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四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

シンポジウム「飛鳥時代の役所と地域社会」

2018年11月10日 | 講演会・講座


関東の明日香村 ~幡羅官衙遺跡群~
国史跡指定記念シンポジウム
飛鳥時代の役所と地域社会

日 時:平成30年11月10日(土)9:30~16:40
会 場:深谷市民文化会館 大ホール
主 催:深谷市 / 共 催 : 熊谷市、埼玉考古学会、東国古代遺跡研究会

を聴講してきました。

【発 表】
・古代国家の成立と東国の古代社会
     宮 瀧 交 二 氏(大東文化大学)

・飛鳥時代の幡羅官衙遺跡
     知 久 裕 昭 氏(深谷市教育委員会)

・飛鳥時代の西別府祭祀遺跡-湧水祭祀場-
     吉 野  健 氏(熊谷市教育委員会)

・飛鳥時代の橘樹官衙遺跡群について
     栗 田 一 生 氏(川崎市教育委員会)

・飛鳥時代の西下谷田遺跡
     清 地 良 太 氏(宇都宮市教育委員会)

・飛鳥時代の御殿前遺跡-豊島郡衙創建の様相-
     中 島 広 顕 氏(北区飛鳥山博物館)

・復元、館の主殿
     田 中 広 明 氏(埼玉県埋文調査事業団)

【討 論】
   司会:井 上 尚 明 氏(立正大学)

【紙上報告】
・飛鳥時代の北武蔵
     赤 熊 浩 一 氏(埼玉県埋蔵文化財調査事業団)

・埼玉県南部における飛鳥時代の官衙及び関連遺跡
     平 野 寛 之 氏(川越市立博物館)




シンポジウム資料とチラシ




深谷市民文化会館




国指定史跡幡羅官衙遺跡群   昨年12月に散策した際に撮影




同上




国指定史跡幡羅官衙遺跡群の西別府祭祀遺跡  本年3月に散策した際に撮影

聴講日:平成30年(2018)11月10日(土)

寺尾城(群馬県太田市)

2018年11月09日 | 100名城以外の城館跡


城 名:寺尾城(てらおじょう)
別 名:寺尾館
形 態:居館
時 期:保元2年(1157)
築城主:新田義重
城 主:新田氏・脇屋氏
遺 構:-
指 定:-
現 状:和食屋(新田乃庄本店)
所在地:群馬県太田市寺井町

新田の地に本拠をかまえ、庄司となった源義重は新田氏を名乗った(新田氏の始祖)。以来三代87年にわたり居城し、南北
朝時代には義貞の弟脇屋義助が城主となったのが寺尾城だといいます。
寺尾城の推定地は、片岡郡寺尾村(現高崎市寺尾町)周辺と、 新田郡寺井村(現太田市寺井・天良町)周辺との2説あり、こ
こ太田市にあっては和食屋・新田乃庄本店が建っている場所が城跡と言われていますが、遺構は全くありません。




新田乃庄本店前に建つ「新田庄寺尾城跡」石碑
現在この店舗(本店)は使われていないようですが、道路のはす向かいに、【新田乃庄別館寒山亭】があります。




「新田庄寺尾城跡」石碑




石碑裏面  生垣の手入れがされておらず(失礼)全体を撮ることはできませんが、次のように記されているようです。

  栄枯は夢の如し こ〃谷 地蔵窪 七堂の字址は
  享保年中まで寺尾村の内なり
  清和源氏八幡太郎義家公の嫡孫 新田義重公以来三代
  この地を本拠となし 寺尾館 寺尾城 稱したり
  八代義貞公挙兵六百五十年に當り こゝに碑を建つ
     昭和五十八年六月八日
             新田庄寺尾城史跡保存会

実際、寺尾城が現在の高崎市と太田市のいずれかにあったにせよ、新田館(総持寺)も新田義重の居館とされていますので、
同時期に2つの城館に居したということになります。
家は1軒と思っているのは、私のような底辺庶民の考えることで、中世の豪族ですから複数の居館があっても不思議ではあ
りませんが・・・

散策日:平成30年(2018)10月2日(火)

悪源太義平の墓(群馬県太田市)

2018年11月08日 | 史跡・遺跡・文化財


名 称:悪源太義平の墓
所在地:群馬県太田市世良田町(旧新田郡尾島町)義平山清泉寺境内

悪源太義平の墓を訪ねてみました。
「義平山 清泉寺 悪源太義平 入口」というこの大きな看板がなければ、ここがお寺とは思わないでしょう。

平安末期に、新田義重の娘で悪源太義平の妻がこの地に庵を結んだのが清泉寺の始まりと言い、京で清盛父子の命を狙って捕
らわれ斬首された義平のことを知った妻は秘かにその首を持ち帰り、この地に埋葬し夫の菩提を弔ったということのようです。




一応、山門なのでしょう  山門前に「清泉寺」説明板が立っています




説明板

 


本堂
清泉寺は祈祷寺であったと門前の説明板にあるよう檀家と墓地を持たない寺です。また、無住のため雨戸が閉まったままです。




狭い境内に建つ宝篋印塔 これが悪源太義平の墓と思いきや・・・




この説明板にあるよう徳川吉宗の次男の田安(徳川)宗武が娘の幸せを祈って宝暦5年(1755)に建立した宝篋印塔




宝篋印塔の背後に形の違った3基の墓石が並んでいます
右側の自然石の墓が悪源太義平の墓です。後ろに朽ちた立て札がありますが、「源義平の墓」とでも書かれていたのでしょう。




「悪源太義平公御廟」と刻まれているようですが、悪源太義平は俗称(あだ名)ですから、本来なら「源 義平]と刻まれると
思いますので、後世に建てられた供養塔かもしれません。




清泉寺の全景を   やっぱりお寺というよりは民家に見えてしまいます

散策日:平成30年(2018)9月23日(日)

徳川氏館(群馬県太田市)

2018年11月07日 | 100名城以外の城館跡


城 名:徳川氏館(とくがわしやかた)
別 名:徳川義季館・徳川館
形 態:館
時 期:建久3年(1192)
築城主:徳川義季
城 主:徳川氏
遺 構:ー
指 定:ー
現 状:住宅地・農地
所在地:群馬県太田市徳川町(旧新田郡尾島町)

徳川(新田)義季は、父・新田義重が旧新田郡南西部の荒廃地を開発して成立させた新田荘から世良田郷を譲られた。また、
徳川郷を領有して館を構えて徳川氏を称したとされます。義重は夫人とともにこの館(徳川氏館)で晩年を過過ごしたといい
ます。
徳川東照宮付近一帯が館跡とされるようです。徳川は「得川」とも表記される。




参道入り口左側の「徳川義季公館址」石標     右側には「東照宮」石標  ※上記写真




参道入り口脇に建つ【尾島かるた】  と 徳川氏 発祥の地 尾島町
家康が松平姓から徳川に改姓し徳川義季の末裔を名乗ったのは将軍になるための家系詐称と言われていますが・・・




参道と鳥居  参道右側の広場は地域のコミュニティ広場で建物はその名も徳川会館




社額「東照宮」




公爵徳川家達閣下御手植記念樹   家達公は徳川宗家の16代当主 元は田安徳川家の7代当主




拝殿
元は永徳寺の境内にあった徳川家康を祀った権現堂で、大正13年(1924)に東照宮の拝殿として移されたもの




ところで新田義重夫妻の墓がこの辺りにある筈と付近を探していたら、東照宮の東方50mくらいの所に標識を発見




畑の中に墓所がありました  木立のある所が東照宮




墓所入口左側の門柱には、よく見えないと思いますが 新田義重夫妻之墓所 と刻まれたプレーが埋め込まれています。




「伝新田義重夫妻之墓」標柱




「徳川氏館跡の宝塔」説明板
説明板自体が古いので退色して読みにくいので、画像処理をして何とか読める程度に。また、市町村合併により地名に変更が
生じたため、変更になった部分に上から新地名を貼ったようですが、劣化して読めません。




この宝塔が義重の宝塔と伝えられる




同上

伝新田義重夫妻の墓のあるこの場所は徳川氏館跡ないとされるようですが、館跡の範囲はどこまでなのでしょうか?
東照宮の南側にある縁切り寺「満徳寺」もその館域なのでしょうか




永徳寺前に建っている「徳川氏発祥の地」の大きな看板
この永徳寺は、縁切り寺「満徳寺」と道路を挟んだ南側にあります。

散策日:平成30年(2018)9月19日(水)

世良田氏館(群馬県太田市)

2018年11月06日 | 100名城以外の城館跡


城 名:世良田氏館(せらだしやかた)
別 名:-
形 態:居館
時 期:平安時代末
築城主:世良田氏
城 主:世良田氏
遺 構:堀跡(復元)
指 定:国指定史跡(「新田荘遺跡 長楽寺境内」平成12年〔2000〕11月1日指定)に含まれるのか?                     
現 状:歴史公園
所在地:群馬県太田市世良田町(旧新田郡尾島町)

新田荘遺跡 長楽寺の西側にある芝生広場が、世良田氏館跡と言われます。世良田氏館跡は、新田氏一族世良田氏の館跡と伝え
られています。




世良田氏館跡(芝生広場)のほぼ真ん中に設置されている「世良田館跡」説明版




説明文




発掘時の航空写真




北方から南方を   写真にある 北辺部の堀 と 東辺部の堀
 



東辺部の堀




南端部の堀




同上



南端部  車が止まっているところが歴史公園駐車場




こんな碑が建立されていましたが、何の意味なのかわかりません




南方から北方を  右にあるのが東辺部の堀




世良田氏館跡(芝生広場)西側の歩道から

正直、世良田氏館跡の範囲がどこまでなのかわかりません。この芝生広場だけなのか、長楽寺の勅使門がある辺りまでなのか。
取り敢えずこの投稿では芝生広場に限定しましたが、長楽寺境内については別途で。

散策日:平成30年(2018)9月23日(日)

円福寺・十二所神社 ②(群馬県太田市)

2018年11月05日 | 史跡・遺跡・文化財


名 称:十二所神社
創 建:不明
指 定:国指定史跡(名称「新田荘遺跡 十二所神社境内」平成12年〔2000〕11月1日指定)
所在地:群馬県太田市別所町(旧太田市)

■ 十二所神社境内
 十二所神社は、円福寺本堂の西、茶臼山古墳の後円部墳頂近くにあります。創建された時代は不明ですが、中に全部で16体
の神像が安置されています。
 そのうち5体(市重要文化財)には正元元年(1259)の銘があり、その1体には、円福寺初代住職阿闍梨静毫が、現世安穏と
極楽往生を祈願して、同年10月5日に造像したことが刻まれています。
 平安時代は神仏習合が進み、中世に入ると日本の神々を仏教の如来や菩薩の権現とする考えが一般化し、神殿内に仏を安置し、
寺院境内に神々を祀ることが普及しており、ここにもその一端を伺うことができます。
      (現地の「国指定史跡 新田の荘遺跡 円福寺境内・十二所境内」説明板の中から十二所神社境内部分を転記)

 円福寺茶臼山古墳は、長さ168mの大前方後円墳です。墳頂部や墳丘裾部は、後世の円福寺や十二所神社等の建物を造った
時に削られて、原形がそこなわれていますが、市内では天神山古墳に次いで第2位、県内でも第3位の規模を誇っています。
 中程にある平坦面には円筒埴輪が立て並べられているのが確認されています。墳丘の周りに巡らされた堀はほとんどが埋まっ
ていますが、後円部の北側に今もその名残りがあります。造られた時期は、5世紀前半頃と考えられています。「宝泉茶臼山古
墳」、「別所茶臼山古墳」とも呼ばれます。
                            (太田市ホームページ 太田市の文化財 より一部抜粋引用)

円福寺・十二所神社 ① の続きです。十二所神社については最後の方で紹介しています。




円福寺観音堂への石段の参道




石段を登り切った所に門が建っています。何という門かは分りませんので、六脚門とでも呼んでおきましょうか。




「観音堂」  札所本尊は千手観世音菩薩




「扁額」  読めません




観音堂を右斜めから




観音堂を左横から




勝手に命名の六脚門と手水舎、鐘楼




「手水舎」  水がない




「石幢(せきどう)」と説明板




「別所円福寺・石幢」説明板




「石幢」




「馬頭観音堂」




「鐘楼」




観音堂の境内を




観音堂の右側、茶臼山古墳の後円部墳頂近くにある「十二所神社」




「十二所神社神像」説明板




「十二所神社」本殿  神像を見ることはできません




向きを僅かに変えて




「国良親王御陵」とその石標




奥の鳥居が十二所神社の鳥居のようです

散策日:平成30年(2018)9月23日(日)

円福寺・十二所神社 ①(群馬県太田市)

2018年11月04日 | 史跡・遺跡・文化財


名 称:御室山 金剛院 円福寺
宗 派:高野山真言宗
創 建:鎌倉時代
開 基:新田政義
御本尊:不動明王
指 定:国指定史跡(名称「新田荘遺跡 円福寺境内」平成12年〔2000〕11月1日指定)
所在地:群馬県太田市別所町(旧太田市)

■ 円福寺境内
円福寺は、古義真言宗の寺で、正式名を御室山金剛院円福寺といいます。
 新田氏第4代の新田政義が開基したと伝えられ、政義が京都御室の仁和寺から招いた阿闍梨静毫(あじゃりじょうごう)が初
代住職といわれます。
 『吾妻鏡』によれば、政義は寛元2年(1244)京都大番役として在京中、幕府の許可を得ず突然出家したため幕府の咎め
を受けて所領を没収され、由良郷別所村に蟄居することとなりました。円福寺が開かれたのはその頃と考えられます。
 この辺りは、当時「新田荘由良郷」と呼ばれており、13世紀中頃~14世紀年頃の新田氏本宗家の拠点になっていたと考え
られ、近年改築された本堂には、新田氏の第4~7代にあたる新田正義、政氏、基氏、朝氏の位牌が安置されています。
 境内には、大形の前方後円墳茶臼山古墳が存在し、その前方部東隅には新田氏累代の墓と伝えられる20基余りの凝灰岩製の
石層塔・五輪塔群があり、そのうちの1基には元亨4年(1324)に「沙弥道義(しゃみどうぎ)」(新田義貞の祖父の新田
基氏の法名といわれる)が72歳で逝去したことが記されています。
        (現地の「国指定史跡 新田の荘遺跡 円福寺境内・十二所境内」説明板の中から円福寺境内部分を転記)




円福寺の駐車場に設置された周辺案内図   位置関係がよくわかります




円福寺「山門」




山号「御室山」と揮毫された扁額




寺号標「御室山 圓福寺」




「千手観世音」石標




「国指定史跡 新田荘遺跡  円福寺境内・十二所神社境内」石標
「群馬県指定史跡 円福寺茶臼山古墳及び新田氏累代の墓附石幢」石標
「国指定史跡 新田の荘遺跡 円福寺境内・十二所境内」説明板




「国指定史跡 新田の荘遺跡 円福寺境内・十二所境内」説明板




山門を入った所から円福寺の境内を




庭園の間から幼稚園の園舎が見えます




円福寺本堂




同上  木の枝が邪魔をしていますが大棟の紋は「新田一つ引大中黒」




本堂に架かっている扁額 寺号「圓福寺」(円福寺)




観音堂・十二所神社への石段
登り口右側の看板は、各所で見かける「新田荘遺跡案内図」




各所への方向を示す案内板




石段幟口左手にある「円福寺・十二所神社とその周辺の文化財」説明板




石畳の通路の先の覆屋に「新田氏累代の墓」があります




「新田氏代々之墓所」の石標  木の枝で一部見えません




大きな石灯籠が建立されています  埼玉県の西部地区のお寺を中心によく見かける例の石灯篭です  前面に
 東叡山
 大猷院殿 尊前
と刻まれています。東叡山とは上野の寛永寺のこと。大猷院殿とは徳川家光のこと。
元々この石灯篭は寛永寺の家光公の墓前に大名が奉納したものです。どのような経緯でここに移されたのかはわかりませんが、
徳川氏は源氏の流れを汲む新田氏の子孫を自称しておりますので、何のゆかりもない寺にあるよりは新田氏累代の墓所なら意味
あるでしょう。

  


「伝新田氏累代の墓」説明板




伝新田氏累代の墓にかかる部分を表示




20基ほどの墓石が並んでいます




奥から二つ目の墓石が基氏公のものです




奥から覆屋入口方向に
所々に貼ってある表示は、五輪塔 層塔 などの墓の名称の説明札でした

観音堂、十二所神社等は、その②で・・・

散策日:平成30年(2018)9月23日(日)

義国神社(群馬県太田市)

2018年11月03日 | 神社仏閣


名 称:義国神社(よしくにじんじゃ)
祭 神:源義国
所在地:群馬県太田市岩松町(旧新田郡尾島町)

新田氏・足利氏の祖源義国を祀った義国神社を訪ねてみました。
義国神社は、青蓮寺(岩松館跡)から東方に約200mのところの畑の中にポツンとありますが、畑の中を突っ切って行くわ
けにもいかず、回り道をしないといけませんでしたので、5分ほどかかりました。




義国神社と説明板




「義国神社」説明板




祠  
社額には、「義国天神」と刻まれ、その両脇に「不動明王」と「聖徳太子の名が刻まれています
祠の前には、観応2年(1351)の板碑があるが、社額、板碑ともども単体での撮影を失念してしまいました。




祠の裏にある義国の墓所と言われる場所




石祠と五輪塔




見づらいので逆方向から   義国夫妻の供養塔と言われる五輪塔の残欠
なお、義国の正式な墓所は足利市の「鑁阿寺」にあると言います。 




義国神社はこんなところに鎮座しています。

散策日:平成30年(2018)9月19日(水)

岩松八幡宮(群馬県太田市)

2018年11月02日 | 神社仏閣


名 称:岩松八幡宮(いわまつはちまんぐう)
所在地:群馬県太田市岩松町(旧新田郡尾島町)

岩松八幡宮は、平安時代後期の仁安年間(1166~1169)に、京都大番であった新田義重が山城国の石清水八幡宮から松の苗を持ち
帰り、これを植えて石清水八幡宮を勧請して創建したと伝えられる。以来、「いぬま郷」と呼ばれていた当地を岩松郷と称する
ようになったと言います。南北朝以降、新田荘の実権が岩松氏に移ると新田荘の総鎮守しとて栄えました。
境内には、岩松八幡宮、新田義貞を祭神とする摂社の新田神社が鎮座し、隣接して小公園「いぬま公園」があります。




狛犬の前には、岩(石)の塊があります。狛犬が岩に乗っているかのように見えます。




朱色の鳥居が陽に映えています




鳥居を斜めから 両部鳥居のように見えますが、前後にある筈の控え柱の前の部分がありませんので、何という鳥居なのか?




鳥居の社額には「新田総鎮守 岩松八幡宮」と揮毫されています




「岩松八幡宮」説明板




拝殿




拝殿に架かる「八幡宮」と揮毫された社額




玉垣で囲まれた拝殿




本殿  透かし塀の隙間から見える社殿は拝殿と独立していて門もあります  (覗いてこなかった)




何の表示もありませんが、この社が新田義貞を祀った「新田神社」のようです。




新田義重が石清水八幡宮から松の苗を持ち帰って植えたという松はこの松か? 冗談です




石碑群  左の石碑の背後にあるのも、社名は分りませんが境内末社




いぬま公園




「いぬま公園」説明板




岩松八幡宮全景

参詣日:平成30年(2018)9月19日(水)

岩松館(群馬県太田市)

2018年11月01日 | 100名城以外の城館跡


城 名:岩松館(いわまつやかた)
別 名:ー
形 態:居館
時 期:平安時代後期
築城主:源義国
城 主:源義国・新田義重・岩松氏
遺 構:土塁
指 定:ー
現 状:青蓮寺
所在地:群馬県太田市岩松町(旧新田郡尾島町)

新田氏・足利氏の祖源義国が居住し、その後、子の新田義重や岩松氏が居住したと言われる岩松館跡を訪ねて来ました。
現在の青蓮寺境内を中心とした区域が館域であったようです。




門前に設置されている「岩松館跡」説明板




同じく門前に設置されている「青蓮寺」説明板




山門(楼門)




山門と本堂




山号「岩松山」の扁額




本堂




本堂前に設置の「青蓮寺・源義国公の墓・岩松尚純公御夫妻の墓」説明板




銅鐘がありませんが、鐘楼跡でしょうか




本堂裏の藪 この中に土塁があるとのことで・・・




土塁、堀跡らしきものが確認できましたが、藪蚊と蜘蛛の巣の攻撃を受けて退散




境内

散策日:平成30年(2018)9月19日(水)