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inspiration-macrobiotique・随想古事記

マクロビオティックインスピレーション・随想古事記・日本語と歴史・バベルの塔・日々雑感

ゴマ油と菜種油

2012-01-29 17:55:45 | マクロビオティック
菜種油のニオイが部屋中に残っていささか閉口しています。昨日若者の希望でから揚げを作りました。これまでほとんどごま油のみでやってきましたが、はずみで菜種油を混ぜました。

ニオイって揮発性物質が原因ですから、“陰性”のはずですが、菜種油の陰性さって、かなり粘着性が強いような、ねっとりとした感じです。ゴマ油の芳香とは違いますよね。かなり閉口しています。

私が衣をつけた油料理が好きではないので、我が家ではあまり登場しない揚げ物ですが、子供達が小さい時はよく素揚げというかから揚げを作りました。マクロビオティックも知らなかった頃で長崎でのことですから、きびなごの天ぷら(というよりから揚げ)、貝柱とネギの掻き揚げ、白魚と青さの天ぷら・・・・・・塩味だけのさっぱりとした揚げ物にレモンなどの酢で食べたものです。子供達も揚げたての熱々を食べました。美味しそうな顔の幸せな思い出です。

きびなごの天ぷらは、頭とはらわたを取って、塩水で洗いざるに上げます。片栗粉にくず粉を混ぜるとからりとします。きびなごにまぶしつけあげるだけです。頭とワタを取っているので単純な味で子供達も好きでした。貝柱は真珠の養殖場が近いのでよくもらいました。白魚は春の季節限定です。夫の『踊り食い』の残りですが、白魚はこれが一番のような気がします。




それでは今日も:

     私達は横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!




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久司先生の講演会

2011-10-26 10:13:18 | マクロビオティック
昨日の25日、CI協会主催の久司先生の講演会が永田町の星陵会館でありました。幸い夫も休日に恵まれて二人で参加しました。久しぶりにお目にかかる久司先生はすっかりお元気になられて青年の理想に燃えていらっしゃいました。本当に嬉しい一日でした。先生のおっしゃる通り、奥様の日頃のお世話のおかげであろうと思いました。

いつでしたか、三年連続の特殊なセミナーで先生はこうおっしゃいました。『老いてゆくほど若くなる』・・・・・いかに先生でもいつかは老いて朽ちてゆかれるだろうと思います。でも今回元気に回復なさって若々しい青年の心を見せてくださいました。その青年こそが久司先生だろうと思います。久司先生は確かにますます若くなっておられます。

数年前先生のご健康について、近遠に関わらず先生の周囲に居た者はみな相当の怖れを感じただろうと思います。先生が手術やむなしとの決断をなさってアメリカでご療養中もみな先生のご快復を祈るだけしかありませんでした。先生が何とか帰国なさった時に直接そのご決断の事情をお伺いしました。そのとき、二つを選ぶことのできない選択をするのが人生(判断力)だろうと思ったものです。

当時80歳を過ぎておられた先生は、手術に耐えると医学的に判断された体力を持って手術をお受けになり、医療関係者の驚く術後の回復をお見せになりました。それでも初めて先生をお迎えした時はみな不安を感じたというのが正直な感想ではなかったかと思います。ですから今回は本当に嬉しかった!!のです。そして日本のマクロビオティックを背負って立とうとしておられる先生のお心をひしひしと感じました。

先生にもう少しご苦労をおかけすることになるのは申し訳ないのですが、日本のマクロビオティックは一つになって大きく前進することが出来ると思います。私共ももう少し奮い立たなければならないと感じました。同志の皆さん!!先生のおっしゃる通り幸せ(やりたいことをやる)を実現しましょう!!!




そして今日も:

     私達は横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!
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きんぴら

2011-10-13 08:28:55 | マクロビオティック
マクロビオティックの常備菜の基本・『きんぴら』が恋しい秋になりました。春には香り高い春ごぼうの白さや柔らかさが煮物に美味しいし、茎や葉も茹でこぼして空炒りするとおいしいふりかけになりますよね。ですがこの時期は『きんぴらごぼう』が恋しい・・・・・

それも私には軽くてたくさん(?)食べられるきんぴらごぼうが欲しい・・・・・・今回は切り方は中くらいの細さ、って言ったって個人的な基準ですから分かりませんね。マクロビオティイクの基本食のように細かくしないで、適当に千切り。人参も同じようにして準備します。お鍋にごま油をほんの少し引いて、ごぼうを静かに炒めます。炒め足りないうちに焦げ付きそうになったら、昆布の水出し汁を加えて、ウオーターソテーの要領で十分に火を通します。

昆布の水出し汁だとごぼうの旨みが引き立ちます。山の物と海の物との相性は抜群で、ごぼうのきんぴらにはどうぞ昆布だしを用意してください。きんぴらを思いついてごぼうを洗う前に刻んだ昆布を水につけておけば十分間に合います。それも忘れたならごぼうと一緒に昆布を1、2片加えて煮ても取り敢えず構いません。それから人参の千切りを加えます。人参はそれほど火を通すことはありません。ごぼうと馴染んだらそれで構いません。

これからが多分私流ですが、1.『イキな塩』を軽くひとつまみ振ります。軽く混ぜて、一呼吸。2.丸島醤油の『薄口しょうゆ』を控えめにまわしかけます。再び軽く混ぜて、3.昆布の水出し汁を加えて煮ます。この時の出汁量は、『きんぴら』をどれくらい柔らかくしたいのかに依ります。蓋をして汁が無くなるまで煮ます。途中で一度上下を返します。水の量が多かったら、蓋を外して飛ばします。4.この間に白ゴマを炒って、すりごまを作っておきます。5.きんぴらとごまを混ぜますが、ゴマを少しよけておいて、きんぴらを盛った上にかざります。

私は薄口しょうゆをよく使いますが、丸島のうすくち醤油が好きです。このお醤油はとても味に奥行きがあって、濃い口で味をつける時も併用しています。その時は必ずうすくちを先に使って下さい。濃い口は香りが大事ですから、その意味でも後で使います。旨みのうす口、香りの濃い口です。皆様ご存知の切干大根茶を煎じた残りの切干大根を適当に切って、このうすくち醤油で軽く味をつけるとそのまま美味しいお漬物になります。

少し歯ごたえを残して軽く作ったきんぴらなら、好きなだけ食べて大丈夫です。時々は『鬼きんぴら』も作ります。これはごぼうを四つ割にして長めの大きな斜め乱切りにします。人参も同じ大きさに切ります。後は同じですが、みりんと濃い口しょうゆを最後に加えます。このきんぴらはもっと“カリ”っとした歯ごたえを楽しみます。大きいので噛んだときにごぼうそのものの味を余計に感じるので、外側に絡んだ濃い口しょうゆがあった方がおいしいと感じます。暑さの名残の時はセロリとごぼうでおいしいきんぴらが出来ます。その時の注意点はセロリを横に切らない事。薄切りにした場合はほとんど縦に切った方がセロリのしゃきしゃき感が残ってよいと思います。好きなものを合わせて試すのも楽しいと思います。

ハスのきんぴらも好きです。子供達も大好きでした。私はハスだけで作ります。そして炒める時に少し焦がして焼け目ををつけます。きんぴらに黒ゴマはあまり合わないと思いますが、このハスのきんぴらには黒ゴマを混ぜて使ったりします。

ごぼうって日本独特の香りと食感らしいです。昔聞いたことがありますが、アフリカに赴任した日本の外交官がどうしてもごぼうのきんぴらが食べたくて、ごぼうの種を取り寄せてアフリカに植えたらしいのです。収穫して喜んだのもつかの間、大根のような食感だったとか・・・・・どんなに残念だったでしょうね。そんなに恋しくなるごぼうを大事にしたいものですね。




それでは今日も:

     私達は横田めぐみさん達を取り返さなければならない!!!


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和みさんのお塩

2011-09-27 17:54:32 | マクロビオティック
私の教室では自宅と同じく和みさんのお塩を使っていますが、うれしい証明を自然の摂理からいただきました。写真で見ていただこうとしたのですが、うまく撮れませんのでそれは“いつの日か”の課題とします。残念です。『百聞は一見に如かず』で、圧倒的な説得力だったのですが・・・・・

私の梅干は、亡くなった母が毎年弟が丹精こめて収穫した梅を和みさんのお塩で漬けたものです。母は裕福というわけでもなく質素に暮らしていましたから、そのお塩はレギュラーの『塩天華』です。その梅干は実に見事な大きさで少しずつ分けて食べるほどです。ジャーに10個くらいずつ取り出して食卓に上げるのですが、前回7月に帰郷した時点でなくなっていました。ジャーに残った梅の汁(梅酢が果肉で濁ったようなもの)が勿体なくてそのままにして帰京しました。

今回帰宅して何かを和えて食べようと蓋を開けたままにしていたところ、(実際のところ雑用に取り紛れて2,3日放置してしまいました。)なんとジャーの底に結晶しているではありませんか!!!それもきれいな正方形で、結晶の道筋まで示しているなんとも『有り難い』形の小さな色紙状の結晶がいくつも出来ていました!!!写真が出来なかったので、そのジャーを和みの堀江さんにそのまま届けました。

和みの堀江さんの『塩』と『水』に対する態度はご存知の方もいらっしゃいますよね。本当に美しいものを発見できた喜びと堀江さんの努力の正しさを証明してくれた喜びを分かち合いました。和みの社訓を私流に言わせてもらうならば、『命あるものを提供する』です。そしてその『塩』と『水』からは暴利を貪ってはならないということです。その努力を労いたいと思って、そのジャーを届けました。

生命力って何だとお考えでしょうか。それは自己『維持力』であり自己『修復力』ですよね。そしてそれは秩序の『回復力』でもあります。秩序が無ければどんなに結集したって無意味なのです。

ですから生命力のある食品というものは、必要に応じて秩序を『維持』し秩序を『回復』し秩序を『創造』する食品です。生命の基本的な要素である水と塩が強い秩序の回復力を持っていたら、健康にとってどんなに素晴らしいことでしょうか。一度溶けた塩が再び美しく結晶するということがどんなにすばらしいことかお分かりになると思います。体に取り入れた塩が、体の中でそんな力を発揮するのですから。




そして今日も:

     私達は何としても横田めぐみさんたちを取り返さなければならない!!!
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マクロビオティックの現状

2011-07-29 10:13:45 | マクロビオティック
最近主人から本を紹介されました。コリン・キャンベル博士著『葬られた第二のマクガバン報告』という本で、副題に『動物たんぱく神話の崩壊とチャイナプロジェクト』とあります。マクロビオティックを知っている者にとって特筆すべきことは何もないのですが、我らが住む世界は近代社会、何事も検証主義で証拠をあげなければなりません。

マクロビオティックは分析学的な栄養は否定(?)しているのですから、絶対に細かな分析的証拠をあげることは出来ません。症例を結果として示すことは出来ますが、現代のアカデミックな意味で証明することは出来ません。人間の理解法が思索の成長を遂げて(?)分析(身体の各パーツ・栄養素)から総合(全人間・無限宇宙)に切り替わる以外にありません。

要するにマクロビオティックは現代アカデミーの世界では受け入れがたいものです。そしてそのアカデミーの上にどっしりとおさまって利益を追求している現代産業社会にも受け入れてもらえそうもありません。

ですが!!!人体は虚構ではなく、証明にかかわらず、事実に基づいて機能し存続しています。アメリカ大陸がコロンブスの発見以前からずっと存在したのと同じことです。

どん底で最先端の検証主義は現代栄養学の間違いを検証する羽目になるでしょう。自分の間違いを指摘せずにはすまないのです。それがアカデミズムの性質なのです。そして人類は全体があって個々があることを再び喧伝し始めるでしょう。

このキャンベル博士の本はこうした流れに中にあると言えると思いますが、この本にはマクロビオティックの『マ』の字も、当然桜澤先生の名も久司先生の名もちらりとも出て来ません。マクガバン氏が久司先生と接触していたどころか、久司先生がマクガバン氏に協力しておられたことを私達は久司先生から直接お聞きしました。そしてどのようにマクガバン・レポートが改竄され骨抜きにされたかもお聞きしました。

いま社会が大きくターンしようとしている時に当たって、私達マクロビオティックによって真実を得た者たちは、マクロビオティックを大きく正しく後世に伝えられるよう自分を再び考えてみるべきだと思います。人それぞれの同異を踏まえた上での社会通念として確立できれば、人類社会の幸せに貢献することになるはずですから。




今日もまた:

     私達はいつになったら横田めぐみさん達を取り戻すことが出来るのだろうか!!!

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久司先生の『導引』と『パームヒーリング』

2011-07-13 09:25:32 | マクロビオティック
タイトルの本について最近欲しいとの問い合わせを時々いただきます。それで今回お知らせを書くことにしました。『導引』は残念ながらありませんが、『パームヒーリング』については私が時々ブログでもご紹介している平戸の『自然食品・和み』さんに3~4冊残っています。お問い合わせの電話番号は、0950-23-2566 です。また出版社にはたまに全国の書店に残ったものが返品されてくるそうです。日貿出版社に問い合わせをなさるのもいいかと思います。

この二つの本は、翻訳した私の感想ですが、宇宙と自分の関係を知る上で欠かせない本だと思います。特に『導引』の理論編は宇宙の真理、あるいは宇宙の秩序というものを久司先生が分かりやすく噛み砕かれた解説書です。これは人間として生きていくために本当に必要な知っておくべきことを教えてくださった書です。残念ながら入手方法を明示することが出来ませんが、図書館はたいていの新刊を集めますから多分あると思います。読みたいと思えば道は開けてくると思います。




それでは今日も:

     私達は横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!
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雑・マクロビオティック暮らし

2011-05-03 09:05:03 | マクロビオティック
加齢は川下りのような旅路だと思います。各地を巡る旅行では同じような経験を繰り返しすることもあり得ますが、川下りで上流・中流・下流で同じ体験をするということは無いのではと思うからです。それをしみじみ感じています。

それというのは、このところ自分の歯茎に違和感を感じることが度々あるようになりました。もともと歯は強いほうでしたが、それなりに虫歯にもなりました。4人の子供を産んだ後は歯医者さんのお世話にもなりました。ある日幼い子供に大きな飴を噛み割っていたところ、奥歯がもろくも砕けてしまいました。それで砕けてしまった一番奥の大臼歯を抜きました。そしたらその奥の親不知が自然にその大臼歯の後に寄ってきて並んでくれました。歯医者さんは『ストラテジック・・・・(何とか)というんだ!30歳を過ぎたら難しいのに・・・・?』と興奮して喜んでくれたのを覚えています。

その後マクロビオティックを知ってそれなりに試行錯誤の毎日ですが、還暦を過ぎてこのごろ思うことは『どのように年をとっていくか』ということです。マクロビオティックで自然な身体の衰え(?)を完成しなければなりません。久司先生が仰るように『人体がこの大気の世界における胎盤である』とすれば、私達は精神の発達に伴って胎盤の絨毛組織のような母体につながっている部分を溶かし始めなければなりません。そしていずれ赤ん坊が『おぎゃあ』と叫んで胎盤をも捨てるように、私達は『おさらば』と人体を捨てて形の無い元の世界に行かねばなりません。だとすれば捨てやすい身体を作り上げるのが還暦後の人生の目的ではないのかと思うのです。へばりつかない体を持った自由な精神でなければなりません。身体の中にある精神だけ自由になってもうまくいかないでしょう。死に臨んで精神と身体を結ぶ臍帯が両者から共に脱落しやすいように努めなければなりません。マクロビオティックがあることを大変な幸せだと思います。

そんなことを実感させてくれる歯茎ですが、歯磨きには何も付けないかものすごく細かな塩(これもまた平戸の和み製・最極上塩天華)を使うかのどちらかで暮らしてきました。時々デンシーも利用しています。この昔ながらの知恵はやはり歯茎にはよく効きます。そして今日の記事でお知らせしたかった事なのですが、このデンシー、歯ブラシが黒く汚くなってしまいますよね。お使いの方はどうされていますか??私の経験では、使用後よく洗って一晩水につけておくのが一番です。大体きれいになります。(これが暮らしの知恵??)もうすでに皆さんご存知かもしれませんが、このところまたデンシーを使って思い出したので記事にしました。お役にたてない知恵だったかもしれません・・・・。




それでは今日も:

     私達は横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!

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アメリカの食事情

2011-02-14 13:24:51 | マクロビオティック
先刻ちょっとつけたテレビ(NHK衛星)で、畜産などについて放送していました。それによると『大規模農場でトウモロコシの生産を行うようになり、肉牛などの飼料の基本がトウモロコシになった。すると繊維質の草を反芻するように進化している牛の消化器がアシドーシスを起こすようになり牛が死んでしまう。それを予防するために薬剤が使用される。そんな牛肉を人間は大量に食べている・・・・・・』とこういった内容でした。

短時間見ただけなので詳細は分かりませんが、アメリカのトウモロコシ事情のようでした。それによると、コーンスターチの摂取量もものすごいのだとか・・・・・。清涼飲料水の甘みはコーンスターチ(トウモロコシのでんぷん)がほとんどだとか。コーンスターチの取り過ぎは発酵しているようなすえたような体臭を生みだします。これが内臓や筋肉に貯蔵された脂肪で起こっているのでしょうね。アシドーシスって要するに結果として腐りかけているわけです。

食べるということは最も自然な行動の一つですから、食べ物が不自然になったら当然不自然な体になる以外ありませんよね。自然の摂理は恐ろしいものです。気がつかないということは、自然界では許されない事なのです。桜澤先生が最初『MI』を設立されましたよね。現在の日本CI協会ですね。『MI』って『Maison Ignoramus』の頭文字ですよね。『無知なるものの家』、あるいは『愚かなるものの家』と訳されていますよね。久司先生の御本でも『無知』の英語には『Ignore』を当てておられました。

私にその先生のお言葉に補足を加えさせていただくとすると、それは『不断にあるもの、つまり自然の摂理、そしてつまり宇宙の秩序に気がつかない者に気付かせるための家』という意味なのです。『ignore』という単語は普通は『無視する』という意味だとされています。知らずに無視する、つまり在るものが見えない・・・・・そして在りもしないものを在ると思う・・・・・人間の不幸はここに始まると思います。桜澤先生や久司先生、古くは釈迦や孔子やキリストの言葉をよく考えると、私たちは皆行きつくべき答えに行きつくと思います。


それでは今日も:

     私達は横田めぐみさん達をまだ取り返していない!!
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アイスクリーム

2009-09-12 09:56:59 | マクロビオティック
先月下旬オーガニックベースのワンデイクッキングクラスを受けました。知る人ぞ知る富川先生のデザートコースです。

私はそもそもお菓子作りが下手です、と言うか出来ませんと言うべきか・・・・・。子供の頃からあんまり食べ物に執着がなかったので、空腹になれば焼いたまま冷えてしまったお餅でも、お冷ご飯でも何でもよかったんです。それで自分がマクロビオティックを実践するうえでは殆ど苦労をしなかった代わりに、他人様にマクロビオティックをお教えする羽目になってしまった私としては、デザート???ということになってしまいました。

オーガニックベースから送られてくるメールマガジンを見るたびに「出てみたいなあ」と思っていました。それで8月は例年田平の教室がお休みなので、チャンスを逃さず実行してみました。他所の教室に出てみるのも楽しいですね。色々とためになりました。一番の感動は[アイスクリーム]です。これはよく習熟して来年田平教室の生徒さんにも恩恵を分けてあげるつもりです。楽しみにしていてください。

大都会ではお菓子を含めて加工品の人気があるのも当然だと思います。都会では田舎でのように採れたてを味わうことは難しいのですから。何でも採れたてであれば加工する必要を感じません。5月には桜の木に登ってサクランボをとる。枇杷の季節にはこれまた木に登って滴るような枇杷を食べる。『こんなにおいしいものにどうして手を加えるの?』という感じです。でも都会の人々は木に登って収穫できません。都会のニーズはその難しさと運送コストを付加価値に加えてデザート文化の花盛りです。街を歩けばそれはそれは色々と手を変え品を変え何でも売ってあります。都会は売るところ買うところです。

でも現代社会は情報社会!!片や田舎に住んでいる人々にとって手に入りにくい雑誌の中のケーキやアイスクリームは都会的な魅力にあふれているというわけです。大体人口も少ない小さなお店はそんなに色々と仕入れることはできません。それで材料も手に入らないということになります。そんななか来年の6月の教室はアイスクリームのデザート付きです!




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食事

2008-10-28 11:28:16 | マクロビオティック
このところの雨ですっかり肌寒くなって来ました.実家の「とんご柿」が一つもないというのを知った方々から、私の秋の風物詩であるとんご柿を頂きました.これで今年の秋も暮れようというものです.しばらく記事を書かずにいましたが、孫の七五三の準備をしていました.私の大昔の羽織を呉服屋さんに孫娘の晴れ着に仕立てなおしてもらいました.木綿の肌着がないというので手作りにして可愛い半襟をかけました.布地の残りで髪飾りのリボンと下げ袋を作りました.久方に手作りの楽しみを味わいました.

ところで今朝のみのもんたさんの口上を聞いていての感想です.『妊婦が安心して子供を産めないのは国の責任だ、行政の責任だ.』まあそれはそうなんです.システムを整えるのは文明社会の行政の仕事です.でもいつもそうやって国の責任だ、行政の責任だというのを聞くと空しい気持ちになってしまいます.あえて誰かの責任というなら、食の意味を忘れた国と国民の責任です.食を食品業界という経済市場に解放した人間の責任です.食の意味を教育しない国と広報しないマスコミの責任です.みんな忘れてしまったのです.『無知』が罪になるというのはこういうことだと思います.お気の毒な妊婦さんがマクロビオティックに少しでも御縁があったらと思います.司法関係と思われる女の人が、法律上の問題になるだろうと言及していましたが、一体誰を裁くというのでしょう.無知なる国民が無知なる行政を裁いて、結局無知なる己を裁くことになっているのです.どんどん社会は悪くなっていくに違いありません.空を見上げても、北極星を計る物差しを知らないのと同じですから.

マクロビオティックは『食』という事実とその意味を真正面にとらえた道です.『食』は変化するものという私達の宇宙の唯一の変化の方法です.宇宙は食によって変化しています.差があるところ、差を食して平均化するのです.人間の尺度では感知しないような勾配でも水は流れます.それと同じでこの宇宙がある限り永遠に続くのです.この法則が通用しないのはただ一つ、この相対世界(陰陽のある世界)を生み出した元の絶対世界だけです.その世界を無限、不可思議と言っているのです.無限は不可思議なんです.思議すべからず・・・・・つまり思議することが出来ない.それでも思うことは出来るんです.思うことは無限の働きですから.でも思議は出来ません.思議とはこういうものだと説明することなんです.無限というのは差がない世界なので、区別して説明することは出来ないのです.このお話をブログでしても不毛なので、この辺で止めて本題に戻ります.

『食とはどういうことか』、お考えになったことがおありですか.これは久司先生が以前私たちに宿題としてお出しになったことがあります.そのまま先生はお忘れになって、私達生徒に提出をお命じになったことはありません.でも私はその宿題のレポートを書こうとしたことによって、こうやってブログや教室でお話をすることが出来るようになりました.とどのつまり『食す』ということは『一体になる』ということなんです.始め同じ無限だったものが別々になって現れていて、それが出くわして引き合って一つになる、或いは新しい別のものになることなんです.その出会い方引き合い方を説明したのが、『陽は陰をひきつけ、陰は陽をひきつける.』『大陽は小陽を、大陰は小陰をひきつける.』という桜沢先生の変化の法則の二文です.

最初の文は、陰陽ほどに大きく違う性質のものが一つになって、陰陽のどちらか大きい方(食べた側)の性質になることを説明しています.陰陽間の引き合い方は否応なしで平均されます.第二の文は同じ性質のものは同じ傾向を持っているので、巻き込まれてしまってより大きな一つのものになるという意味です.異種の差と同種の差の引き合い方です.私達の現代の食事で言えば、肉を食べればアルコールやデザートが欲しくなり、一方でどんどんエスカレートしていくという次第です.そして極端になってまたその性質を転換するのです.つまりもう一つの変化の法則『陰陽はその究極で、陰は陽を生み陽は陰を生む.』私達の人体というある一定の陰陽の範囲で働いているシステムでは陰陽を超えて無限に変化し続けることは出来ません.病気になったり死を迎えたりします.病気になるのは病巣を排除して陰陽度を戻しシステムを維持しようとすることですし、死ぬことは今のシステムを見限り元の土に戻って新たな生命に生まれ変わろうとすることです.

動物の世界では病気が経過して死ぬということはあまりありません.病気になったら、肉食獣の餌になります.大群のヌーの中で狙われるのは、弱い一人前ではない個体です.つまり病気の個体か子供です.人間も含めてたまたま病気が経過する場合は生きたまま微生物の餌食となり、回復できなくなった場合は死んで屍を微生物に委ねて土に還るのです.動物の健康は、病気の無い成獣のことです.テレビの番組で草食獣が肉食獣に餌食になるのを、いえライオンの子殺しでさへ『自然の掟・・・・』と普通に言っています.いつから人間は自然界からはみ出してしまったのでしょうか.いつから独り人間のみに自然の掟を適用しなくなったのでしょうか.人間の社会は一体何処にあるのでしょうか.

明治までは少なくとも私達は食べ物の上に生きていました.そう思っていたと思います.社会の仕組みはお米の生産量の上に成り立っていました.「明日のお米が無い.」とは言っても、「明日のお金が無い.」とは言いませんでした.でも今では違います.私達はお金の上に生きています.食べ物はお金で買う物になりました.なるだけ安く買わねばなりません.或いはなるだけたくさん売らねばなりません.はたまたなるだけ手間を少なくしなければなりません.それが経済というものです.お金とはよく考えていないと、人間を自然から逸脱させるものだと思います.交換の物差しであったものが、交換の目的となり人間はその奴隷となったのです.人間社会の血液となったお金を抜き去ることはもう出来ません.

私達が健全になる方法は、ただ一つ私達の生命の真実を知ることです.私達の『食とは何か』を知り、何を食べるべきか、何を食べてもよいかを心得ることです.『食事』とは『食につかえまつる事』です.始めにお話したように食とは無限より受け継いだ変化の働きです.無限を私達は源(カミ)と呼び、その働きのことを神と呼んでいるのです.食事をするということは、神事を行っているのと同じで、マクロビオティックは『神につかえまつる道』でもあると思います.ですから本当の神に仕えるということは、身体の働きをよく知ることから始まります.身体の働きを滞りなく働かせる食べ物を知ることから始まります.食べ物は神様へのお供えであり、神様(身体の働き)が嫌われる食べ物をお供えするべきではありません.
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久司先生の新刊

2008-08-10 11:04:15 | マクロビオティック
先日お話しました本が出版社から届きました.発行は今月の25日となっていますので、いつ頃店頭に並ぶのか分かりませんが、25日は主人の誕生日、私は図らずもプレゼントをしたということになりましょうか?

書名は『顔でもわかる健康チェック』、望診法の第2弾ですが、私としては心身の調整法、体調の回復法のまとめといった気分です.要するにマクロビオティックといったって普通のことを普通に(宇宙の法則に従って)展開していくだけなんです.魔法の杖なんてこの世にもあの世にもありません.魔法の杖のように見えるとしたら、それは目が曇っているからなんです.あるもの(真実)を見ないで、希望(都合のよいこと)をのみ見ているからなんです.

人間に生まれてきた世は何をする所かというと、判断力の鍛練の場です.この世はちょうどターニングポイントなので、飛躍的な成長を遂げることが可能です.だから昔から人生を奇妙でありがたいものとして捉えてきました.何が奇しくも妙なるかというと、宇宙の法に触れるチャンスが与えられるからなんです.そんな奇妙というものが如何にありえないものなのか、言っても言っても言い足りないその確率を例えて恒河沙、阿僧祇、那由他、不可思議などという仏教用語ができたのです.

本当は病気も判断力の鍛錬のきっかけでありがたいものなのです.だから死の一瞬までそのチャンスを頂いて、何がしかの進歩をして得るところを確認すべきなんです.得心して死ぬべきなんです.だからこそ他を殺してはいけないんです.動物界では食べるために殺してよかった生命同士ですが、人と生まれたからには殺してはいけません.でも動物と同じ体をもつ悲しさ、殺さずには生きていけません.だからこそ勿体無い、ありがたいんです.なるべく少なく殺生をするという心が倹約です.私たち日本人は代々お米一粒を大切にするよう教えられてきました.ありがたいことだと思います.

毎日のように殺人事件のニュースが届く世の中になりました.誰でもよいから道連れに・・・・・などという不心得も増えました.殺してはいけません.他人のチャンスを奪ってはいけません.子供の頃読んだ『修養全集』という本があります.その中に羊飼いの男の話が載っていました.その男は前世が分かる能力をもっていて、その男が言うには『自分は前世も前々世もその前もずっと羊飼いだった.だから現世で羊飼いをしているからまた来世も羊飼いに生まれるだろう.』でもその男は次は羊に生まれました.そして羊飼いに飼われてされる運命となりました.

この本はお釈迦様の解説がついた画期的(??)な本ですが、お釈迦様のお話によるとその羊飼いは七世前に羊飼いをしている時小さな蜘蛛を踏み潰しそうになった時助けてやったことがあったために、その次の世も次の世も羊飼いに生まれたのでした.そしてチャンスを七世も与えられたのに考えることなく同じことを繰り返して生きたので、それから七世羊に生まれなければなりませんでした.

動物に生まれると自分の波動を変えるという観点からは非常に困難な目にあいます.動物は、自分の運命というべきか状況というべきかは別として、たいてい受け入れる以外の選択肢はありません.そういう心理波動なんです.それ以上のものを知りたいとも、自分を改革しようとも思いません.そしてその波動が向上するか堕落するかは、私たち人間が死んだ後の状況と同じだと私は考えています.持っている波動と同調する波動に拾われるんです.その時自他はありません.拾うほうも拾われるほうも同じ条件です.誰に拾われるか??お釈迦様に拾われるか、イエスに拾われるか、日蓮上人に拾われるか、アマテラスオオミカミに拾われるか・・・・・・或いはこの世近くを彷徨っている霊魂(?)に拾われて更に重い心を引きずってしまうか・・・・・これはひとえに私達の心得たもの次第です.

少なくともこの地球を含む生命の環境では、人の世だけが波動としての飛躍のチャンスを与えられているような気がします.人生とは本当にありがたくもったいないものです.私たちも毎日小さな蜘蛛を助けてやらなければなりません.善業を積む以外、再び人間に生まれるために出来ることはありません.そして日々判断力の鍛錬に励みたいと思います!!!
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マクロビオティック考・食について(長過ぎですね)

2008-05-01 16:37:05 | マクロビオティック
そもそも『食』とは一体なんでしょうか?マクロビオティックを実践しておられる方もそうでない方も、一度は『何で食べるのだろう?』と自問したことがおありだと思います.今更そんなこと言っても止めれば死ぬだけよとお思いだろうとも思います.でも地球上には食べて生きるものもいれば、食べられて死ぬものもいます.或いは食べたが故に死ぬものもいます.食という行為は生死と密接に関わっているのは自明の理ですが、マクロビオティックを人生の指針にしようと考えれば、『食』というものの本質を考えずに通り抜けることは出来ません.そこに桜沢先生や久司先生が平和の方法として『食』を提示された意味があるのですから.

さしあたって地球上にいる生命はあらゆるものが食べて暮らしているのですから、生命の起源において『食』というものはどんなものだったのでしょうか.何故生命が発生したかという問題はおいておくことにして、私達生命体の起源は細胞質が膜でテリトリーを囲って自分を識別した時(人間の意識ではなく)に始まります.原初の環境条件の中で発生した境界を隔てる膜を持つ細胞体は原始的な粘液状のものだったと推測されています.その時の意識はただ一つ、自己保全です.努力をしなかったものは残っていないのです.その努力によって存続してきたのですから、地球上のあらゆるものは自己保全の努力を皆するものです.生命と考えられていない物質だって、自己保全の力を持っています.火の上のフライパンに落ちた水だって、自己保全のために結球するのです.

この変化する世界での自己保全にあたって、生命は存続するためのエネルギーを必要としましたが、当時その取り込み方には二つの選択しかありません.自分と異質な外界を取り込むか、その異質な外界から発生した自分と同質なものを取り込むかのどちらかです.異質な外界を取り込むことにも結果は二つありました.自分が外界から独立したように必要なものを選択的に取り込むことが出来るか、それとも失敗して外の環境条件に還元してしまうかのどちらかです.この条件は今でも生きています.私達は食べられるものを食べ、毒を食べないよう選択をしています.同質なものを取り込むということは、粘液状ですから外見は合体したように見えます.この時期はどっちが食べたか食べられたか私には分かりませんが、これにも食べる側か食べられる側かの二つの立場がありました.いずれにしろ現代まで命をつないできたものは自己保全に成功してきたものです.こうして次には分裂して数を増やす(生殖)ようになります.数が増えていけば多少の多様性が生まれますがいずれにしても最初は選択の余地の少ない我と同質(狭義の共食い)か異質(広義の共食い)かの食の世界です.そして同じ自己保全の性質により、生命体は食うことを望み、食われることを回避してきたのです.獲物を追いかけ、その獲物は逃げるものなのです.

単細胞時代は全てにおいて、言わばオール・オア・ナッシングの時代です.あなたが私になるか、私があなたになるかのどちらかです.食べたものが生き残りますが、食べられたものは食べたものの中身になります.食行為の意味は此処にあります.桜沢先生や久司先生が言われるところの、『私達は私達が食べたものである』という意味が単細胞を考えるとものすごい迫力で迫ってきませんか?私達ははるか35億年の時代を経て、安全の確保を図り今のような複雑な人体を作り上げました.しかしこの単細胞時代のやり方はそのまま消化吸収や免疫細胞のやり方として体内に持ちつづけています.腸壁の細胞は同じように腸内という外界から自分の内側に食べ物を取り入れています.白血球などの免疫細胞は異物を消化することによって無害化しています.そうやってあなたを私に変え、私は昨日の私とは違って存在しているのです.私は私が食べたものであり、あなたはあなたが食べたものです.

進化というものを調べてみると、突然新しい存在や行動原理が目的をもって現れることは無く、最初の機能やシステムを踏襲しながら援用したり代用したり、或いはその力や成分を他の何かの必要なものに作り変えたりして今の私達があることがわかります.私達ははるか35億年を自分の体のシステムとして持ち続けながら今を生きています.その間に海の中で生活を始め、上陸を経験して様々な苦難を乗り越え哺乳類となり人類となりました.生命進化を見れば、初めに自分か自分でないかの識別があり、次に自分でないものが同質か異質かの食行動が発生したと思います.人類に至るまでの食行動の系列でといったら変ですが、一番初めは共食い、そして外界の取り入れ方として同質(?)の肉食、最後の最後に草食に分岐した種の位置に私達人類はいます.ゴリラなどは人類よりかなり昔に草食になりました.進化の歴史の中で共食いがはっきりとタブーになったのは爬虫類に近くなってからだろうと思います.つまり産む子の数が決定的に少なくなってからだと思います.子の数が少ないということは、共食いを許せば絶滅してしまいます.それ以上に保護すら必要になってきて育児行動も始まったのですから.共食いの世界に親子の認識はありません.親子の感情は共食いと絶縁した証しです.食と生殖は同じ起源です.食の結果生殖が起こり、生殖のために食があるのです.生殖は自己保全の一つで、時間の巻き戻しです.ですから発生は系統発生を繰り返すのです.

生殖はマクロビオティックで言う陽性が陰性にターンするその時に戻ることと同意義です.私達地球上のものは地球も含めて全て陰性に向かっています.地球上のすべてのものは脱物質化(?)の方向に進んでいます.時間の単位はそれぞれ違いますが、個体で言えば死であり、種で言えば絶滅であり、界で言えば波動化です.ですから自己保全は生殖による繰り返しを選ぶしかないのです.ではその陽性は何故陰性に向かうのでしょうか.何故極点で陽は陰に変化するのでしょうか.それはいつも陽は陰とセットになって存在しているからなのです.陽の局面が現れている時も陰は見えない力となって同時に存在しているからなのです.存在界の始まり、イザナギイザナミの天のヌボコから滴り落ちて凝り固まったその時、秘められた陰性の力がそのものの性質になったのです.繰り返し繰り返し私達のその性質は陰性化の度合いが強まって、予言にある通りいつか子が生まれなくなるときが来ます.この世にあるものはいつか絶滅することになっているのです.

こうして見ると食べるということは陰性化が宿命である私達のネジの弛み方、巻きなおし方であると言えると思います.もっと大きく見れば、全てのものが持つ『いつまでも』という自己保全の夢を実現させようという希望であると同時に、自分以外のものを取り入れて新しいものに変化していくこの世の動きそのものの行動様式でもあるのです.この世のものはみな食が行動原理であり、それによって変化しています.ですから最初の生命も当然その性質を受け継いでいたのです.人間は食べることの持つ本来の喜び――自己保全の達成――とは別に、食べることそのものに楽しみを見出して目的化しています.しかし食の選択は生死の選択でもあるのです.そして人間は体の陰性化とは別に、もう一つの陰性化、つまり界の陰性化(波動化)を具現することになりました.体は地球と一緒に絶滅するまで繰り返し繰り返し何かに生まれ変わるのです.花になったり、猫になったり、虫になったり、はたまた誰かになったり・・・・・でも私の中で波動化され精神に昇華された陰性化物は、私が陰性化して死を迎えるまでの間に食べるものによって変化します.自分の思い方という陰性の食べ方によってもその変化は加速されます.そして死後はもっと大きな繰り返しの中に変化していきます.そこではより大きなものに食べられることが望みです.或いは残された子孫の送りつけるお供え物(祈り)が大きく広いと大きな助けになるでしょう.

さて皆様は何を食べたいと思われますか?
コメント (4)
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意見の種類

2008-03-31 11:39:36 | マクロビオティック
昨日の日曜日は主人について講演会に行って来ました.最近は色んな方の意見や仮説が世の中に混在しています.その中には正反対の考えもありますし、似たような考えもあります.世の中はそんな矛盾も何もかも飲み込んで、同時に一日一日巡っています.まあそのおかげで私達は自分の中で少しずつ調整(?)をしながら、つまりあっちに揺れこっちに揺れしながら自分を作っていくのかもしれません.

それはそれとして健康回復に対する意見には三種類あるような気がします.(1)は現在の不足や不具合に対して外から補おうとするもの. (2)は現在の過剰を取り除こうとするやり方. (3)は現状に至る筋道を撚り戻そうとするやり方. 簡単に三つを区別するとしたら、(1)は補強、(2)は不要物除去、(3)は自己再生とでも言いましょうか.

(1)は今の生活を変更することなくそのまま何かによってその都度維持していこうとするやり方.例えば貧血は鉄分不足とみて鉄を補給するやり方.何となくお念仏を唱えて阿弥陀様におすがりするのと似ています.(2)は自分の生活を反省して元の健康を取り戻そうとするやり方.例えば異常に高い検査値を正常に戻すため飲みすぎ食べすぎを減らそうとするやり方.他力本願のお念仏から自力本願の座禅まで幅がありますが、現状(自分)に対する肯定は(1)と同じです.(3)は反省するのは同じですが、現状を否定もしてあらゆる困難を乗り越えて本来の体を取り戻そうというやり方.敢えて言えば修験道に似ています.己が不始末で死ぬ覚悟もしなければなりません.

それぞれのやり方にも幅があって更に三種類くらいに分けられそうです.マクロビオティックの中にも三種類あります.世の中全体で見ればマクロビオティックは、少なくとも私のマクロビオティックは(3)に近くなります.ですが私のマクロビオティックは私のものであり、あなたのものではありません.あなたにはあなたのマクロビオティックがあってよいと思います.マクロビオティックは押し付けられません.病気の局面ではどんな健康法でも押し付けになることが多いものです.本人が不安を感じている場合には、すがりたいものなのです.これでは(3)が(1)になってしまいます.マクロビオティックを病人に語る時には、病気治しを語ってはいけないのです.病気はあくまで本人のものです.マクロビオティックは人生論です.一人一人がそれぞれ到達するものだと思います.

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マクロビオティックって何でしょう.

2008-03-26 11:46:30 | マクロビオティック
マクロビオティックを始めようと、その昔?スタートラインに立った皆様、覚えてお出でですか?その時の気概を!そして今どんな暮らしをしていらっしゃいますか?

いつかもお話しましたが、目標と目的、そのどっちも身近にされたでしょうか?目標には色々ありますよね.マクロビオティックに沿った生活を確立することが目標ですから、そこには食事法、呼吸法、運動法・・・・・それによってマクロビオティックな人生を生きる手段、つまり生活法が示されています.食事法は体の材料を選択する方法.呼吸法は呼吸という天地の力の取り入れ法を通して、体のリズムを選択する方法.運動法は体の動かし方を通して、天地の力の体内循環を選択する方法.というわけでマクロビオティックは日々の小さな選択の判断力を身につけるための知恵です.そしてこのようなマクロビオティックと呼ばれる方法手段は、全て自分の判断力のレベルに左右されるものでありながら、その目的は自分の判断力の研鑚向上にあります.

判断力って何だとお考えですか.いろいろな考え方があると思いますが、一言で言えばそれは生命力です.太古の昔小さな生命がこの地球上に発生した時身につけていたものは食べてよいものかよくないものかの小さな判断力一つでした.生命とは判断力を持ったものです.ですから判断力こそが、無限から受け継いだ性質で、その判断力を持ってこの地球上に出現し、向上した(?)判断力を持って無限に帰るのです.私達の地球上の姿は、太古の昔の小さな生命の向上した姿です.全ては食べられるか、それとも食べてはいけないのかの判断に基礎を置いています.食事法は基礎の基礎であり、生命の掟、ひいては存在するものの掟でもあります.

呼吸や運動は何のためかと言えば、これは多細胞生命の掟です.全細胞により良い環境を整えるための判断力です.多細胞生命の出現は地球環境の進化により、宇宙の力の影響が大きくなったからです.宇宙の秩序を発現しやすくなって、地球上に宇宙のモデルを作り始めたのです.そして今現在私達人間がいます.人として進化の始まりから無限に回帰寸前までの判断力のバラツキを持って、私達は今此処にいます.私達は宇宙の判断力を身に付けなければなりません.そしてはるか無限に回帰することが、人間の目的であり生命の目的であると思うのです.その目的を私達はマクロビオティックの目的にしました.そして食事法や運動法などの手段としてのマクロビオティックを当座の目標としたのです.

周囲を過去から現在まで見渡せば、マクロビオティックを知らなくても十分長生きした人も幸福であった人もいます.現在もマクロビオティック食事法から判断すれば、首を傾げたくなるような事例もたくさんあります.でもそれはそれで比較してはいけません.大げさに言えば、私達は太古の生命から受け継いだそれぞれの判断力を試して、現在の姿をさらしているのです.そしてその判断力を向上進化させて、まあ図解すれば円周期が大きければ大きいほど無限に近くなるのです.

昔から多くの人が真理を求めて判断力を磨いてきましたが、その判断力を自分の体に及ぼせないような『頭でっかち』ではまだまだです.その判断力が足下を生かしていることを実感しなければなりません.そこで『お行』なるものが大事にされたのです.一飯の飯、日々の農作業、睡眠・・・・無為自然という生活は体の中に自然を自覚することでありました.体と頭を無為自然にすることが、判断力の総仕上げです.後は体を捨てて、悠久の無限に回帰するだけです.そのちょっと前の高い判断力で地球を囲むことが、桜沢先生、久司先生と受け継がれた平和運動かも知れません.

体を動かしましょう.呼吸を整えましょう.食事に限定しないで、大きく生活を見直して見ることも大切だと思います.マクロビオティックにも、判断力に基づいた人生観というものがあって、その人生観によって食事を選ぶのですが、最も進化した多細胞動物の人間の体には、天地の力のスムーズな移動(循環)が必要です.天地の力の滞りをなくし、内外の力を交流させることも大事なことです.観念的に縛られて滞りをつくらないことが大切です.人生観を観念論にせず、動く自然の一部としての判断力としなくてはなりません.

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マクロビオティック考・老化後日談

2007-12-26 14:07:49 | マクロビオティック
先日の記事について、友人から言われました.「皺は若いうちからお手入れをしすぎた人がなるのよ.某化粧品のセールスレディーはしわくちゃよ!」って.なにやら実例がありそうで説得力大ですが、本当でしょうか.それならいいけれど、でもお気の毒です.どうお考えですか.

人生のゴールは「死」です.問題は「それまでどう生きたか」です.命は時間(トキ)のエネルギーですから、死を目標点に据えなければなりません.でも目的ではありません.目標と目的、目標はゴールでもあり通過点であります.目的は跳びかかる目当てです.目標は人生を生きる無限の分子の通過点であり、目的は人間の視覚的距離にある獲物です.捉えねばなりません.目的とは良く出来た漢字だなあと思います.

お手入れは目的なのかもしれません.飛びつきやすい!? でも目標(命)を手に入れられるかどうかは、お手入れの仕方次第でしょう.化粧品によって表面を磨くか、それとも食事によって人体の仕組みを円滑にするか、エネルギー波動によって人間波動を変えるか・・・・・選ぶのは自分自身です.いかなる死に顔を今生のはなむけとするか、考えて日々何を食べるか、何をするのか目的を設定したいと思っています.

それから老化予防の余談ですが、化粧品やサプリメントなどお試し品がありますよね.あれははっきり言えば害が無い限り大方何でもよくなるものです.その訳は「今までと違う」ということです.違いが出来れば刺激によって身体機能は活発になります.用心して見定めてください.
コメント (2)
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