Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

「恋のエチュード」フランソワ・トリュフォー

2010-04-06 22:47:28 | cinema
フランソワ・トリュフォーDVD-BOX「14の恋の物語」[III]

角川エンタテインメント

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恋のエチュードLES DEUX ANGLAISES ET LE CONTINENT
1971フランス
監督:フランソワ・トリュフォー
原作:アンリ=ピエール・ロシェ
脚本:ジャン・グリュオー、フランソワ・トリュフォー
撮影:ネストール・アルメンドロス
音楽:ジョルジュ・ドルリュー
出演:ジャン=ピエール・レオ、キカ・マーカム、ステイシー・テンデター 他

文芸路線風。
20世紀初のイギリスとフランスを舞台に、イギリス人姉妹(アンとミュリエル)と大陸人(=フランス人のクロード)の間に芽生える愛情の、それぞれの相を描く。
『突然炎のごとく』と同じくアンリ=ピエール・ロシェの小説を原作とする。

アンとミュリエルは姉妹ながら性格がものすごく違っていて、それぞれがクロードと惹かれあうのだが、当然ながらその愛情の形はまるで異なる。その違う愛の姿を描けること、それを映像にすること、そのことにトリュフォーは倒錯的とさえ言える喜びを感じていたのではないか。そんな感想を抱かせるほどに、細部には妙にこだわり、全体の説話的展開はナレーション(早口な)を多用するなどしてどんどん進んでいってしまう。その作り手の手つきがなにやらほほえましいし、それによってこの映画が「文芸作品」となることに「失敗」し、「官能の映画」となることに「成功」したことは、ワタシの嗜好にとっては幸運なことである。(し、公開当時の興行的失敗をももたらしたわけだけど)

まず強く印象付けられるのは、姉妹の顔つきの違いである。二人とも向こうの世界的な美女ではなくて普通の人。そしてアンは目のくりっとした女性らしい顔つきであるのに対し、ミュリエルは細く鋭い骨格と目を持つ神経質そうな男顔である。これが本当に姉妹なの?
二人に与えられた性格設定が、この顔つきから茫洋と立ち上ってくる人格のイメージにしっかり裏打ちされて、単なる設定以上に観るものに伝わってくるのは、この映画の実にうまくいっている点である。

優しく抱擁感のあるアンについてはクロードとの関係を安心してみていることができる。田舎での幸せなつかの間のロッジ(というかあばら家)生活の気分を、こちらも幸福感を持って味わうことができる。(しかし、デートにさそったらあばら家だったって、現代日本ではまず破局フラグw)

一方で繊細で外には棘を張り巡らせ、しかし内面ではガラスでできた心にクロードへの一途な思いを閉じ込めているミュリエルは、クロードとのやりとりもとても痛々しく見える。3人でテニスに興じるシーンの、逆光を伴う居心地悪い感じは観ていて辛いほどである。(実際そのあとミュリエルは倒れてしまうわけだが)

この感覚の振幅がこの映画の面白いところ(のひとつ)であって、それを彼女たちの顔つきをはじめとした視覚的に想起される内観として体験できるように作ってあるのがいいと思う。まあ、映画ってみんなそんなもんだろうけれど、それが成功するかどうかはあるよね。
その内観っていうのはなんというか、生々しい感情であって、恋愛の映画であるからにはそれはなんとも官能的な気分に通じてくるのは道理というもので。愛の帰結は情事である的な「単純な」この映画のプロットも、実はこの「映画的官能」を成就させるための意識的な(あるいは無意識な)選択なのではなかろうか?とかいう気もする。
プロットから読み取れるゴールはセックスだというような単純恋愛感を、抽象的に捉えてこの映画を観てはいけないような気がするのだな。

最も「映画的官能」が高ぶりを見せるのは、まったく期待通りに、終盤クロードとミュリエルが結ばれるシーンであると思うのだが(性交もそこではじめて直視されるのだが)、ここはミュリエルのガラスハートがとうとう終焉を迎えるところでもあり、和解=終焉という倒錯したドラマが二つのからだの重なりによって文字通り肉感的に感じられる場面である。この倒錯は、男顔ミュリエルとどこか頼りない童顔クロードの交わりという視覚的倒錯によっても裏打ちされているような気がする。そういう多層的な感情の高ぶりを感じさせるという点で、ワタシの中ではベルトルッチ『ドリーマーズ』と並ぶ、美しい愛のシーンとしてこの場面は記憶されることだろう。

****

姉妹のイギリスでの住まいが実によいたたずまいですね。荒涼とした海辺の斜面にぽつんと立つ洋館。海を見やることもできるし、斜面の上から家を見下ろすこともできる。日差しはあるけれどどこか寒々しい空気感によく合ったロケーション。

クロードの位置づけもよく考えてみると面白いのだろう。冒頭で説話的にはまったく無意味に骨折してみせるのには、なにやら不思議な意味がこもっているように感じられる。また母親との密接な関係も。さらにはトリュフォーにとっては分身アントワーヌ・ドワネルを演じているレオーが、はじめてドワネルを離れクロードを演じていることについても。

冒頭にあったミュリエルの幼少の頃の写真が、終わり近くに忘れずに再登場するのもさすが。

うまく溶け込んでいつつもなかなかに凝った音楽を提供しているジョルジュ・ドルリューがチョイ役で出ているのもよし。

トリュフォーは晩年のアンリ=ピエール・ロシェと親交を温め、
『突然炎のごとく』の映画化については主演女優の写真をロシェに送って感想を求めたりしたそうである。
ロシェは小説を二作しか書かなかったそうであるが、二作ともトリュフォーによって映画化された。ロシェ自身は映画を観ることなく他界している。




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