四季・めぐりめぐりて

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笠間城跡(茨城県笠間市)

2015年03月20日 | 続日本100名城


笠間城(別名:桂城)  山城   茨城県指定史跡   所在地:茨城県笠間市笠間

〔歴史〕
 鎌倉時代、この地域は真言宗の正福寺と徳蔵寺の勢力争いが盛んであり、両寺院の僧兵たちが争っていた。劣勢であった正福寺勢が下野守護宇都宮頼綱に
援軍を求めたところ、頼綱は甥の笠間時朝(塩谷時朝)を派兵した。時朝は元久2年(1205年)、徳蔵寺の僧兵と戦うための拠点として佐白山山麓に麓城を築
城し、徳蔵寺を討った。ところが麓城の規模があまりにも大きかったため、味方のはずの正福寺の僧兵までも時朝に敵対した。時朝は結局正福寺と徳蔵寺を
滅ぼした後、承久元年(1219年、堅固な城を佐白頂上に築城した。これが笠間城の起こりである。その後笠間氏は18代にわたって笠間を治め、南北朝時代の
5代笠間泰朝の時には、南朝に属して勤王の兵を挙げ、北朝の佐竹義春の攻撃を受けたが、籠城戦の末これを撃退している。

 天正18年(1590年)の小田原征伐の際、18代笠間綱家が宗家の宇都宮氏に逆らい後北条氏に組したため、同戦役後宇都宮氏に攻められ滅亡した。その後、
一時宇都宮氏が支配した後蒲生郷成が入城し、この郷成の手により織豊系城郭に改修されたと考えられている。

 慶長5年(1600年)関ヶ原の戦い後には松井松平家が入り、その後小笠原氏が入ったが改易されて、ついで戸田松平家が入り、そして永井氏が入った。そ
の後、外様大名の浅野氏が2代、井上氏が2代、本庄氏が2代、再び井上氏が3代入った後、牧野貞通入城以後廃藩まで牧野氏8代が居城した。






「千人溜り跡」  駐車場になっています。 これより上は通行止めですので、この先は徒歩で↑印のところから。




大手門跡




大手門口は桝形?  舗装されていますが土橋と空堀のようです?




大手門跡石垣




写真に入っていませんが、写真左端の少し左側に石段の道がありますのでそこを登って←↑方向に




苔むした石段の登城路




更に角度を変えて石段が数か所続きます




玄関門付近の虎口の石垣




本丸跡 ① 正面(南側)の大きな土塁上に八幡台櫓が築かれていた




本丸跡 ②




本丸跡 ③




本丸東側にある標柱と縄張り図の看板




縄張り図部分をアップしてみましたが・・・




本丸東側部分




笠間城跡石碑




本丸東側の土塁




八幡台櫓跡石碑




八幡台櫓跡のある土塁




本丸西端の宍ヶ崎櫓跡




本丸と天守曲輪との間にある横堀




東日本大震災により、天守曲輪の石垣や石段が崩壊し、天守曲輪跡へは立入り禁止で、ロープが張られて「立ち入り禁止」の札が下がっている筈。
しかし、なぜか訪問時は「頭上注意」の立札だけでしたが、危険なことに変わりはないので「笠間城天守跡」石碑だけを記念に・・・




「笠間城天主跡」石碑



井戸跡  屋根は少し離れたところに倒れていました




山を下りて「真浄寺」に向かい、移築され仏堂として使われている「八幡台櫓」を見に




八幡台櫓

笠間城は関東では珍しい石垣の城。天守の石垣や石段が東日本大震災により崩れてしまい天守曲輪跡は立ち入り禁止になっているとの情報は掴んでいました。果たして
修復されるのか、修復されるとしてもいつになるか分らない状態で待っていても仕方ありません。笠間城の一番の見どころである天守台の石垣を見られないのは残念でし
たが、逆井城跡を再興上したその足で笠間城跡を訪ねてみました。石倉は怖くて行けませんでしたし、市内の民家に移築されている城門も見ずに帰ってきましたが、
笠間城跡へ行ってきたという事実だけで満足しましょう。

攻城日:2015年(平成27年)3月17日(火) 続日本100名城選定前          

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