大磯宿は、東海道に宿駅伝馬制度が制定された慶長6年(1601)に平塚宿・小田原宿と共に開設された、江戸から8番目の宿場です。
ですが、江戸を発った旅人の多くは保土ヶ谷宿や戸塚宿で一泊し、翌日は小田原宿に宿泊する場合が多く、遊行寺や大山・江ノ島詣でなどで栄えた藤沢宿のような観光拠点でもなかったので、あまり繫栄した宿場ではなかったようです。
宿場としてのご案内は少なく、大磯は明治時代に入り、日本最初の 海水浴場
の開設を契機に大磯駅が造られ、保養地・別荘地として発展し、政財界要人の別荘や邸宅が多く建てられ、歴代首相が8人も住んでいました。
大磯に住んだ歴代首相には、伊藤博文、山県有朋、大隈重信、西園寺公望、寺内正毅、原敬、加藤高明、吉田茂などがいます。
また、島崎藤村など文化人も住んでおり、宿場以外の歴史もご紹介させて頂きます。
江戸時代後期における大磯宿の宿場規模は、人口 3,056人、家数 676軒、本陣 3軒(小嶋・尾上・石井)、旅籠 66軒で、問屋場は北本町と南本町の2ヶ所にありました。 『東海道宿村大概帳より』
地福寺 山号は船着山円如院地福寺と称し、京都の東寺に繋がる真言宗の寺院です。
境内の一角には、晩年を大磯で過ごした島崎藤村のお墓があります。
この寺から見える光る海と境内の梅林は藤村が非常に気に入っていた場所で、生前 自らの墓所として希望していたそうです。 今では梅の名所として知られ、樹齢 100~200年の古木、約 20本に囲まれて藤村夫妻の墓碑が建てられています。
藤村の遺髪と遺爪(いそう)は故郷の馬籠にある島崎家の菩提寺「永昌寺」に分葬されているそうです。
小嶋(おじま)本陣跡 本陣とは、宿場において参勤交代の大名、公家、公用の幕府役人などが休泊する施設で、豪壮な門構えや玄関、書院造りの上段の間などを備えていました。
延台寺 山号 宮教山(ぐうきょうざん)延台寺とと称する日蓮宗の寺院です。 寺伝によれば、曽我十郎祐成(すけなり)の恋人であった虎御前(虎女)が十郎亡き後、尼となり十郎供養のため高麗山(こまやま)北麓の虎池の傍らに小さな庵「法虎庵」を結んだのが始まりといわれ、永禄年間(1558~1570)に、この地に移されたとされています。
境内にある「虎御石(とらごいし)」は、虎女の父親 山下長者が子宝のお告げとして授かったもので、初めは小さな石でしたが虎女の成長と共に大きくなったと云われています。 後に十郎が工藤祐経の刺客に矢を射掛けられた時、この石の陰に隠れ、矢は石に刺さって難を逃れたと伝わります。
以来この石は「身代わり石」と呼ばれ『東海道名所記』に取り上げられています。
松本順謝恩碑 明治 18年(1885)軍医総監を退官した松本順は、「国民の健康増進と体力向上」のため照ヶ崎海岸に日本最初とされる海水浴場を開きました。
海水浴場には西洋の様に
病院があるべきとして、海水浴客のために建てられた旅館「祷龍館(とうりゅうかん)」に診療所を併設して自ら診察にあたったと云われています。
建設資金の不足は会員を募集して捻出し、会員には渋沢栄一・安田善次郎・榎本武揚・原善三郎ら東京や横浜の名士が名を連ねていたそうです。
明治維新以降寂れる一方であった大磯は海水浴場開設によって息を吹き返し、国府津まで鉄道が開通し
大磯に駅ができると、保養地として更には別荘地として発展していきました。
新島襄終焉の地 新島襄は明治 8年(1875)に同志社英学校(後の同志社大学)を設立した教育者であり宗教家です。 大学設立準備のため東奔西走中の明治 22年(1889)11月、心臓病を
悪化させて大磯の百足屋(むかでや)旅館の別館「愛松園」で静養していましたが、翌年1月、46歳11ヵ月の生涯を閉じました。
石碑は百足屋旅館の玄関だった場所に建てられています。
鴫立庵 鴫立庵は寛文4年(1664)小田原の外郎(ういろう)の子孫であった崇雪が、西行法師の有名な歌『心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕ぐれ』に詠まれている沢らしい面影を残し、しかも景色の優れているこの場所に草庵を結んだのが始まりといわれています。
元禄 8年(1695)俳人 大淀三千風が庵を再興して入庵、鴫立庵一世となり、今日まで続いています。
鴫立庵は京都の落柿舎・滋賀の無名庵と並ぶ日本三大俳諧道場の一つであります。
令和元年(2019)8月より 23世の現庵主に本井 英(もといえい)さんが就かれています。
上方見附 大磯宿の上方見附は東小磯村加宿のはずれにあり、現在の「統監道」バス停付近にあった。 そこが宿場の出入口であり、標示の御料傍示杭が立っていた。 この見附は平和な江戸時代に防御施設としての役目は無くなり、旅人に宿場の出入口を示す役目を果たすようになった。
見附とは本来城下に入る見張りの門のことでありますが、江戸時代の宿場の出入口にも見附を置き宿場を守る防御施設として造られた。 街道を挟んで両側に台形状に石垣をもって造られ 、高さは約 1.6mで、その上に竹矢来が組まれていました。 宿場の京都側にあるものを「上方見附」、江戸側にあるものを「江戸見附」と呼んでいました。
旧島崎藤村邸 島崎藤村は近代日本文学を代表する一人で小説『破戒』・『夜明け前』、詩集『若菜集』などが有名です。
藤村と大磯の関わりは、昭和 16年1月 13日、神奈川県湯河原町に休養に訪れる途中、友人に誘われ大磯の左義長見物に立ち寄った時といわれています。
大磯と この家をすっかり気に入り、ここでの生活を決意し、2月 25日に敷地面積 145坪に建つ 24坪の長屋を毎月家賃 27円で借り受け、翌年の8月には、当時のサラリーマンの約 30年分の給料に相当する1万円でこの邸宅を買い取り、終の棲家とされたとのことです。
『余にふさわしき閑居なり』
藤村邸は大正後期から昭和初期にかけて建築され、周辺には同じような貸別荘が数軒あり、一帯は「町屋園」と称されていました。
静子夫人宛ての書簡の中で藤村はこう表現しています。
小さいながらも素朴な冠木門を通れば、割竹垣に囲まれた小庭、そしてわずか三間(みま)の古びた平屋建ての民家が目に入ります。 昭和初期の一般家庭よりも天井の高さが一尺ほど低く茶室風に造られた四畳半の小座敷は、書斎として使われました。 『萬事閑居簡素不自由なし』
この部屋からは簡素を信条とする藤村の気配りが最も感じられます。 夫人は「大磯の住居は 50年に及ぶ主人の書斎人としての生活の中で、最も気に入られたものだったろう」と述べられていたそうです。
しかし、昭和 18年(1943)8月 21日に小説『東方の門』執筆半ば脳溢血で倒れ、翌日午前0時 35分に 71歳の生涯を閉じました。 静子夫人に告げた
「涼しい風だね」
が最後の言葉となったそうです。
東海道松並木 小田原に向かって樹齢 400年ほどの松並木が続きます。
江戸時代、幕府は東海道を整備して松並木、一里塚、宿場をもうけ交通の便を良くしたので、参勤交代や行商、お伊勢参りなどに広く利用されました。 松並木は、今から 400年前に諸街道の改修の時に植えられたもので、幕府や領主に保護され約 150年前頃からは厳しい管理のもとに、立ち枯れしたものは村々ごとに植え継がれ大切に育てられてきたものです。
この松並木は、このような歴史をもった貴重な文化遺産となっています。