため旅人は正式ではなかった戸塚宿に宿泊したり、同町の人馬を使って藤沢宿や保土ヶ谷宿まで荷物を運んだりすることが行われ、戸塚宿では相応の駄賃を取得して、街道稼ぎを生計にしていた人が沢山いたようです。

こうした状況に対して、保土ヶ谷宿は同情的でしたが、藤沢宿は公用の人馬を負担していない戸塚宿が人馬を出して駄賃稼ぎをするのは不法であると代官の彦坂元正に苦情申し立てをしました。                                             このため、幕府は戸塚宿に対して「伝馬御用を果たさず届け出もせず勝手に街道稼ぎをするのは不都合」と通達を出しました。

そこで戸塚の有力者である澤邊宗三は保土ヶ谷宿と藤沢宿に了解を取る交渉をしながら、幕府に宿駅開設を強く働きかけ、慶長9年(1604)戸塚宿成立にこぎつけました。

 

戸塚宿の宿内の町並みは20町余(2.2Km)で、江戸方より矢部町・吉田町・戸塚町の3町で構成されていました。                                              戸塚町は一丁目から六丁目まであり、それぞれ上宿、中宿、台宿、天王宿、田宿、八幡宿の別名で呼ばれていました。                                              宿の規模は、天保 14年(1843)編纂の『東海道宿村大概帳』によれば、人口 2,906人、家数 613、本陣 2、脇本陣3、旅籠 75で、問屋場は矢部町・吉田町・戸塚町中宿の3ヶ所が交代で務めていたとの事です。                                              旅籠 75軒は近隣の宿場町の中で、品川、小田原に次ぐ多さであった。

こんな形で『戸塚宿』が誕生しました。

                            

この後は戸塚宿の街道沿いを歩きながら面影の残る場所を、ご紹介して往きます。

 

戸塚競馬場跡 9:50                                                 昭和8年(1933)吉田町に神奈川県畜産組合連合会の経営する 競馬場ができました。

上の写真の右手が競馬場になります。前の道路は当時の鎌倉街道だそうです。            競馬場は昭和 17年(1942)に汲沢に移転し、跡地は現在 日立製作所になっています。

 

日蓮宗 妙秀寺 9:57 

こちらのお寺の境内には、延宝2年(1674)の鎌倉街道の石道標が残されています。     ガイドを担当して下さった藤井さん。  

有名な歌川広重の『東海道五十三次之内  戸塚』 に描かれた道標が移築されたものと考えられていますが、浮世絵中の道標は「左 かまくら道」となっているのに対し、境内にある道標は「かまくらみち」となっています。

 

吉田大橋 10:07                                                  江戸時代、大橋は広重の浮世絵に描かれ、戸塚宿を代表する場所の一つとなりました。    絵の左側に描かれている「こめや」 は旅籠屋で、旅籠屋の軒先には講中の名前を書いた講中札が何枚も吊り下がっています。                                           この札は、この旅籠屋が講仲間や旅人が安心して泊まれる特約旅館であることを示しているのだそうです。                                                   絵の中央辺りに「左 かまくら道」と記された道標が見えます。                           ここは柏尾川沿いに下って鎌倉へつながる川沿いの分岐点で、現在の大橋は「吉田大橋」と呼ばれています。

柏尾川に架かる吉田大橋 、左が鎌倉道、左の橋の角に石道標が建っていたようです。

江戸時代には夜明け前に日本橋を出発し、一日歩いてここで宿をとるのが定番であった。   大山道・鎌倉往還との分岐点でもあり、当時は大変に賑わっていた所のようです。

 

清源院 10:50                                                浄土宗のお寺で、徳川家康の側室 お万の方ゆかりのお寺です。                            本尊は徳川家康から拝領した歯吹(はふき)阿弥陀如来で、境内には松尾芭蕉の句碑 心中句碑があり、墓地最上部に お万の方の遺骸火葬跡(当時としては珍しい)の碑があります。                        また、鎌倉郡三十三観音二十二番札所であり、千手観音が祀られています。                       本堂正面の扉には葵の御門が見られます。

 

澤邊本陣跡 11:15                                                   澤邊本陣は戸塚宿に二つあった本陣のうちの一つです。                             本陣創設時の当主 澤邊宗三は戸塚宿の開設にあたって幕府に強く働きかけた功労者です。   明治天皇の東下の際には行在所になりました。

 

海蔵院 11:23                                            海蔵院は臨済宗 円覚寺派の寺院で惠照山 海蔵院と号します。                    本堂には御本尊の釈迦如来像と観世音菩薩、十一面観音菩薩、持ち上がり地蔵などが安置されています。

山門の入口右手にある像は平成 26年(2014)1月から始まった戸塚宿七福神巡りでお参りされる布袋尊(山門右手)で、山門上部には左甚五郎作と伝えられる龍の彫刻があります。

 

八坂神社 11:33                                               通称「天王さん」と呼ばれ親しまれている神社で、また戸塚宿の鎮守であり、祭礼当日の参詣人は当地随一の賑わいを見せるそうです。

この神社の祭日である7月 14日に行われる 『お札まき』 は女装した 10人ほどの氏子が、音頭に合わせて歌いながら円を描いて踊り、「正一位八坂神社御守護」と刷られた5色のお札を 団扇 であおって撒くそうです。

風流歌の歌詞に「ありがたいお札、さずかったものは病をよける、コロリも逃げる」という文句があることから、祇園祭と同様な御霊信仰に基づく厄霊除けの行事であります。

 

上方見付跡 11:55                                                                                                                      戸塚宿の上方側、すなわち京側の出入り口を示す土居が街道の両側にあり、京に向かって左側に松、右側に楓が植えられていました。                                   江戸方見付から上方見付までの戸塚の宿内は長さ 20町余(2.2Km)でした。

 

大坂台の庚申塔群 12:01                                          上方見付を過ぎると直ぐ登り坂にかかります。この坂が大坂です。                       『新編相模国風土記稿』に「海道中南にあり、一番坂登り一町余、二番坂登り三十間余」と書かれているように、かつては2つの坂から成っていたようです。                 今は拡幅、舗装されて割合緩やかな坂になっていますが、昔は急坂で荷車、牛馬車などは真っ直ぐには登れず、車の後押しを商売とする人に助けられ蛇行しながら登っていたそうです。

庚申塔は3年間にわたって庚申待ちを続けた記念などに建立された石碑で、十干十二支の組み合わせで 60日に一度やって来る庚申の日の夜を眠らずに過ごして無病息災を祈るのが庚申待ちです。

こちらの庚申塔は道路改修工事にあたって大坂周辺から集められたものです。

 

大坂上の松並木 12:27                                              天気の良い日、汗を拭き拭き2つの坂を登り切ると松並木の続く道で、その合間から富士山が見える素晴らしい景色は多くの浮世絵の画題となりました。

松並木は、慶長9年(1604)、家康の命により街道に植樹されました。                     大坂を登り切った辺りから遊行寺坂上に至る街道には高さ 30mほどの松の巨木が立ち並び、その数は2千数百本もあり大変壮観であったようです。

ですが、第二次世界大戦末期の軍による松の伐採や昭和 30年(1955)頃からの排気ガス、松喰い虫の被害そして道路の拡幅工事が進み松並木は失われてしまいました。 

 

浅間神社 13:00                                                  原宿村の鎮守で、祭神は木花佐久弥毘売命(このはなさくやひめのみこと)です。                     富士山信仰に基づき村内安全を祈願するため勧請され、永禄年間(1558~01570)に創建された神社で、玉縄城主 北条左衛門大夫綱成の崇敬が篤かったといわれています。

社殿は安政5年(1858)に再建され、改修を経て現在に至り、参道の両側にはスダジイの大木が何本もあり、中には樹齢 600年を超えるものもあり横浜市の名木古木に指定されています。

浅間神社の境内から霊峰 富士山が望めました。                                  

 

 

 

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▲ 高川山から陽だまりコースを下る ▲」

2024年12月13日 | 山梨百名山

登りはずっと日蔭の登山道であったが、下りは全身に陽光を浴び、落ち葉を踏む音を聴きながら歩く、この時期ならではの山歩きであります。

高川山(標高 976m)は低山の割には、富士山をはじめとする山梨県東部の山々の展望に優れ、誰にでも気軽に登れる山として、最近かなり人気が高いようです。

十分展望を楽しんだら、山頂の案内板に沿って下山開始、9時 53分。                      最初は北に向かって尾根道を辿る。

下り出して直ぐの所に「狼煙(のろし)台跡」の案内板が目に付いた。                       解説は無かったが、戦国時代に甲斐国主となった武将 『武田信玄』 が近傍諸国をを攻略する際に遠方への情報伝達の合図として、ここで煙を高く上げたのだろう❓

下り初めは、なだらかな尾根道を右手に丹沢山塊を望みながら進む。

10時、禾生(かせい)分岐を通過。                                          ここから右手に尾根を下れば、『古宿コース』・『中谷入コース』に進み、リニヤ見学センターや富士急行線の禾生駅に下れる。                                       私は明るい尾根道歩きは好きなので直進する。

こちらの道標の上には休憩に丁度良い、落ち葉の敷き詰められた広場があった。       ノンビリしていても暖かいし、周りの山々が見え気持ち良い。

広場を過ぎ下り始めたら、岩の露出した急な下りとなり、落ち葉が滑るので転倒に注意しながら慎重に下った。

10時 29分、左手下方に中央自動車道の大月ジャンクションが見えた。

露岩は消え、穏やかな道を落ち葉を踏みながら、初冬の尾根歩きを楽しむ。

好天での、この時期の尾根歩きは両側の景色が楽しめる。

まだ残っていたヤマモミジが迎えてくれた。

11時 02分、むすび山分岐を通過。                                      尾根沿いを直進すれば「むすび山」経由で大月に出られるが、馬頭観音を見ながら松葉コースを下った。

馬頭観音通過。                                               馬頭観音様は頭上に馬頭を頂いて忿怒の相をされているといわれますが、こちらの観音様は、とても穏やかなお顔をされていました。

明るい南側斜面の松葉コースを下る。

11時 28分、田野倉側登山口に無事下山しました。                               下りは暖かな陽射しを浴び、落ち葉を踏む音に耳を傾けながらノンビリ山歩ができました。

11時 50分、富士急行線 田野倉駅に到着。

山梨百名山には、良い山が沢山あるのに驚きました。

最近では、今迄に歩いたことのない山を歩いているので、花のない時期でも景色や登山道、建物など新しい発見があり、それなりに楽しいです。

 

 

 

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▲ 静かな初冬の高川山 ▲

2024年12月08日 | 山梨百名山

紅葉 も終盤となり、静かな陽だまりハイクを楽しんできました。

山梨県と言えども、高い 山から低い山まで沢山あり、その中に歴史 も含まれ良く足が向く地であります。

低山で、ごく平凡な山ですが山頂からの展望が最高の 『高川山』です。

                                               

JR 中央本線の大月駅から初狩駅に向かいます。大月駅ホームからの岩殿山。

ひっそりとした初狩駅を7時 39分、 出発。

地図で調べてみると、高川山(標高 976m)は本栖湖北岸から延々と連なる御坂山塊の北東のはずれの山であります。                                                高川山への案内板は各所にあり、不安なく歩けます。                             中央本線の高架下を抜け、突き当りの案内板を左折。

7時 47分、自徳寺の下を通過。

自徳寺霊園の脇を通る林道を登り詰めると、車が2~3台停められる空地があり、小さな家型のボックス内にカウンターが設置されていたので、自分も一回押した。               入山者数を確認しているのだろう❓

駅からのアプローチの良さは最高なのですが、この時期北側斜面より取り付くので薄暗く寒い。                                            8時 10分、林道と登山道の分岐を通過。

結構きつい登りとなる。  でも日蔭で寒いので、丁度良く体が温まる。

8時 33分、男坂コースと女坂コースの分岐を通過。                                   月一回程度の山歩きなので、体力測定のつもりで正面の男坂に挑戦した。

初狩駅を7時 39分にスタートし、ずっと日蔭の斜面を登って来たが、1時間 10分ほど経過し陽射しが見えた。

流石 男坂できつい、高度を上げてきたら登山道に岩が見えだして来た。

9時丁度、上部の男坂 コースと女坂 コースの合流点通過。                    木の間越しに廻りの山々が望める様になり、気分も足にも元気が出た感じになる。

合流後の一本道で山頂を目指す。                                          地表を覆う丈の低い笹の登山道に変わり、その尾根を緩やかに登って行く。

山頂手前に最後の急登が現れ、頑張る。

9時 23分、高川山(標高 976m)山頂に到着。                       南西側に富士山、その手前に富士吉田市街、その更に手前には西桂町が望めた。

富士を中心に左手に御正体山(標高 1681m)、右手に三ッ垰山(標高 1785m)

風が あったが、展望は最高で陽射しの方が勝っていたので、ノンビリ 30分も展望を楽しんだ。

山頂には丁寧に周りの山々の名を記した方位盤が設置され、地元の丹沢山塊も望めた。

 

 

 

 

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🍂 紅に染まる秋夜の堂宇 🍂

2024年11月30日 | 郷土の秋

開創以来六百年の 歴史を持つ関東(郷土)の霊場が、紅葉のライトアップ 開催中とのことで歩いて来ました。

 

 

大雄山最乗寺は、曹洞宗に属し全国に四千余りの門流をもつお寺であります。

こちらの寺域には約 17万本の杉が有るといわれ、中には樹齢が五百年を経過した杉もあるそうです。

境内には老杉茂り、霊気漂い霊験あらたかであり、気持ちが引き締まります。

辺りは、深々と冷え込みが増す。                                        境内広場に出て、中央の池越しに護国殿(本堂)を望む。

 

護国殿正面には僧侶が立ち、参拝者の諸願成就など夜間祈祷の案内して下さいます。

護国殿前から結界門へと進みます。                                      紅葉の方は瑠璃門付近と、こちらの護国殿から結界門への参道がとても綺麗でした。

鐘楼を下から見上げた所です。

鐘楼から開山堂方向のモミジは、色付きといい とても素晴らしかった。

結界門から護国殿に戻る参道の紅葉です。

護国殿の階段参道下る途中からの紅葉は圧巻でした。

再び、境内広場から瑠璃門を通り参道に戻る。

紅葉の消えた階段参道は、深々と寒さが身に沁みます。

大雄山最乗寺では 12月 01日(日)まで紅葉ライトアップが開催されております。

 

 

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🍂 2024:公園の秋 🍂

2024年11月28日 | 郷土の秋

地球温暖化で、そのうち日本の四季が『ニ季』になってしまうだろう❓ などと言われています。

それでも、この素晴らしい 春・夏・秋・冬の四つの季節が存続することを祈りたい。

 

木々を訪れる。 

何故あなたは 赤を好み、こちらの君は 黄色を選ぶのか ❓

もうそんな野暮なことは訊ねない。                                             色付く一枚一枚の葉は、既に木から離れようとしている。

そして春からの、枝と共に過ごしたさまざまの日を懐かしみ、別れる前の挨拶として、ひたすら華やいだ表情を見せようとしている。

風が 吹けば、木々の声が聞こえるだろう。        串田孫一(詩人:随筆家)

 

                      

深紅や黄金色に染まった木々の間からの木漏れ日を受け、落ち葉を踏むカサカサ音を聴きながら、秋に染まった中へと進み、静かで暖かな余韻に触れ秋を満喫。

こんな自然の舞台で、ひっそり奏でる音色は秋景色に吸い込まれ、それなりに響く。

深紅のヤマモミジが大きく枝を伸ばしていた。

黄金色に輝いた大きなモミジも存在感を発揮していた。

 

 

                                                           

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