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公明選挙が消えた日

2012-07-14 09:40:21 | その時々2

随分ブログをお休みにしましたが、とうとう東京を引き払ったんです。それでとても雑用繁多でパソコンを見たくなかった???という次第です。ご無沙汰いたしました!!ですが突然『公明選挙』が消えた日を思い出しました。それも小沢さんが、『国民の生活が第一』なる民主主義の理念を自分の党だけの固有名詞にしてしまったからです。忘れもしません、『公明』なる選挙の理念を表す言葉が唯一つの政党の固有名詞になってしまった日を・・・・・・

あの時もそんなことが許されるのだろうか???とずいぶん憤慨しました。今度も同じですよね。あの日から日本の選挙に少なくとも存在した公明な選挙はなくなってしまい、今度は政党の理念から『国民の生活を第一に』という心掛けが消えるでしょう。これは私達の大脳の働きによります。理念が即物的認識になるのですから、その理念の心は消えてしまうのが当然です。その証拠に民主党は党の政治理念から『国民の生活が第一』なる項目を外してしまいました???!!!

そもそも選挙を手段とした民主主義なんて、草創期が最高の志に支えられており、段々劣悪化するのは自然の成り行きなんです。私達はその事をよく考えて、選挙を支える国民の精神の向上をその制度に組み込まない限り、最低の政治を作り出すことになるでしょう。私達一人一人の高貴な精神と向上心以外に、選挙を支えるものは見つかりません。彼のイプセンが言ったではありませんか、民主主義を支えるのは心の貴族だって・・・・・このパラドックスを現実にする方法を見つけない限り、私達は選挙に何の希望もありません。それなのに政治家達は選挙を一生懸命追いかけているのです!!!私達は坂道を転げ落ちているのと同じです。

なんだか絶望的になってきましたね・・・・・でもマクロビオティックと出会った者は知っていますよね。それは『食』によって可能でもあり不可能でもある・・・・・そしてそれ以外に方法はない・・・・・西洋ではダビテもイエスもそのことに言及し、ギリシャの哲学者も知っていました。我等が東洋でも昔から食に規制を加えてきました。ホツマツタエによれば天君(あまきみ)はチヨミ草を食し、桜澤先生によれば、朝廷によって日本国民の肉食が禁じられそれが取り消されたとは聞いたことがないそうですよね。仏教でも食の戒律がありました。全て『神の心』・『阿弥陀如来の心』を実現するためです。実はそれが選挙民の心でなければ、『無私』の政治家は選ばれないでしょう。

ところで高校(猶興館)の同級生から一冊の本をもらいました。それはこれまた同級生の中倉広敏さんが出された『無病法』(PHP研究所)という本です。これは16世紀から17世紀を生きたイタリアの貴族の体験的健康法です。そもそも中倉さんはローマ史の研究がテーマで、今回カエサルの『ガリア戦記』を翻訳出版したそうです。私も是非読もうと考えています。その中でローマ兵の頑強さが小麦を主体とした穀物食に支えられているという事実に行きあたったそうです。

その貴族はルイジ・コルナロというヴェネチアの人で102歳まで健康に活動しお昼寝から目覚めなかったという死に方をしたそうです・・・・・何と我等が理想ではありませんか。その人が自分の食べものとして選んだのは16世紀のパンと卵と肉とスープとワインだったそうです。16世紀ですからもちろんどれも自然なものです。パンは素朴なもの、つまり貴族が好んだ上等な白いパンではないと言っています。卵は黄身だけ、肉は少し、そして多分野菜スープも少し、その全量で一日約350グラム、それにワイン(多分赤)を一日に400cc、これが80歳台のコルナロ翁の一日の食事全量(2回分)だそうです。そして御多聞にもれず食事が足りないという外野席の意見で、量を15%強(つまり350gを400gに、ワインを450ccに)増やしたところひどく具合が悪くなって死にかけたのだそうです。

最も素晴らしいのは死の直前まで頭脳は明晰、老年がこれほど素晴らしいとは・・と幸せを喜んで暮らしたそうです。そうですよね、豊かな知識と経験に裏付けられた健康な老年が一番素晴らしいに決まっています。こうしてみると、マクロビオティックの徒にとっても一番大切なのはやはり最後の関門、食の量という問題ですね。そしてあれこれ食べてはならないという規制より、はるかに量の規制が大切になってきます。マクロビオティックを伝えるということが、食べても良い材料を使ってお料理を伝えるということより、マクロビオティックの目的は何か、つまり人生の目的は何かということに眼目をおかなければならないということがはっきりすると思います。

とどのつまり食べ物の種類が決めるものは精神の種類で、本当はその前に量の規制が正しくなされなければ、おそらく結局は何の意味もないのではないかとさえ思うようになりました。精神の種類を支えるものが、量という基礎なのです。生き方の問題です。選挙と結果の問題です。中倉さんの本をどうぞ読んでいただきたいと思います。




それでは今日もまた:

     私達は横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!


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