Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

森村泰昌展・なにものかへのレクイエム@東京都写真美術館

2010-04-13 22:54:33 | art
森村泰昌展・なにものかへのレクイエム
3月11日(木)-5月9日(日)東京都写真美術館

「森村泰昌」芸術研究所

初日に行ってみました。
ものすごく面白かったのですが、こういうアート系の面白さを言葉にするのはとてもむずかしい。
ワタシが気に入るのは大概、現実感覚や常識のよって立っている基盤が揺らいじゃうようなもの、見ていて、え?ちょ・ちょと待って、これは??・・・と絶句してしまうようなものなのですな。
森村泰昌氏の活動は80年代からなんとなく気にしているのだけれど、やっぱりそういう幻惑-困惑をコンスタントに作り続けているのである。

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(以下敬称略)

写真によって、有名絵画などの既存のイメージを「真似る」(それもどこか胡散臭く)ことで、イメージの重層化、重層化されたそれらの間のズレ、違和感と既視感の微妙なバランスを作り出すことが森村のやってきたことだろうと思う。今回の展示作品も基本的にはその線上にある。

今回はまず、「真似る」対象が、歴史的な人物や出来事、あるいは歴史的な人物や出来事の「像」(有名なジャーナリズム写真など)となっている点が特徴的。意識の向き先が歴史的背景や、オリジナルが持つセンセーショナルな衝撃に向かう。そういう記憶と眼前にある極めて胡散臭いレプリカ。両者と地続きである自分自身の過去や認識がなにやら鈍く強く揺さぶられる。

もう一つは動画の導入である。写真的技術の今日的な選択として当然に動画の使用ということが入ってくる。これは極めて自然なことだと思う。
しかし、「真似る」と動画を組み合わせることで、今度は「演じる」という事柄との境界上をさまよい出す。三島の、レーニンの演説を「真似る」森村の映像。そこには、「有名人物を演じる人」を見ているときの安心感はない。「演じる」ことの本質が、実際とは異なる道具立てを用いて想像力を動員して「演じる」不在の人物像を現前させることにあるとするならば、動画において「真似る」ということには、逆にその不在の人物の現前ではなく、人物についての記憶・像・イメージを動員しつつ、そこからのズレ・違和感を不気味な感覚としてまといつつそこにいる森村という偽者があるのみではないだろうか。

このズレ・違和感、あるいは境界感ともいうべき不気味さ、不安定感が充満しているのが今回の展覧会場である。森村はそれに「レクイエム」と名づけ、さらに名指しすることができずに「なにものかへの」と言ってしまう。「演じる」ことによる生き生きとしたイメージの飛翔、あるいは森村が参照したジャーナリスティックな写真が持つ強度、それらに対してここでの作品群がもたらす違和感・境界感・不気味さ・不安定感の翳りは、否定しがたく死とつながっているように思える。その正体を名指すことのできない死がそこには確かに含まれており、それを形象化することをひとつの鎮魂と呼ぶことは、この作品群について与えられうる言葉のひとつの行為なのだろう。

想像だが、森村はそういう卓越した題材選びを、コンセプチュアルにではなく、成り行きで、あるいは必然的に漂着するところのものをやむなく選んでいるのではないだろうか。
森村は自分のこれまでの試み、「真似る」という一種の方法論が、その手法を巡る(動画という)技術的発展にさらされたときに、不意にむくむくと沸き起こってくる無定形な感覚に驚き戸惑いながら受け止めたに違いない(単なる推測)。巧まずして開けた地平に進むべき道を選択の余地なく発見したに違いない。アーティストの創作はおそらくはこのようになにかに導かれて進むものだと思う。
やむにやまれず、余地なくという鈍い衝動のようなもの。それが根底に感じられるのもまた作品の力となっているだろう。

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作品のもつ「胡散臭さ」の部分は、なにかすごく重要なものを担っているような気がしてならない。
レーニン演説(の真似)のビデオ。舞台は大阪あいりん地区。聴衆は日雇いもままならないであろう労働者たち。ビデオには彼らの愚痴る音声も含まれる。彼らを前にレーニンを真似て大声で芝居がかった演説をしてみせる、そのいかがわしさ。それをパフォーマンスという制度に回収することなく、あるいは記録としてでもない「展示」の作品としてしまうことの内向性。
あるいは、サイゴンでの処刑を模した写真。その背景が白々しくも日本の大通りであることを隠そうともしないばかばかしさ。射殺されるオズワルドの写真。オズワルドが森村自身であることを含め取り囲む大勢の顔かたちがみな日本人であることのばかばかしさ。
あるいはマッカーサーとヒロヒトの会見の場がなぜか酒屋の倉であることのそれ。
これらの胡散臭さは、なぜかそれを笑うことすらできない鈍い重力を持っている。ユーモラスでありながら手放しで笑うことのできないなにものか。

極めつけはあのドイツの独裁者をチャップリンの提示した道化の姿に仮借するという屈折した形で示したビデオ作品。そこではほとんど赤塚不二夫的(?)なほどにくだらないことが行われるのだが、ワタシを含め観客は一人としてクスリとも笑わなかったのが、なんとも印象的であった。



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ユリイカ2010年3月号 特集=森村泰昌 鎮魂という批評芸術
森村 泰昌,福岡 伸一,横尾 忠則,松岡 正剛,日比野 克彦
青土社

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