イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

文学部唯野学部卒③ 活字系の生きる道

2008年01月11日 22時55分28秒 | 連載企画
往き帰り目線そらしてすれ違う

(解説)毎朝、駅までの道のりを往くときに、すれ違う人がいる。その人は男性で、年齢は30代半ばくらい。いつもきっちりとした身だしなみをした、まじめそうな人だ。彼は、ぼくの逆方向から歩いてくる。ぼくは武蔵境の駅に向かって歩いているが、彼は武蔵境の駅を出て、ぼくの家の方角にある職場に向かっている。ぼくが家を出る時間は、毎朝、数分単位で微妙に違っている。だから、彼とは通勤経路のいろんな地点ですれ違う。ちなみに、ぼくの家から駅までは徒歩20分弱。そして、彼の歩くルートは、ぼくのルートとまったく同じものを逆にたどっている。なぜそれがわかるかというと、ぼくは公団に住んでいるのだけど、エレベータを降りて表に出たとたん、彼と出くわしたことが何度かあるからだ。彼はそのままぼくの家の前を通り過ぎていき、そして、彼の勤務先である(とぼくは踏んでいる)その先の女子大の方に歩いていく。というわけで、かなりの確率で毎日彼とすれ違っているのだが、まあ、当然というか、言葉を交わしたことなどない。これが、外国なら、いつのまにか友達になったりするんだろうけど(すれ違いざまに見ず知らずの人が挨拶する文化、いいんだよな~)。でも、日本人のぼくたちは、挨拶どころか目線も合わせない。わざとらしく、お互いに前をまっすぐ見つめて、すれ違うだけ。だけど、ぼくが彼のことを認識しているように、彼もぼくのことを認識しているのは間違いない。それは、その目線の「そらし加減」でわかるのだ(あるいは、目線の微妙な泳ぎ方加減)。彼とすれ違うとき、おはよう、毎日ごくろうさん、という気持ちになることもあるけど、正直、毎日毎日同じ顔を見せられてうっとうしいな~、と思うこともある。今日もまたお前か、みたいな。俺のシマに入ってくるんじゃねえ、なんて思ったりする。動物的本能なのか。ともかく、なんだかこっちの行動がみすかされているようで、なんとなく気恥ずかしいのだ。

そして、実はそんな彼と帰り道もすれ違うことがある。今度は、逆だ。ぼくは駅を出て家までの道のりを歩いているし、彼は職場を出て駅に向かっている。遠くから彼が歩いてくるのを見かけると、やれやれ、と心の中で苦笑してしまう。また会っちゃいましたね、なんだか、バツがわるいですね。見られたくないとこ見られちゃいましたね、みたいな感じだ。別に悪いことしてるわけじゃないんだけど。彼は他所の町で寝起きして、武蔵境で日中をすごしている。そしてぼくは武蔵境で寝起きして、他所の町で日中をすごしている。まるでお互いがお互いの分身だ。ともかく、今日一日、ご苦労さん。あるいは、やっぱりまたお前かよっ!ってなことを思う。多分、相手も同じことを考えているのだろう、どことなく、ぼくを見つけたその顔がちょっと笑いをこらえているような、あるいは見たくないものを見たような、なんともいえない顔をしているのである。そして、そんなときもやっぱり、お互い目線をわざとらしくそらして、そ知らぬ顔してすれ違うのである。

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昨日と一昨日のエントリを読みかえしてみたら、文学部について「役に立たない」みたいなことをかなり直截的に、一般論として言ってしまっていることに気づいた。これはひとえにぼくが不真面目で自堕落な学生であったから、そういう刷り込みがされてしまっていることからくるわけで、あくまで自分を基準にして述べているのです。きちんと目的を持って文学部で勉強してその後の人生に役立てている人はたくさんいる、ということをあらためて付け加えさせていただきたい。

ところで、翻訳の世界にいる人たちが、どういう経緯を経てこの道を目指すようになったのか、ということを考えるとき、実はいろんなパターンがあることに気づく。語学が好きだったから入ってくるパターンもあるし、専門分野から入ってくる人もいる。あるいは、経済的な理由や労働条件などが出発点の人もいる。在宅でできるとか、フリーでできるとか、独立したかったからとか、お金が儲かりそうだったから、とか。そして、読んだり書いたりすることが好きだったから、ということから翻訳の道に進もうと考えた人も多いと思う。かくいうぼくもそうだ。先の例を語学系、専門知識系、独立系という風に分類できるとしたら、本好きが転じて翻訳を目指したタイプを活字系、とでも呼ぶことができるだろうか。ぼくの場合は、翻訳をやろう、と思ってから、やおらそれに必要なことを勉強し始めた。英語力も、専門知識も、営業面も、すべて後付けで学んできたし、今でもこれらについてはあまり自信がない。仕事の段取りをしたり、原文を苦労して読んだり、専門的な内容を勉強したり調べたり、こうしたいろいろな作業は、とても楽しいしやりがいがあるのだけれど、ぼくにとっては最終的に日本語をアウトプットするために必要な準備期間という気もする。日本語を吐き出せる瞬間を味わうために、苦労して身につけた筋肉、みたいな感覚だ。やはり活字系としては、訳文を作っているその最中が楽しく、楽しいといいつつ苦しみはしながらも、書いては消しの粘土細工をしているときが一番やりがいを感じるときなのである。でも、だからといって巷でよくいわれているように、翻訳には日本語力が一番大切だ、などとはいいたくはない。もちろん日本語は大切だ。でも、そこで鬼の首とっちゃって、日本語だけでいいと浅く見切りをつけちゃったら、語学力や専門知識を伸ばそうとする可能性が狭まってしまう。いやしくも翻訳者としての看板を掲げている以上、語学のプロであり、自分の専門分野のプロであり、仕事人としてのプロであり、そしてその上で日本語のプロである、ということが求められていることを忘れてはならないし、どれかが大切ということではなく、すべてが等しく大切なのである(と、自戒を込めて言おう)。そう、翻訳はトライアスロンなのだ。ラン、スイム、バイク、どれも大切だし、まんべんなく鍛えていかなくてはよい結果を出すことはできない。

それでも――いくら翻訳が鉄人レースであろうとも――、翻訳が言葉に関わる仕事だということには変わりがない。そして、文章を作ったり赤を入れたりしているとき、言葉をあつかっているとき、ぼくは他のことをしているときよりもはるかにアドレナリンがでるし、楽しい。こういう作業は、やはり自分に向いているのかな、と思って嬉しくなる。といっても、こういう楽しさとか嬉しさとかを仕事をしながら感じることができるようになったのは本当にここ3年くらいの話であって、翻訳者になったばかりのころは、自信がないからいつも汗タラタラだったし(その分、ものすごく真剣に仕事をしていた)、その前は翻訳会社の営業だったのだけど、一生懸命にはやっていたものの、こころから仕事が楽しいとはどうしても思えなかった。売上を上げることがいいことだと、いくら頭にいってきかせても、ハートがYESといってくれなかったのだ(あんまり文学部の話に関係なくなってきたけど明日に続きます)。

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2 コメント

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唯野文学部卒です (清ん)
2008-01-11 23:16:57
こんばんは。
私も文学部卒ですが、英単語を5つくらい辞書でひいたら吐き気を催す末期的症状の出る英米文学科卒です。

私の学生時代の同級生は誰も英語に携わる仕事をしてないので、iwashiさんはじめ英文男さん(夏目さんと語り口調が似てらっしゃいますね)や比較女さまのように活躍されてる方を見るとすごいと思います。
まるで弱小草野球チームのリトルリーガーがプロ野球選手やメジャーリーガーを見る眼差しです。
文学部ここにあり!で今後もがんばってください。
唯野主婦としてみなさま応援しています。
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Unknown (iwashi)
2008-01-11 23:53:28
清んさん

こんばんは!。
清んさんも文学部でしたか。ぼくも心理男なのですが、心理学を専攻していて卒業してから心理学を実際に役立てているひとはかなりの少数派とおもわれます(というか知らない)。世間の多くのひとたちが勉強したこととは直接関係ない仕事をしているのかもしれないと考えると、勉強とは人生における幸せな寄り道なのかもしれませんね。これからも文学部魂でがんばります!
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