イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

フリーランス翻訳者殺人事件 4

2009年01月30日 13時20分31秒 | 連載企画
しばらく仕事をしてから、わたしは休憩をとった。誰もいない部屋。誰の眼もないこの部屋。仕事をするのも、休憩をとるのも、わたしの自由だ。今この場で、素っ裸になって逆立ちをしても誰にも文句は言われない。マジックで腹に福笑いまがいの顔を描いて、腹踊りを始めたって誰にも白い眼でみられたりはしない。わたしは自由なのだ。だが自由って何だろう? 会社員時代、あれほどまでに手に入れたかった自由とは、いったい何だったのだろう? それは、裸で逆立ちすることでも、腹踊りをすることでもないことだけはたしかだ。そんなことのために、わたしは今、ここにいるのではない。わたしは一抹のむなしさを感じた。

わたしはリビングの台所に立ち、やかんに水を入れて火をかけた。生姜をすり、レモンを絞ってマグカップに入れ、沸騰した湯を注いだ。しょうが湯をひとくち啜り、リビングの本棚の前に立った。和書や仕事関係の本は、別の部屋にある本棚のなかだ。リビングの本棚には、洋書と翻訳書だけを置いている。数えたことはないが、合計すれば千冊は下らないだろう。会社員だったころ、わたしは何かに憑かれたようにして新古書店で本を買い漁った。仕事で忙殺され、家に帰ってからも個人として請けていた書籍の翻訳の仕事に追われた。本を読む時間がなかったわけではない。だが、読めなかった。思うように、浴びるように読みたいという気持ちは澱のようにわたしのなかにつもっていった。その反動からか、書店で本を買い求める頻度は増していった。買い集めた本をいつ読むのかという問いに対する明確な答えを持たないまま。

時間のあるときに読みすすめてはいる。だが、すべてを読み終えるまでにいったいどれくらいの時間がかかるのか、想像もできない。そもそも、そんな日がくるのかどうかも疑わしい。だけど、わたしは本を買わずにはいられなかった。翻訳を志し、情熱を燃やし始めてから、気がつけば10年以上が経過している。本棚に眠る書物たちは、わたしの志の証だ。どうしても翻訳の仕事がしたい、と願い続けた過ぎ去りし日々の、動かぬ証拠だ。しょうが湯を飲みながら、わたしはその場にしばし立ちつくした。今、熱い日々は過ぎ去り、わたしは念願のフリーランス翻訳者になった。ずっと夢見続けていた、翻訳者になった。明けても暮れても翻訳ができる立場になった。本だって浴びるほど読める身分になったはずだ。もう会社に時間を束縛されることはない。だが、「会社が束縛していたわたし」とは、何者だったのか? わたしはありもしない自由を求めていただけではなかったのか?

いや、こんな問の立て方は間違っている。わたしは夢に向かってまい進しているのだ。ひとつの目標を定め、それに向かって道を歩んでいるのだ。走り続けているのだ。後ろを振り向いている暇はない。たとえゴール直前のラストスパートで無情にも瀬古に抜かれてしまおうとも、ひたすら前だけをみて走り続けなくはならないのだ。スタート直後からいつも先頭にあることだけを目指していた、イカンガーのように。わたしはネガティブになりがちな自分のこころを戒めた。そんな弱い自己を嫌悪した。わたしがすべきことは、過去の肯定だ。願いどおりの立場になることができた、恵まれた自分の人生に感謝することなのだ。自分の身の回りにいる人たちへの、尽きることのない感謝の気持ちを感じ、それを態度で表していくことなのだ。フリーランス翻訳者として、まっとうに生きよう。これまでと同じくらい、いやそれ以上の大きな夢を描いて。

書物は何も語らず、ただ黙って本棚に収まっている。わたしはテレビのない部屋で、テレビがないことについてもう一度考えることにした。テレビがないことで、わたしはかなりの情報欠落人間になっている。流行りの芸能人、ドラマ、音楽。わたしはまったく時代に追いついていない。大きく取り残されている。だが、もともとわたしは流行りものには疎いほうなのだ。テレビがあったとしても、最先端の情報にキャッチアップすることなどできない。だから、そのことについてはあまり気にならない。惜しむらくは、良質のドキュメンタリー番組を見れなくなったことかもしれない。文化人、芸術家、ビジネスマン、市井の人々。世の中には面白い人たちがたくさんいて、それぞれに毎日を過ごしている。そんな人たちの生きざまを見せてくれるトークショーやドキュメンタリーが、わたしは好きだった。テレビで初めてその人の存在を知り、その人について調べる。その人が書いた本を読む。そうやって芋づる式にわたしは多くの人々とのバーチャルな出会いを果たしてきた。テレビの画面のなかで人が動き、呼吸し、語る。その様をみながら、わたしは世の中と繋がっていたのだ。だが、今はそれも気にしないでおこう。テレビのある生活は、いずれまた始まるだろう。画面を通じて、また新しい人たちとの出会いがあるだろう。そして、ついついテレビを見すぎてしまう自分を、わたしは戒めているに違いない。テレビの電源をオフにして、仕事をしなければ、本を読まなければと自らにいいきかせているに違いない。今はたまたまテレビがないだけだ。誰もいないこの部屋で、ひとりしょうが湯をすする生活だって、いつまでも続くわけじゃないと信じたい。きっとまた、暖かい暮らしがわたしを待っているはずだ。そのときが来るまで、この独りの暮らしをせめて楽しもう。自分と向き合い、書物と対話しよう。いっぱしの翻訳者だと世間が認めてくれるまで、努力を続けよう。納得のいく仕事ができるようになるまで、自らを磨き続けていこう。テレビがないことくらい、なんともない。海外に住んでいると思えばいいじゃないか。日本のニュースもドラマも見れなくたって、数年間くらいは問題ないはずだ。そうだ。わたしは今、リオ・デ・ジャネイロに住んでいるのだ。

わたしはマグカップのなかのしょうが湯を飲み終えた。仕事を再開しようと思った。だが、すぐにはコンピューターに向かうことができなかった。わたしの頭に、四文字の言葉が浮かび、そのことについてしばし考えてしまったからだ。わたしはソファに腰を下ろした。焦点をどこにも合わせないまま、わたしの心にふと舞い降りたその四文字を、口に出してみた。

「殺人事件」とわたしは言った(続く)。


※この物語はちょっとだけフィクションです。登場する団体名・地名・人物などはいっさい現実と関係ありません。

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