素晴らしい風景!!

色々歩いた山や国内の風景等をご紹介いたします。

♬ 詩人・童謡作家「北原白秋」♬

2016年01月31日 | 文学者

詩人であり、童謡作家であり、そして歌人でもある北原白秋が平成27年に生誕130年を迎えました。                                      それを記念した特別展(H28.1.23~3.16)が小田原文学館で開催され、当地にも深い関係がある白秋を見てきました。

                                                  白秋は本名を「隆吉」といい、明治18年(1885)1月25日、福岡県山門郡沖端村(現 柳川市)の北原家に父 長太郎と母 しけ(通称しげ)の長男として生まれました。 家はもともと海産物問屋として九州一帯に知られていましたが、長太郎の代に酒造を業とするにいたりました。

                                                    地元は水郷として知られ、切支丹や南方文化が早くに流入したところでもあったので、一種の異国情緒豊かな雰囲気をかもし出していました。

                                                   隆吉少年は、そうした豊かな環境の中で多感な幼少期を過ごしていたようです。

                                                   しかし、白秋が16歳の時、大火で酒蔵が全焼し、家は傾きます。                                     傷心の白秋は没頭していた詩歌の創作へと更にのめりこみ、明治37(1904)年に家出同然で上京し、早稲田大学の同級 若山牧水与謝野鉄幹石川啄木といった才能とも交流しながら、26歳の時に書き上た処女詩集「邪宗門」耽美的な表現で称賛をあびました。

その2年後に出した詩集「思ひ出」は、故郷 柳川と破産した実家に捧げる懐旧の情で、白秋の名を世に知らしめました。                             57年の生涯で2万点以上の作品を残した白秋。

                                                     山田耕作とのからたちの花などは日本の心ともいうべき童謡の傑作です。

実家の破産、隣家の女性との恋愛事件、結婚、離婚と苦境の中、生涯に30回以上の転居し、その中の大正7年から15年までの8年ほどの間を小田原で過ごしています。

                                                   この間に全童謡作品の半数近くを創作したといわれています。                       小田原時代の作品「赤い鳥小鳥」の石碑です。                                         赤い鳥、小鳥、なぜなぜ赤い。赤い実をたべた。                                  白い鳥、小鳥、なぜなぜ白い。白い実をたべた。                                  青い鳥、小鳥、なぜなぜ青い。青い実をたべた。

話は変わりますが、大相撲初場所で日本出身力士として10年ぶりに優勝した大関『琴奨菊』関32歳(佐渡ヶ嶽部屋)の出身地が「北原白秋」と同じ、福岡県柳川市とのことで、3月の春場所での横綱昇進を皆さんで応援しましょう 

 

 


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◎鴫立庵◎

2016年01月26日 | 日本の歴史

今日に古跡として標識の立てられている鴫立沢は、昔の沢らしい面影が残り、景色の最もすぐれている地点を、西行法師を記念するために、後人が選んで、それと名付けたもののようです。

                                          寛文4年(1664)小田原の崇雪(そうせつ)がこの地に五智如来像を運び、西行寺を造る目的で草庵を結んだのが始まりで、元禄八年(1695)俳諧師として有名であった大淀三千風(おおよどみちかぜ)が入庵し鴫立庵(しぎたつあん)と名付け、第一世庵主となりました。                                  その後も有名な俳諧師が跡を継ぎ、今日の二十二世「鍵和田釉子(かぎわだゆうこ)現庵主まで続いているとのことであります。 

 

五智如来の石像も、鴫立沢の標石も、庭内にそのまま残っています。           五智如来とは、釈迦、阿弥陀、大日、薬師、宝勝の五仏を言い、その像は庵後部の丘の上に、東面して並んでいます。

西行法師がこのあたりの海岸を吟遊して、『こころなき 身にもあはれは 知られけり 鴫立沢の 秋の夕暮れ』という名歌を残したことは、史上にも名高い語り草となっています。

                                                      その言い伝えは、すでに古く足利時代からあって、西行が大磯の鴫立沢なる場所で、上記の歌を詠じたことは、動かし難い口碑になっています。

現在、鴫立庵内には鴫立庵室、俳諧道場、円位堂、法虎堂、観音堂があり、庵室については大淀三千風が建てたもので、俳諧道場については三世庵主「鳥酔(ちょうすい」が明和二年(1765)に増築したものと伝えられていましたが、調査の結果 鴫立庵の基本部分は江戸時代のもので、他の建物は江戸時代以降に建てられたものと考えられています。

 

鴫立庵室は歴代庵主の住まいとして使われていました。                そして増築された十畳間には「俳諧道場」の扁額が掲げられ、鴫立庵正庵であり俳諧道場であることを示しています。                          この道場は京都の落柿舎滋賀の無名庵と共に日本三大俳諧道場の一つであります。

また、江戸時代初期に小田原の崇雪という人が西行の歌にちなんで「鴫立沢」の標石を建てたと伝えられ、その標石の裏に「著盡(ああ)湘南 清絶地」と刻まれており、この標石が湘南という言葉の始まりというか、由来発祥の地として注目されているようです。

 

 


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🏞 吾妻山公園 🏞

2016年01月20日 | 日本の四季

去年の暮れだろうか?新聞で吾妻山公園から菜の花越しに富士を遠望した記事を読んだ。                                             我が家からも少し富士は見えるが風もなく好天であり、ふと思い出したのが吾妻山公園。よし 行ってみよう。                                                   JR二宮駅北口に車を置き、二宮町役場前の急坂を登り、役場を過ぎた所から更にきつい300段ほどの階段を一気に登り、浅間神社前を通り管理事務所前に出た。

この吾妻山公園には役場側登り口、梅沢登り口、釜野登り口、中里登り口の4つがあり、私が登った役場側登り口は山頂に近いのですが斜度がきつく4つのコース中、厳しい所のようで、行ってみようと考えられている方は、無理せず休みながらゆっくり登って下さい。                                               振り返ると二宮駅越しに湘南の海が望めます。

管理事務所あたりは窪地になっており、左手には全長102mと言われるローラー滑り台が見え、近くの幼稚園園児が楽しそうに滑っており、歓声が窪地に響き渡っていました。 笑い声には癒されますね。

そこから更に山頂を目指しますが、周りの木々を見ますと桜やツツジ、そしてアジサイの頃も楽しめそうな公園であることを知りました。

                                                       頑張って山頂に出るとビックリ、芝生の山頂で展望台あり、休憩できるベンチや東屋があったりと

                                                     北の丹沢山塊から、西の富士山と箱根・伊豆方面、南に相模湾が輝いて見えました。

最初の新聞の記事から想像したことは、山頂に一面の菜の花畑が広がっているのかと思っていましたが、その辺が勘違いをしていました。                      でも風のない今日は最高です。 たくさんの方々が眺望を楽しんでいられました。

吾妻山公園芝生の山頂広場

北側の景色、丹沢山塊遠望 

菜の花と富士 

箱根・小田原方面 

相模湾の景色です。

2月頃まで菜の花が楽しめるそうです。足を運ばれたらいかがですか?

 

 


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🎍 小正月 🎍

2016年01月15日 | 伝統行事

小正月(こしょうがつ)は15日、正月納めもそろそろです。                                       1月15日を「小正月」といい、この日の朝には小豆粥を食べる習慣がありました。               古くは『土佐日記』や『枕草子』などにも、小豆粥を食べたことが記されており、これを食べて、その年の豊作を祈願したということです。                                      古来、小豆は米や大豆と共に、日本人の食生活に欠かすことができない穀物であり、また、小豆のような赤い色の食べ物は、体の邪気を取り払うと考えられていたため、めでたい日などに、赤飯として供されてきました。

                                                   ちなみに、1月1日から7日までを「大正月」・「男の正月」(特に年男が大活躍するため)と呼ぶのに対して、1月15日は「小正月」とか「女の正月」と呼ばれています。                                      正月中も忙しく働いた女性たちがやっと一息つける頃だから、そう呼ばれているようです。     女性の皆様、本当にお疲れ様でした。                                     神奈川県の大磯町では1月11日(月)に国指定の重要無形民俗文化財である左義長(どんど焼き)が行われました。                             また、地方によっては、「なまはげ」・「かまくら」などの行事が、この1月15日に行われているようです。

旬の草花としては、年明けに咲く花のひとつとして蠟梅(ろうばい)があります。 淡い黄色の小花が枝にいくつも開きます。                             香りかぐわしく、新春のあらたまる気持ちに染み込むようです。

                                                                                                     参考書籍 「日本人のしきたり」                                   

                                                                                                        


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◎ 鎌倉七福神めぐり ◎   

2016年01月06日 | 鎌倉カメラスケッチ

七福神は福神信仰に由来するもので、夷尊神(恵比寿)、大黒天、弁財天、毘沙門天、布袋尊、福禄寿、寿老人という七人の福の神様の集合をいいます。                                                                                                                                                                            このうち、恵比寿神は古神道の神。                        大黒天・弁財天・毘沙門天は仏教の神。                       福禄寿・寿老人は道教の神仙。そして布袋は禅僧で実在した人物とのことです。

                                                         したがって、七福神はインド・中国・日本という三国の、それぞれ異なる宗教が合体してできあがった集団ということになります。                                            下の写真は集合時間前に円覚寺前の白鷺池で見つけたカワセミです。

これらの福神を参詣して回ると、除災招福・諸願成就がもたらされるといわれ、江戸時代にお正月の行事として一般化しました。                              現在ではお正月に限らず参詣されているようです。

JR北鎌倉駅西口の交番前を10時に出発。                                     まず、臨済宗円覚寺派で鎌倉五山第四位の金宝山:浄智寺に向かいました。     山門脇には鎌倉十井の1つである「甘露の井」があります。             甘露と言われたほどですから、昔はさぞ美味しい水だったのでしょう。

浄智寺には境内裏の洞窟に等身大の石像、弥勒菩薩の別の姿である『布袋尊』が祀られています。                                          知恵を授け、福徳円満な人を作る福神です。                             巨大な太鼓腹に、いつも半裸という風体で杖と大きな布の袋を携えていたようです。

ところがこちらの布袋尊は、他の布袋尊と異なり、右手で前方を指しています。   一説に、これは参詣者の「幸せはどこにあるのでしょうか?」という質問に対して「それはお前のすぐ後ろにあるのだ」と教えているのだということです。          これは、入口の山門に掲げられた額の「寶所在近」(ほうしょざいきん)つまり「宝は近きにあり」という文言に由来するようです。

鶴岡八幡宮 『旗上弁財天』                                    源 頼朝が平家の滅亡を祈願したとされる旗上弁財天社は源平池右の中島にあります。 弁財天像は国宝館に安置されており、武運長久、大願成就の福神です。 

                                                    弁財天は七福神の中の紅一点。                                 もとはインドのヒンドゥー教の女神で河川の神様、水の神様でサンスクリット語ではサラスヴァティーと呼ばれていたようです。                             水の流れる音から音楽の神、弁舌(知恵)の神として信仰されました。      仏教に取り入れられた後、わが国にも伝えられ、はじめ技芸の神として崇められ、また、日本固有の神様である市杵島姫命いちきしまひめのみこと)と同一視された結果、琵琶を抱く色白の美女の姿で表されることが一般的になりました。

金龍山:宝戒寺『毘沙門天』                                           北条氏ゆかりのお寺です。 ご本尊の左手に毘沙門天が祀られています。            仏教の四天王の一人で、病魔退散、財宝富貴の福神です。

                                               この地は北条 義時が小町邸を造って以来、代々の執権が住んでいた屋敷跡だといわれています。                                  この屋敷は1333年(元弘3年)新田 義貞が鎌倉に攻め入ったとき全部焼け、同時に百年以上も続いた北条氏は滅びてしまいました。                    その後、1335年(建武2年)足利 尊氏が北条一族の霊を慰めるため、後醍醐天皇の命で寺を建て宝戒寺と名付けたそうです。

にこやかな七福神の中でただ一人、甲冑(かっちゅう)に身を包んで厳めしい表情をしているのが、毘沙門天です。                               もとはインドの財宝福徳を司り、サンスクリット語でクベーラと呼ばれる神様だったといわれています。

叡昌山:妙隆寺『寿老人』                                   「鍋かむり日親」と呼ばれた傑僧・日親上人ゆかりの妙隆寺。               欅一木造りの寿老人尊像が祀られています。                               人々の安全と健康を守り、長寿を司る福神です。

                                                    日親上人は上総の生まれで21歳の時、仏の教えを広めるためには苦しみに負けぬよう修行を積まなければと考え、この寺の池で百日間水を浴び経を唱えたそうです。     その後、京都で将軍足利 義教に「立正治国論」という意見書を出し、政治の悪いやり方を治させようとして、逆に捕らえられてしまいました。              何回も厳しい責めを受け、最後に焼けた鍋を頭にかぶせられるという苦しい罰を受け、鍋かむり日親と言われたようです。

中国の道教の長寿神。                              竜骨座という星座の中に、「カノーブス」と呼ばれる星があります。          きわめて明るい星ですが、南半球の星に属するため、日本ではほとんど知られていません。                                      中国ではかって、この星は「寿星」または「南極老人星」と呼ばれていました。    寿老人とは、この星を人格化したものだそうです。

 

東身延:本覚寺『夷尊神』                                              恵比寿は七福神の中でただ一人の日本の神様です。                 恵比寿は、古く関東では夷尊神(えびすそんじん)と書かれました。 商売繁盛、家運隆盛、縁結び、五穀豊穣の福神です。

                                                   二代目の日朝(にっちょう)上人は「日蓮上人の生まれ変わり」といわれるくらい学徳にすぐれ、40歳の若さで身延山の十一代住職となり、身延山を今の様な立派な寺に建て直しました。                                    それから本覚寺に日蓮上人の骨を分け、東身延と呼び身延山に遠い人の便利なようにしました。 この骨は今も分骨堂に祀られています。                   また、鎌倉時代の刀鍛冶(かたなかじ)として有名な五郎正宗の墓もあります。

                                        漁業と商売繁盛の神様として、今でも全国的に熱心に信仰されています。       狩衣(かりぎぬ)、指貫(さしぬきに風折烏帽子(かざおりえぼし)をかぶり、左脇に鯛を抱えて右手に釣竿を持つ姿は、誰にもなじみ深いものがあります。               (ただし、こちらの夷神像は鯛を持たない古い形の像です) 

                                                                         その釣竿は「釣りして網せず」、すなわち暴利をむさぼらない、清い心を象徴しているといわれており、そこが商売繁盛の神様として人気を集めたようです。

                                          御霊神社『福禄寿』                                            御霊神社(ごりょうじんじゃ)は九月に行われる奇祭「面掛行列」が有名です。      その十面の内の一面が福禄寿で、宝蔵庫に祀られています。 長寿、家禄永遠を司る福神です。

土地の人々は権五郎神社と呼んでいます。祭神は鎌倉権五郎景正という武士です。                 もともと土地の神としての祖先をまつる神社という意味の ようです。          このころ関東には大庭・梶原・長尾・村岡・鎌倉という平氏の一族、五家がありました。この五家の先祖をお祀りする神社として「五霊」神社が創建され、その「五霊」がいつしか同音である「御霊」へと変わり、やがて権五郎景正だけをまつるようになったのではと考えられています。

福禄寿は中国道教の神が起源です。                             宋代以降になると、寿老人が違った姿で描かれるようになります。           それは頭が異様に長く、豊かな白髭をたくわえた背の低い老人の姿でした。         これが七福神中の福禄寿で、したがって寿老人と福禄寿は同一人物ではないかとも考えられています。                                       日本では二様に描かれた同一人物を別人として、それぞれ七福神に加えたのではないかと思われます。 境内の宝物庫に祀られています。

海光山慈照院:長谷寺『大黒天』                                   四季折々の花と由比ヶ浜を一望できる長谷寺は鎌倉有数の古刹。                  大黒堂は下境内に広がる放生池に隣接。 出世開運、商売繁盛の福神です。

                                                721年(養老5年)に徳道上人が楠から彫り上げたといわれる日本最大級(9.18m)の木彫十一面観音像を本尊としています。

大黒堂の本尊は1412年(応永19年)の作で県最古とされ、現在は宝物館に安置されています。                                      これに代わり、堂内には「出世開運授け大黒天」がまつられ、現在七福神めぐりの一つとなっているのは、こちらの大黒様です。

                                             大黒天はもともとインドのヒンドゥー教のシヴァ神の化身の一つといわれています。  仏教に取り入れられてからは、お寺を守護する神様となりますが、日本へは特に「台所の神様」としてもたらされました。                                今でも住職の奥さんを「大黒さん」と呼ぶことがあるのはこのためです。

 

 


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🎍 平成28年 : 2016 🎍

2016年01月01日 | 伝統行事

年のはじめに 夢売りは、よい初夢を 売りにくる。

たからの船に 山のよう、よい初夢を 積んでくる。

そしてやさしい 夢売りは、夢の買えない うら町の、

さびしい子等の ところへも、だまって夢を おいてゆく。

         童謡詩人『金子 みすゞ』名詩集より

 

 


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