Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

「旅芸人の記録」テオ・アンゲロプロス

2010-04-10 01:44:10 | cinema
テオ・アンゲロプロス全集 DVD-BOX I (旅芸人の記録/狩人/1936年の日々)

紀伊國屋書店

このアイテムの詳細を見る


旅芸人の記録O THIASSOS
1975ギリシャ
監督・脚本:テオ・アンゲロプロス



公開時に見逃して以来観る機会を逸していて
ようやく巡り会いました@ユーロスペース

ものすごい長回しとか、言葉を極力排除したつくりとか、
そういうことは、観ているうちに逆に気にならないものとなり、
それはもとより技法なのではなくて、絵と音と時間に何を求めるかという
作り手のリアリティやセンスの帰結なのだなあと。

そういう抽象的なことを観ている間は考えはしなかったんだけれども。

説明的なことはほとんどなく、でもそこに起こる事柄を注意深く理解しようとしてれば、なにが起こっているのかはある程度知ることが出来て、それは言葉で説明されるよりはより体感に近い感覚なのだった。
そういう体感映画をワタシは基本好むのであって、自分がヨーロッパやその他の映画的周縁地域(?)の映画を発見していった頃の喜びがひしひしと思い出されてくる。

こういうことのもろもろを一言でいうならば、「フランス映画社的」あるいは「BOWシリーズ的」だな(笑)







ということですが、『旅芸人の記録』は好きな映画です。
一座の行く先々の出来事や、その舞台となる一様に古めかしく朽ちた街や建物の風情や、彼らの服装や持ち物。そういったもろもろが、彼らの生きた現実を肌で感じさせて背筋がぞくぞくしました。

20世紀のあの時期に、ヨーロッパの周縁国ではどこでも大変な変動があったわけで、それはつい最近のことでもあり、今現在に地続きなわけだけれど、そのさなかに右往左往した人間にとってはそれはそれは重い経験をしたはずで、そうした出自を持つ映画作家はこういうある種の怨念をあるがままに形にするというやり方で世に出ることは多いだろうな。

自分が避けて生きていくことの出来ない問題意識と向き合うこと。
これが表現や創作のひとつの姿だとするならば、
この作品はそういう真摯なもののひとつの実現だと感じたな。

****

共産主義なのか保守なのか
イデオロギーによって人間が分断され敵対する
その力学は嵐のように巻き起こり、水があふれたようにすみずみまで染み渡ったのだなと。それは旅芸人の一座の生活にもしっかりしみ込んでいく。
時代の意識無意識が形成されるというのは、思考の形成ではなくてそういう「染み込み」の感覚なのだな。
画面が、路地が、建物がいつでも湿っぽい感じで撮られているのもそういうことなのかな、とこじつけてみる。
乾いた感覚の画面はまるで出てこない。いつも雨上がりのような。

その「染み込んだ」意識無意識がもたらした対立や悲劇については、あまり書く気にならない。そういうことと、一座が上演する劇との類縁などについてはすでにあちこちにかかれているのだし。あの映画の湿度の記憶を思い起こすことだけでなにか胸がいっぱいになり、それ以上の言葉が必要な気がしない。

断罪も告発もしていないからだろうか。結論を出すということは整理であって抽象化である。そういうプロセスを持たない形での現前をこの映画は求めていると思うのだ。
だから言葉を費やす気にならないのか。

曇天と湿った石畳。

******

なんかいつにもましてまとまりのないことですみません。


なぜか観終わった頃にひょいと思い出したのは『パンズ・ラビリンス』だった。
あれもやはりイデオロギーで分断された人間の悲劇。
それをどう映画とするのか、その目指す形や方法や結果はなんと様々であることだろう。
この多様性こそが、なにかワタシをふっと救われたような気分にさせるものなのかなと思ったりするわけで。

あとは、音楽や歌(劇伴ではなく画面にいる人間たちが発する音だ)が多く印象的なのは、これはある種のミュージカルなのかなとも。


もう一度観たい~




人気blogランキングへ
↑なにとぞぼちっとオネガイします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする