イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

テースト・オブ・切り身

2008年01月13日 18時37分45秒 | 翻訳について
空腹でヨーカドーうろつけば脂肪遊戯

(解説)武蔵境の南口には、かなり大型のイトーヨーカドーがある。五階建てのビルが、二つ居並んでいるのだ。今日、久しぶりにそこへ行ってみた。たまにしか来ないのだが、ここにくると、とりあえず一階から順番にぐるぐる回りながら五階まで登って行くことにしている。ブルース・リーの遺作となった『死亡遊戯』と同じだ。階ごとに待ち構えている難敵を一人ずつ倒しながら、敵の大将が待つ五階へと、五重塔を登っていくのだ。衣服売り場、家電売り場、書店、などなど。だから、理想的にはここに来るときは黄色いつなぎのジャージを着ていたい。というのは冗談なのだが、ぼくは大型書店でもデパートでも、この死亡遊戯方式でぐるぐる上まで上がっていくというパターンがわりと好きである。もともと買い物にはあまり興味がないし、今日も何を買いに行ったわけでもないのだが、たまにこういうところに来ると、社会見学的な気分でいろいろと見てしまう。で、買い物の最後には、地下の食品売り場にいくのだが、こういうところは、ご存知の通り、空腹で入ってしまうと大変なことになる。ものすごく美味しそうなものがたくさん売っているし、周囲もやけにテンションを上げて買い物に熱中しているので、ついついあれもこれもと買いすぎてしまう。ちょっと正月太りをしてしまった僕なので、暴飲暴食はさけたい。しかし、抗えない。僕にとって、最大の敵は、頂上の五階に鎮座していたのではなかった。脂肪という名の刺客が、地下に巣食っていたのである。

SSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSS

「今の子供のなかには、魚といっても、スーパーで売っている切り身の魚しか知らないから、切り身が海を泳いでいると思っていることが多いんだって」と、嘆く大人の話をたまに耳にする。その台詞の裏には、どんどんと自然から乖離していく、子供を取り巻く現代の環境、あるいは子供そのものへの批判的なまなざしが感じられる。本当にそんな子供がたくさんいるのかどうかは知らない。でも、もしそうだとしても、責められるべきは子供ではなくて、嘆かわしさを口にしている大人の方だと思う。子供は見たものを素直に表現しているだけだ。スーパーの切り身でしか魚を感じることができない、そんな世の中を作ったのは、紛れもなく大人の方だからだ。

翻訳者にも同じような現状がある。つまり、翻訳対象として渡される原文が、全体のなかのごく一部、まさに切り身的なものとして手元に巡ってくることが多いからだ。一冊のマニュアルを複数名分に分割して訳すときもあるし、依頼元から、翻訳が必要な文書の一部だけが送られてくることもしょっちゅうだ。マーキングされて、虫食いみたいになった文章を頼まれることも多い。だから、訳している本人は、実際には魚がどういう形をしているのかわからない。やはり、魚は一匹丸ごと食べたほうが美味しいし健康にもよい。だから、できればドキュメント丸ごとを翻訳対象としたいものである。自分がなにをやっているのかを把握しながら作業できた方が、精神衛生上にもよい。もちろん、こちらは頼まれる側であり、頼む側の要求が切り身であればそれに応えなければならない。頼む側だって、予算が無限にあるわけじゃなし、本当に必要なところだけ訳してくれればいい、と思っているのだから、それは仕方がない。ただし、頼む側も頼まれる側も、切り身にしてしまったことで、その弊害が出てしまうことの危険性だけは把握しておきたいものだ。頼む側は、果たしてこれで訳すほうは文書全体のことを把握できるか、と考えるべきだし、訳している側は、訳している対象が全体のパズルのどのピースなのか、絵全体には何が描かれているのかを把握しなければならない。

しかし、たとえ文章丸ごとを依頼されたとしても、その分野の類似文書や関連文書に日ごろから慣れ親しんでいなければ、それもある意味単なる切り身であることにはかわらない。この魚が、どこで取れたものであるとか、どういう風に調理すれば美味しくなるのかとか、そういうことを知らなければ、うまく料理することはできないのだ。

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