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件名:Re:Re:Re:Re:こんばんは
送信日時:08/13 14:20
ささやかながら晩ご飯を準備していますので、晩ご飯食べちゃだめよ
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その日、僕が其中庵を目指してタクシーに乗っていた頃、清君からこんなメールをもらっていた。でも目の前にある料理は、「ささやか」なんてものではなかった。清君の家では、「満漢全席」という四文字を、「ささやか」と読んでいるのかもしれない。このご馳走を作った靖子さんの大変さを想像すると、申し訳ないような気がする。僕が新山口でブラブラしていたときから、準備をしていてくれたのだろう。でもやっぱり、三人の気持ちがヒシヒシと伝わってきて、ものすごく嬉しい気持ちでいっぱいになった。靖子さん、ホントにありがとう。ふだんはろくな料理も作れず、食べるモノもなくて、チンしたニンニクをつまんで嘔吐しているような男だ。その男の前で今、タイやヒラメが舞い踊っている。そういえば、浜田駅前に最近できたという石見神楽を象ったからくり時計は、竜宮城に似ている。ここが竜宮城なのだとしたら、僕はやっぱり浦島太郎なのだろうか。
満を持してビールで乾杯した! 料理をいただく。どれもすごく美味しい! 遠慮無く箸をのばし、注がれるままにビールを胃袋に放り込んだ(高田延彦風)!そしてこの日は奇しくも清君の39回目の誕生日でもあった! 清君、おめでとう~
何から話せばいいのだろう? とにかく、思いつくままに、あのとき清君はどうだった、かぺ君はああだった、こっちゃんはそうだった、と唐突に記憶をよみがえらせながら、思いつくままに相手にそれを投げてみる。そうやったね、そうだったっけ? いやそうじゃないよ、あれはね...。僕が覚えていることを清君が覚えておらず、かぺ君が懐かしそうに話すエピソードが僕にはわからない、みたいなものもある。記憶というものは恐ろしい。勝手に解釈をして嘘の事実を作り上げてしまっている。特に僕は地理的な感覚を失っているから、かなりおかしなイメージで過去を認識している(もともと頭のできがよくないだけだったりして)。清君のことを僕は「マキヨシ」と呼んでいたのだけど(マは、名字の最初の文字)、そう呼んでいたのは僕だけだったらしく、しかも「マッキヨシ」と小さい「ッ」を入れていたのだそうだ。それから、加瀬君のことを「かぺ君」と名付けた?のも僕だったみたいだ。かぺ君曰く、僕は宇宙人みたいなヘンな発想の持ち主だったのだそうだ。たしかに、そういう変人なところは今もまったく変わっていない。こんな風に、「そうだったのか!」と思うこともいっぱいあったけど、ほとんど同じ記憶を共有している逸話もたくさんあった。人間ってすごい。
1年生とのき、ヒロシ君と休み時間に相撲をしていたかぺ君がアゴを廊下の床に打って血だらけになったとき、僕は爆笑していたらしい――たとえば、そんな話だ。すっかり忘れていたけど、そういえばそんなこともあった。いや、たしかにあった! そうだ、はっきり覚えとるよ! そういう風に、記憶が芋づる式によみがえってくる。かぺ君が医者でアゴの傷を針で縫って戻ってきたとき、髭みたいに糸がアゴから垂れているのをみて、さらに爆笑したんだよね。わるいことしたなぁ。ごめんねぇ。いいよ、まあ、子どものことだからね、昔のことだから、そう言ってかぺ君も笑った。でも、瞳の奥が不気味に光っていた。「こっちゃん、なして(どうして)あのとき笑ったか!」かぺ君の28年ごしの怨念が伝わってくるようだった。沼で捕まえたアメリカザリガニを、清君の家の玄関前にある溝で放し飼いにしていたことがあった。そうそう、そんなこともあった! 当時から清君は、やることがダイナミックだったよなぁ。はっきりと覚えていることよりも、言われてみると思い出すものの方が、なぜか懐かしさを強く感じたりするのだ。
当時どんな遊びをしていたか、数え上げればきりがない。草野球もしたし、カブトムシの幼虫やザリガニを捕まえたりした。ウルトラ怪獣の消しゴムを集めて、紙箱の上で相撲を取らせて勝負した。メンコのことを、浜田ではパッチンと呼ぶ。こっちではメンコは四角ではなく、丸い形をしている。勝負には、この地方独特の赤瓦を使う。瓦の上に置かれた相手のパッチンを弾いて落としたら勝ちなのだ。あの頃、誰もがとりつかれたようにパッチンに興じていた。赤瓦はいたるところにあった。それを大人に断って借り、ときには勝手に拝借して、勝負を続けた。1枚10円くらいのパッチンを、勝てば相手から取り上げ、負ければ取り上げられる。今にして思えば、これはもう立派なギャンブルだ。大人もよくそれを放置していたものだが、当時の社会には子どもの賭け事を許容する器があったということなのかもしれない。子どもであっても、抜け目のない奴、勝負勘のある奴はとことん強い。僕もかなり熱中したけど、強い奴にこてんぱんに負けて泣いて家に帰ったことも何度もあった。転校したらパッチンじゃなくてメンコって呼ばれててさ、丸くなくて四角なんだよ、まいったよ、カルチャーショックだよ、と僕は言った。
そういう風に遊びの話をしていたら、次々にいろんな記憶がよみがえってきて異常に話が盛り上がった。それが最高潮に達したのが、「にむし」という、この地方に特有と思われるゲームが話題になったときだった。ルールを説明しよう。
にむし
1. 複数名の参加者が、2組にわかれる。
2. 10~15メートルくらいの距離をおいて、直径2メートルくらいの円を2つ描く。
3. 攻めのチームは、片方の円の中に入る。
4. 守りのチームのうちの2名が、それぞれの円の前に立ち、野球用のゴムボールを使ってキャッチボールをする。
5. 攻めのチームは、守りのチームがキャッチボールをしている間に、反対側の円めがけてダッシュする。
6. 守りのチームは、走った相手にボールをぶつける。ボールをぶつけられた人はアウト(死ぬ)になる。ボールをぶつけられても、そのボールが地面に着く前に円の中に入ればセーフ。
7. 攻めのチームの誰かが、1往復したら「いちむし」。2往復したら「にむし」、というようにカウントしていく。10往復したら「じゅうむし」になって、死んでいた仲間が全員が復活する。その前に全員がアウトになったら攻守交代。「はちむし」になったら、声に出して「はちむし!」と宣言しなければらならない(王手!みたいなもの)。
8.これを延々と続ける。スリル満点で最高に面白い。
ちなみに、1往復することをなぜ「むし」というのか、ゲームにおいては特別な意味を持たない「にむし」が遊びの名前になっているのかは、誰にもわからない。
ともかく、にむしも異常に熱中した遊びだ。清君もかぺ君も、ひさしぶりの「にむし話」に目を輝かせている。「にむしやりたいね~」と清君が言った。「うん、ぶちやりたいわ」たまらなく懐かしそうに言ったかぺ君の瞳が、マムシのように鋭く光った。
話しながら、つくづくあの時代に、浜田で子ども時代を過ごすことのできた幸運を味わった。浜田の伝統によって培われた独創的な遊びの数々を、毎日いやというほど堪能することができたのだから。そして、そんな遊びが今の子どもたちに伝わっていないことを、残念に思う。
話は尽きることがなかった。毎日のように通っていたおばあさんの駄菓子屋の話、懐かしいクラスメイトの話、景山先生の話。かぺ君は景山学級ではなかったのに、景山学級のことがとても気になっていたらしい。景山ジャンケンという、景山先生が編み出したジャンケンのことも知っていた。靖子さんは学校の先生をしている。景山先生の話にも興味を持って耳を傾けてくれる。だけど遊びの話では、少々興奮した三人は小学生に戻って夢中になっていたから、理解するのが大変だったかもしれない。ちょっと申し訳なかったかも。だけど彼女は、楽しそうにずっと笑顔を見せてくれていたのだった。
ビールをたらふく呑ませてもらった後でも、焼酎、ハイボールなどなど、次々にお酒を出してくれる。あれだけたくさん美味しい料理をいただき、もうさんざん呑んだはずなのに、まだまだ呑めるし、話は終わらない。もう何杯目だろうか。かぺ君はキッチンカウンターに立ち、まるでバーテンダーのように手慣れた様子で自分の飲み物を作っている。本当に、清君夫婦と仲がいいんだなぁ。こんな風に、幼なじみの友達と家族ぐるみで仲良くできるなんて最高だな。
清君のアルバムを見せてもらう。僕の知らない小学5年生の清君がいる。かぺ君も同じクラスだ。金沢で5年生になった僕が知らない、パラレルワールドだ。小学生のとき、景山先生の推薦によって、清君が書いた詩が新聞に掲載された。その切り抜きがアルバムに大切に貼ってあった。清君は「わしは詩人だったんやけんの」と嬉しそうにいった。景山先生が生徒のためにそうやって様々な活動をしていてくれたことが、清君の心にも深く刻まれているのだ。
ページをめくる度に、清君がどんどん大人になっていく。中学校、修学旅行、部活動。他の友達も、どんどん大きくなっていく。一年、二年、三年、猛スピードで時代が変わっていく。子どもの頃から大きかったふたりが、どんどん大きくなっていく。高校生になった清君とかぺ君。なんだか信じられない。清君が就職したときの入社記念の大きな写真で、アルバムは終わった。ものすごくわかりやすいラストシーンだね、と言ってみんなで笑った。駆け足で見せてもらった清君の青春には、僕の知らない清君、かぺ君、そしてその他の友達が写っていた。なんだか胸が熱くなった。
もうホントに今夜は信じられない。過去は今のようであり、今が過去のようでもあり、僕たちは10才のようでありながら、たしかに39才でもある。しかたがない、これだけ離ればなれでいたんだ。記憶を喪失した人が、ゆっくりとリハビリをしながらひとつひとつ現実を認識しなおしていくように、この不思議かつ幸せな現実を受け入れていけばいいのだ。
そもそも、人間の意識下において過去と現在は同じ時空に存在するものだ。フロイトが発見したように、無意識は啓蒙をうけつけない機械状の運動をする多次元実体にほかならず、そこには時系列という秩序など存在しないのだ――(ちょっと、かっこよすぎましたか)。
つまり、僕たちのなかの十才は、遠い日の記憶のなかにあるだけではなく、たしかに今も生き続けている。あの日のかぺ君と、清君が、ここにいるんだ。酔いが回るにつれ、そう実感した。そしてこの酔いは、たらふくいただいたお酒だけからくるものではなかった。
ありがとう! 午前一時すぎに、こうして28年ぶりの宴は終わった。かぺ君が代行運転の車で去っていったのをうっすらと覚えている。布団のなかに入ってもなかなか興奮は醒めなかったけど、疲れていたのかいつのまにか深い眠りに落ちていた。
(続く)
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ささやかながら晩ご飯を準備していますので、晩ご飯食べちゃだめよ
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その日、僕が其中庵を目指してタクシーに乗っていた頃、清君からこんなメールをもらっていた。でも目の前にある料理は、「ささやか」なんてものではなかった。清君の家では、「満漢全席」という四文字を、「ささやか」と読んでいるのかもしれない。このご馳走を作った靖子さんの大変さを想像すると、申し訳ないような気がする。僕が新山口でブラブラしていたときから、準備をしていてくれたのだろう。でもやっぱり、三人の気持ちがヒシヒシと伝わってきて、ものすごく嬉しい気持ちでいっぱいになった。靖子さん、ホントにありがとう。ふだんはろくな料理も作れず、食べるモノもなくて、チンしたニンニクをつまんで嘔吐しているような男だ。その男の前で今、タイやヒラメが舞い踊っている。そういえば、浜田駅前に最近できたという石見神楽を象ったからくり時計は、竜宮城に似ている。ここが竜宮城なのだとしたら、僕はやっぱり浦島太郎なのだろうか。
満を持してビールで乾杯した! 料理をいただく。どれもすごく美味しい! 遠慮無く箸をのばし、注がれるままにビールを胃袋に放り込んだ(高田延彦風)!そしてこの日は奇しくも清君の39回目の誕生日でもあった! 清君、おめでとう~
何から話せばいいのだろう? とにかく、思いつくままに、あのとき清君はどうだった、かぺ君はああだった、こっちゃんはそうだった、と唐突に記憶をよみがえらせながら、思いつくままに相手にそれを投げてみる。そうやったね、そうだったっけ? いやそうじゃないよ、あれはね...。僕が覚えていることを清君が覚えておらず、かぺ君が懐かしそうに話すエピソードが僕にはわからない、みたいなものもある。記憶というものは恐ろしい。勝手に解釈をして嘘の事実を作り上げてしまっている。特に僕は地理的な感覚を失っているから、かなりおかしなイメージで過去を認識している(もともと頭のできがよくないだけだったりして)。清君のことを僕は「マキヨシ」と呼んでいたのだけど(マは、名字の最初の文字)、そう呼んでいたのは僕だけだったらしく、しかも「マッキヨシ」と小さい「ッ」を入れていたのだそうだ。それから、加瀬君のことを「かぺ君」と名付けた?のも僕だったみたいだ。かぺ君曰く、僕は宇宙人みたいなヘンな発想の持ち主だったのだそうだ。たしかに、そういう変人なところは今もまったく変わっていない。こんな風に、「そうだったのか!」と思うこともいっぱいあったけど、ほとんど同じ記憶を共有している逸話もたくさんあった。人間ってすごい。
1年生とのき、ヒロシ君と休み時間に相撲をしていたかぺ君がアゴを廊下の床に打って血だらけになったとき、僕は爆笑していたらしい――たとえば、そんな話だ。すっかり忘れていたけど、そういえばそんなこともあった。いや、たしかにあった! そうだ、はっきり覚えとるよ! そういう風に、記憶が芋づる式によみがえってくる。かぺ君が医者でアゴの傷を針で縫って戻ってきたとき、髭みたいに糸がアゴから垂れているのをみて、さらに爆笑したんだよね。わるいことしたなぁ。ごめんねぇ。いいよ、まあ、子どものことだからね、昔のことだから、そう言ってかぺ君も笑った。でも、瞳の奥が不気味に光っていた。「こっちゃん、なして(どうして)あのとき笑ったか!」かぺ君の28年ごしの怨念が伝わってくるようだった。沼で捕まえたアメリカザリガニを、清君の家の玄関前にある溝で放し飼いにしていたことがあった。そうそう、そんなこともあった! 当時から清君は、やることがダイナミックだったよなぁ。はっきりと覚えていることよりも、言われてみると思い出すものの方が、なぜか懐かしさを強く感じたりするのだ。
当時どんな遊びをしていたか、数え上げればきりがない。草野球もしたし、カブトムシの幼虫やザリガニを捕まえたりした。ウルトラ怪獣の消しゴムを集めて、紙箱の上で相撲を取らせて勝負した。メンコのことを、浜田ではパッチンと呼ぶ。こっちではメンコは四角ではなく、丸い形をしている。勝負には、この地方独特の赤瓦を使う。瓦の上に置かれた相手のパッチンを弾いて落としたら勝ちなのだ。あの頃、誰もがとりつかれたようにパッチンに興じていた。赤瓦はいたるところにあった。それを大人に断って借り、ときには勝手に拝借して、勝負を続けた。1枚10円くらいのパッチンを、勝てば相手から取り上げ、負ければ取り上げられる。今にして思えば、これはもう立派なギャンブルだ。大人もよくそれを放置していたものだが、当時の社会には子どもの賭け事を許容する器があったということなのかもしれない。子どもであっても、抜け目のない奴、勝負勘のある奴はとことん強い。僕もかなり熱中したけど、強い奴にこてんぱんに負けて泣いて家に帰ったことも何度もあった。転校したらパッチンじゃなくてメンコって呼ばれててさ、丸くなくて四角なんだよ、まいったよ、カルチャーショックだよ、と僕は言った。
そういう風に遊びの話をしていたら、次々にいろんな記憶がよみがえってきて異常に話が盛り上がった。それが最高潮に達したのが、「にむし」という、この地方に特有と思われるゲームが話題になったときだった。ルールを説明しよう。
にむし
1. 複数名の参加者が、2組にわかれる。
2. 10~15メートルくらいの距離をおいて、直径2メートルくらいの円を2つ描く。
3. 攻めのチームは、片方の円の中に入る。
4. 守りのチームのうちの2名が、それぞれの円の前に立ち、野球用のゴムボールを使ってキャッチボールをする。
5. 攻めのチームは、守りのチームがキャッチボールをしている間に、反対側の円めがけてダッシュする。
6. 守りのチームは、走った相手にボールをぶつける。ボールをぶつけられた人はアウト(死ぬ)になる。ボールをぶつけられても、そのボールが地面に着く前に円の中に入ればセーフ。
7. 攻めのチームの誰かが、1往復したら「いちむし」。2往復したら「にむし」、というようにカウントしていく。10往復したら「じゅうむし」になって、死んでいた仲間が全員が復活する。その前に全員がアウトになったら攻守交代。「はちむし」になったら、声に出して「はちむし!」と宣言しなければらならない(王手!みたいなもの)。
8.これを延々と続ける。スリル満点で最高に面白い。
ちなみに、1往復することをなぜ「むし」というのか、ゲームにおいては特別な意味を持たない「にむし」が遊びの名前になっているのかは、誰にもわからない。
ともかく、にむしも異常に熱中した遊びだ。清君もかぺ君も、ひさしぶりの「にむし話」に目を輝かせている。「にむしやりたいね~」と清君が言った。「うん、ぶちやりたいわ」たまらなく懐かしそうに言ったかぺ君の瞳が、マムシのように鋭く光った。
話しながら、つくづくあの時代に、浜田で子ども時代を過ごすことのできた幸運を味わった。浜田の伝統によって培われた独創的な遊びの数々を、毎日いやというほど堪能することができたのだから。そして、そんな遊びが今の子どもたちに伝わっていないことを、残念に思う。
話は尽きることがなかった。毎日のように通っていたおばあさんの駄菓子屋の話、懐かしいクラスメイトの話、景山先生の話。かぺ君は景山学級ではなかったのに、景山学級のことがとても気になっていたらしい。景山ジャンケンという、景山先生が編み出したジャンケンのことも知っていた。靖子さんは学校の先生をしている。景山先生の話にも興味を持って耳を傾けてくれる。だけど遊びの話では、少々興奮した三人は小学生に戻って夢中になっていたから、理解するのが大変だったかもしれない。ちょっと申し訳なかったかも。だけど彼女は、楽しそうにずっと笑顔を見せてくれていたのだった。
ビールをたらふく呑ませてもらった後でも、焼酎、ハイボールなどなど、次々にお酒を出してくれる。あれだけたくさん美味しい料理をいただき、もうさんざん呑んだはずなのに、まだまだ呑めるし、話は終わらない。もう何杯目だろうか。かぺ君はキッチンカウンターに立ち、まるでバーテンダーのように手慣れた様子で自分の飲み物を作っている。本当に、清君夫婦と仲がいいんだなぁ。こんな風に、幼なじみの友達と家族ぐるみで仲良くできるなんて最高だな。
清君のアルバムを見せてもらう。僕の知らない小学5年生の清君がいる。かぺ君も同じクラスだ。金沢で5年生になった僕が知らない、パラレルワールドだ。小学生のとき、景山先生の推薦によって、清君が書いた詩が新聞に掲載された。その切り抜きがアルバムに大切に貼ってあった。清君は「わしは詩人だったんやけんの」と嬉しそうにいった。景山先生が生徒のためにそうやって様々な活動をしていてくれたことが、清君の心にも深く刻まれているのだ。
ページをめくる度に、清君がどんどん大人になっていく。中学校、修学旅行、部活動。他の友達も、どんどん大きくなっていく。一年、二年、三年、猛スピードで時代が変わっていく。子どもの頃から大きかったふたりが、どんどん大きくなっていく。高校生になった清君とかぺ君。なんだか信じられない。清君が就職したときの入社記念の大きな写真で、アルバムは終わった。ものすごくわかりやすいラストシーンだね、と言ってみんなで笑った。駆け足で見せてもらった清君の青春には、僕の知らない清君、かぺ君、そしてその他の友達が写っていた。なんだか胸が熱くなった。
もうホントに今夜は信じられない。過去は今のようであり、今が過去のようでもあり、僕たちは10才のようでありながら、たしかに39才でもある。しかたがない、これだけ離ればなれでいたんだ。記憶を喪失した人が、ゆっくりとリハビリをしながらひとつひとつ現実を認識しなおしていくように、この不思議かつ幸せな現実を受け入れていけばいいのだ。
そもそも、人間の意識下において過去と現在は同じ時空に存在するものだ。フロイトが発見したように、無意識は啓蒙をうけつけない機械状の運動をする多次元実体にほかならず、そこには時系列という秩序など存在しないのだ――(ちょっと、かっこよすぎましたか)。
つまり、僕たちのなかの十才は、遠い日の記憶のなかにあるだけではなく、たしかに今も生き続けている。あの日のかぺ君と、清君が、ここにいるんだ。酔いが回るにつれ、そう実感した。そしてこの酔いは、たらふくいただいたお酒だけからくるものではなかった。
ありがとう! 午前一時すぎに、こうして28年ぶりの宴は終わった。かぺ君が代行運転の車で去っていったのをうっすらと覚えている。布団のなかに入ってもなかなか興奮は醒めなかったけど、疲れていたのかいつのまにか深い眠りに落ちていた。
(続く)
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昔の遊び話をしたらやたらテンション上がるもんね☆
靖子さんは共通の知り合いがいて、すごいステキな方と聞いてました。前原君が靖子さんの事を語る表情やカペ君の絶賛。またブログを通じて感じるやまとなでしこっぷりに感動しました。これぞ「ザ☆妻」私には程遠いっす。
いやー、清夫人の料理何度見ても凄い!清君もこの日は忘れられない誕生日になったじゃろうねー。
ケイドロのこと書くの忘れてた!
あの日も、ふたりに言われて初めて思い出したんだよね。あれも熱中してたよね~
靖子さんの料理はめっさ美味しかったですよ。かぺ君も美味しそうに食べてました☆
かぺ君の血だらけ事件は言われて思い出したよ。ヒロシ君もはっきり覚えてたよ(笑)「なして笑ったか!」とあの頃のかぺ君が夢に出てきて今夜もうなされそうです。
料理の写真はすでに食べかけなんだ。食べる前に撮っておいたらよかったんだけど、残念!
でも再会の宴でこの話何回か出たけど、その度に笑った。カペ君ごめんね!!
そうそう、私もコメントする時に清くんの誕生日だったなーと思い出したんよー!大人になってもクラスメイトの誕生日を覚えているなんて景山先生のおかげです。
「なして笑ったか!」
怖い!
年月は流れたけど今更ながらお見舞いに赤ワイン持って行きたいわー。
「なして笑ったか!」
怖い~!