イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

文学部唯野学部卒④ 傍らにいてくれるもの

2008年01月12日 22時34分12秒 | 連載企画
意表つく辞書の定義に吐息漏れ

(解説)辞書を引くといろんな発見がある。英文を読む。まったくの見ず知らずの語に出くわす。辞書を繰る。意味が載っている。おそらく英語を母国語とする人なら、誰でも知っているような言葉に違いない。だって、この英語に匹敵する日本語を知らないことなど日本で生まれ育ったひとならありえないでしょ、というような語なのだ。Oh my god. なんてこった。ぼくは、こんな基本的な語も知らない。ああ、なんでぼくはこれまでこの語に出会わなかったのだろう、なんでこの語にもっと早く出会わなかったのだろう。この期におよんで、こんな簡単な語も知らなかったなんて恥ずかしい。こんなぼくをどうか許してほしい。いや、許してください。ああ、神様。こんなぼくを、どうかお許しください。神様~。と、おもわず天に向かって懺悔をしたくなるときがある(ご清聴、ありがとうございました)。

でも一番ドキッとするのは、すでに知っているつもりだったり、文脈から考えて、おそらくこういう意味だろう、と高を括っている語に対して、念のためまあ確認しておくか、と思ってなにげなく辞書を引いたときに、自分が想像していなかったような意表をつく定義が載っていたときである。体がかすかにぴくっとする。おもわず「あっ」とちいさく吐息がもれる。危ない危ない。誤訳するところだった。でも、冷や汗と同時に、ほう、なるほどね、という小さな驚きも感じている。こりゃあ、めっけもんだ。横着せんとちゃんと辞書引いといてよかったわ。で、それがちょっとした快感なのである。そしてこの「あっ」があるかもしれないという予感が、また今日もぼくを辞書に向かわせるのである。ああ、神様~~~。

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文学部出身であること(あるいは文学的なものが好きであることと)と、世の中をどう渡っていけばよいかということに、どう折り合いをつけていけばよいのか。それは全国に300万人(まったくの推測)いる文学部出身者ひとりひとりが抱えている問題だと思うから、ぼくには何もいうことはできない。卒業してからは文学的なものと一切の決別をして生きているひともいるだろうし、文学的なものを人生の楽しみにして生きているひとも、もちろんたくさんいるだろう。あるいは、文学部的な活動そのものを生活の一部にしている人もいるだろう(直接的であれ、間接的であれ)。でも願わくば、文学的なものがその人たちの生活のなかで、わずかでもいい、役に立っていたり、彩を添えてくれていたり、心の支えになってくれていたりしてくれればいい、と思わずにはいられない。文学的なものは、ほとんどの人にとって、病をすぐに治してくれる薬ではないし、生活を支えてくれる飯の種でもない。でも、文学的なものや、それを好きであることは、きっとどこかにその存在意義があるはずだと信じたいのである。せめて、処世という文脈において役に立たなくてもいいけど(役に立てばもっといい)人生という文脈においてはスパイスとしての役割を果たしてほしい。わんぱくでもいい、たくましく育ってほしい、と思うのだ。

ぼくのやっている翻訳関連の仕事は、かならずしも世間的には文学的、とは呼べないものだ。マーケティング資料やら法律文書やらマニュアルやらの実務翻訳の世界は、企業文化という世界のお堅い文章が対象になっているわけで、ある意味文学とは対極に位置するものではある。でも、種類は違っても、扱っているのは「言葉」なのだ。たとえるならば、実務翻訳と文学の世界は肉食動物と草食動物ほどの違いがあるかもしれない。でも、同じ哺乳類であることに変わりはない。言葉を扱っているという点で、なにより「よい文章を」作って売るということを商売にしている点では、加湿器の取り扱い説明書であろうが、レズビアンの恋愛小説であろうがまったく同じだ。だから、ぼくはなかば強引に、自分の仕事は十分に文学的なものではないかと思っている。あるいは、文学的な素養が十分に「武器になる」世界ではないかと考えているである。

文学的素養、というとたいそうに聞こえるし、決して自分に文学的素養なるものがたいしてあるとも思わない。だけれども、訳文を作ったり、人の訳文をチェックしたりするときに、ぼくを支えてくれているもの、ぼくの土台となっているものは、なんといってもこれまでに読んできた数多の本なのであり、そこで出会った言葉たちなのであり、文学的なものが好きで人生を棒に振りかけた自分の過去なのである。そして、この「文学的なるもの」の存在は、翻訳作業をしているときに、とてもとても心強いのだ。

この文学的なるものは、目に見えるものではないし、資格試験みたいに証書で証明できるものでもない。でも、それがなければ、この「文学的なるもの」が自分の傍らにいつもいてくれることがなければ、決してこの仕事はやっていないだろう、と思う。そしてそういうときに、ああ、文学部的な自分でこれまで生きてきてよかったな、ムダばかりしてきたけど、ようやくいろんなことが役に立つときがきたな、あのとき、××しといてよかったな、でもやっぱり○○は△△にしておけばよかったな、そういえば石川君いま元気かな、などとこれまでの文学的な人生のいろんな思い出が走馬灯のように蘇ってくるのである。そして、こんなぼくのような人間でも好きなことを生かして世の中に小さな居場所を見つけることができたのだから、文学的な素養を生かして、もっともっと大きな活躍をしている人はたくさんいるだろうし、そういう力が求められる場面も、ぼくが知らないだけできっときっと数多くあるのだろうな、という風に思ったりもするのである。

もちろん、はしくれ翻訳者として走り始めたぼくの目の前はまだまだお先真っ暗であり、いつなんどき人生の奈落に転落するかはわからない。しかしそうなったらそうなったで、それは十分に文学的なことなのではないのだろうか、とおもったりする。ともかく、文学部万歳!
(連載完)

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