1ヶ月前の10月28日(金)放映の、BS-TBS『高島礼子・日本の古都~その絶景に歴史あり』は、「のぼうの城の真実」ということで高島礼子さんが忍城や石田三成が
忍城水攻めの際に陣をはったと言われる丸墓山古墳などを歩きました。この放映を観て、高島さんの登ったあの階段を登ってみたいと心密かに考えてていました。
と言うのも確かな理由でもあるのですが、石田堤を見たなら当然丸墓山古墳にも行かねばならないということになりますので行ってきました。
ここを古墳と言うことで捉えるなら「国指定史跡 埼玉(さきたま)古墳群」であり、公園としてなら「さきたま古墳公園」となりますが、そんな面倒な使い分けはしないことにしましょう。
何せ、今回の目的は古代史の範疇としての古墳を訪ねるのではなく、戦国時代のひとつの痕跡を訪ねるためのものでした。故に、数ある古墳の中で訪ねたのは、丸墓山古墳ただひとつ。
時間の関係で他の古墳を見たり、さきたま史跡の博物館に寄れなかったことの言い訳でもありますが。
この看板の中にある稲荷山古墳と言えば「金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)」が発見されたことで一躍有名になり、埼玉古墳群の名を広めた要因となりました。
さきたま史跡の博物館の文字の右のものがそれですね。
今回は、さきたま史跡の博物館に寄る時間的余裕がなかったことは上で書きましたが、過去には2度訪館しています。と言っても・・・
まだ「埼玉県立さきたま資料館」の名称の時代のことで、40年前、34年前も昔のことですから行ったうちには入らないでしょうが。
昭和51年の訪館時は、鉄剣(金錯銘鉄剣)自体は発見(昭和43年)になっていましたが、金文字は発見になっておらず、まだ話題にもなっていない時でした。
昭和57年の訪館時は、金文字を発見(昭和53年9月)した後で、金錯銘鉄剣も展示されておりましたが、確かレプリカでした。
横道に逸れてしまいましたので本題に戻しましょう。
先の看板から歩いて3~400m 前方の東屋の左の丘状のものが丸墓山古墳
さきたま古墳公園案内図 ただ見るだけで各古墳等の位置関係や何があるかも全く頭に入れず これでいつも失敗しているにもかかわらず
「史蹟 埼玉村古墳群」の石柱 え! 埼玉村
ここはかつて北足立郡埼玉(さきたま)村であったが、昭和29年(1954)に行田市に編入 埼玉県の地名の発祥地
年季の入った案内板ですね 公園として整備された時の名称が「さきたま風土記の丘」
ここにも石田堤が
ここにも「史蹟 埼玉村古墳群」の石柱 この石柱右側の道路が石田堤跡
見えてきました 丸墓山古墳の上に登る階段が
階段上り口脇の丸墓山古墳の説明板
埼玉古墳群の9基ある阿縣古墳の中で唯一の円墳で日本最大のの円墳 直径105m 高さ約19m
古墳群の中では一番の高さを誇り、石田三成が陣をはるのに選んだのも当然か
いよいよ上がります 高島礼子さんもここを上がって行ったんですね・・・ (また言ってると言わないで下さい 独り言ですから)
階段の途中から見下ろしてみました
やはり階段途中から
登り切りました
こう見ると結構高いです
上はこんな具合ですが この古墳が出来たころはこれほど広くはなかったと思いますが
陣を作るのに削って平らに(削平)しませんでしたか? 治部殿
ここから忍城が見えるようです
例の如く説明板を これなら読めるでしょう
中央あたりに御三階櫓が見えると思いますが
これほどの家がなかったころにはもっとよく見えたでしょうね
稲荷山古墳
将軍山古墳
登ったところと反対側にも階段がありましたのでこちらから降りてみましたが、階段の段数がこちらの方が多いような
こちら側にも丸墓山古墳の説明板が設置されていました 内容は同じですが、場所に合わせて古墳の図面が登って来た時のものとは逆です
陽があたり影が出来ていない分 こちらの方が見やすいかと重複を覚悟で掲載しました
時計回りに古墳の周囲を半周してみました 丁度横側です (どこが正面か知りませんが)
こう見ると階段は緩やかのように見えますが然に非ず
下(平場)から見た稲荷山古墳
やはり下(平場)から見た将軍山古墳
めざせ世界遺産 大分前から運動をやっているようですが、今のところ国の候補からも外れていたと思います。成れるといいですね。
と、以上、古墳群に行ったにもかかわらず他の古墳は見ずに終えてしまいました。石田堤 石田三成の忍城水攻めの陣跡ときたら次は忍城と言うことになりますが
残念ながらその時間がなく、次の機会にと帰陣の途に・・・
散策日:2016(平成28)年11月28日(月)