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法と鏡

2010-10-21 12:23:39 | 日本語・古事記・歴史・日本人

マクロビオティックを実践して皆様いかがお過ごしですか?だいぶ以前に、『健康になれたら死んでもいい!』とか言う人もいると何方かの講演会で笑い合ったような気がします。健康を手に入れられたでしょうか?

そういった類の直接の希望とは別に、マクロビオティックには直接かかわりがあるかどうか分かりませんが、色々な面白いことを思い付きます。たとえば『法』という言葉があります。これは大きく宇宙規模で考えると『宇宙の秩序』あるいは『真理』とかいう意味ですが、ぐっと人間社会に身近で考えると『法律』あるいは『ルール』ということになります。でもこの二つの『法』の間には相当の違いがあります。宇宙の秩序は人間ばかりが相手ではありませんが、法律は人間が人間社会のために勝手に(?)作ったものだからです。最古の法典(?)と言われているマヌの法典やハムラビ法典などは創造神から授けられたとして神の代弁者として強制力の根拠にしていると習いました。現代社会では民主国家であれば主権者の代表機関である立法府が主権者の名において作っています。そんなことが分かっていながら法律というものに私は長いこと、特に若いころは幻影を抱いていました。何となく大岡越前を期待してしまうというわけです。これって『健康になれたら死んでもいい』と同じたぐいですよね!!なあ~ンだ、同じかあ???!って思います。


民族の持つ神話は精神的風土というものを今に伝えていると思います。私達日本のアマテラスオオミカミはニニギノミコトの降臨に際し『三種の神器』はお授けになりましたが法典はお授けになりませんでした。では何に照らして地上を治めよと仰せになったのかといいますと、『神器の鏡に向かって己が顔を映しアマテラスオオミカミに向かい合っているように思える顔であるように、アマテラスオオミカミの御心に恥ずかしくないように』地上を治めよと言われたのです。剣はその正義を行うために外の敵と己の内の敵に向かっています。玉は民草の命と己の命とを養い慰めるためです。私達日本人にとって法は正義を行うためのもの(鏡)として染み付いているような気がします。

それで法律で裁かれる内容(正義と罰)が私達日本人の心にはなかなかしっくりきません。奈良平安の時代に唐の律令制度を、明治維新で西洋の近代法制を一生懸命取り込んだけれど、法律は私達の心の底にあるアマテラスオオミカミの鏡ではなく、人間が作った取り決めなんですよね。裁かれるのは法律が破られていないかどうかなのですよね。法律が正しいかどうかも分からないのですよね。それに法律は時代の人々の心変わりと同じようにどんどん変わっていくのですよね。そしてそれは人間社会にだけ適用されるものです。その証拠に自然界では横取りは罰せられません。チーターの獲物はいつもハイエナから横取りされてしまいます。チーターの権利を守る法律はどこにもありません。

私達日本には『泥棒に追い銭』という話があります。取り残したものがあると追いかけて行って渡してやるのです。それで改心する泥棒もいたことでしょう。でもそれよりも追い銭をする本人はきれいさっぱり、清々しい大自然の心で生きています。私達日本人はそんな清貧な人に心を寄せてきました。自分の心を問題にしてきたのです。富や財物は大自然のあずかり知らぬ仕組みです。ですからハイエナにもバチは当たりませんし、泥棒にもバチは当たりません。泥棒にバチが当たったとすれば、それは泥棒本人の自分の良くない心を恥ずかしく思う心がバチをあたらせたのです。心は大宇宙の法のもとに働いているのですから。その心と違っていたり逆らった行為をすると当然身動きが取れなくなります。それがバチというものです。でも泥棒には人間社会のバチが罰として与えられます。その罰は当然ハイエナには適用されません。

本当は正義が行われる法律が最高だと思います。それでアマテラスオオミカミは鏡をおあたえになり、全国の神社は鏡を祭っているのだと思います。日本人は法典ではなく鏡を見て倣うことを選んだのだと思います。しかし現実の社会は国内国際ともに厳しいものがあります。法律を整備しなければなりません。その上で心だけはまっすぐにアマテラスオオミカミのお心につながっていたいものですね。

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