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四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

長楽用水路 ②(埼玉県川島町)

2020年08月09日 | まち歩き


『長楽用水路』散策記その②です




前回同様地図に番号を入れて紹介します




地蔵尊から東方へ少し行ったところに架かっている橋の左岸に板碑が見えます (地図⑦)
道路が嵩上げされているので板碑は下3分の1くらいが隠れた状態です  ※左側が上流




『阿弥陀一尊図板碑』のようです




背面を見ると近世に供養塔として再利用されたようで

 天長 享保十一丙午 長楽村 横田茂太夫
梵字 奉納大乗經本朝回國一千部供養所
 地久 三月日  法名権大僧都常楽印勝寛

とあります




京塚樋管  長楽用水路右岸に設置                   (地図⑧)




左岸から京塚樋管の正面を
当然ながら樋管の裏側が堤の向こう側にあるのですが写真は失念




音羽橋  左が上流                          (地図⑨)
右岸の橋のたもと上流・下流両側に庚申塔が建立されている
左岸側・・・川島町大字正直  右岸側・・・大字戸守




上流側の庚申塔(青面金剛)
左側面に 【顧主 戸守村 七人  正直村 三人】とあり 
右側面には建立日があると思われるが判読に難あり




下流側の庚申塔(青面金剛)
右側面に 【安永十辛丑 二月十七日】(1781年)とあり 
左側面 判読に難あり




六地蔵橋と石仏   長楽用水路左岸から                 (地図⑩)
左岸側・・・川島町大字正直  右岸側・・・大字戸守




上流側側面に 【六地蔵橋】 と刻まれている




下流側側面に 【大正十三年十一月竣工】(1924年) と刻まれている




右岸の石仏群  下流から




庚申塔(青面金剛) 【寛政五 癸丑 三月吉日】(1793年) と刻まれている




石橋供養塔 【大乗妙典六十六郡日本廻國橋供養】  宝暦6年(1756年)建立




石幢六地蔵  【正徳四年 甲午講中 ・・・北戸守村】(1714年) と刻まれている




川店(かわだな) 川棚とも                       (地図⑪)                
馬や農具、野菜を洗うために、水路の脇に設けられた場所  
洗濯所に使われることもあったようです




サイクリング道路下の長楽用水路    左側が上流            (地図⑫)
埼玉県道158号・川島こども動物自然公園自転車道線の北側を流れる長楽用水路 
水路の北側は日枝神社の社叢




ここにも分岐点が  左側が上流                  (地図⑫)の付近                  




山王樋管                                (地図⑬)
山王樋管のある場所と日枝神社方向とを行き来できるよう木製の橋が架けられています




黄色の枠の所に『山王樋管』と刻まれた石製の銘板がはめ込まれていますが、この時はゲートの扉
が上がっていて銘板を隠してしまっていました。
堤防の反対側に山王樋管の吐口がありますが、写真は失念




長楽用水路は更に東方に向けて流れ国道254号線の下を通り進んでいきます 上流から




山王樋管のすぐ南側に日枝神社の鳥居があります




日枝神社の鳥居の斜め前にある庚申塔群
右端の庚申塔は 右側面に「文化十二年 乙亥」(1815) 左側面に「三月吉日」と刻まれている

散策日:令和2年(2020)7月16日(木)・19日(日)

長楽用水路 ①(埼玉県川島町)

2020年08月08日 | まち歩き


長楽(ながらく)用水路は、比企郡川島町長楽の都幾川に設けられた長楽堰から取水し、途中でい
くつかに枝分かれし川島町北部を灌漑し、南部には安藤川に水を流し灌漑している。最終的には市
野川に排水される。流路延長は15.4 kmに及ぶ。これらすべてを散策して歩くことは大変なので、
取り敢えずは長楽堰から山王樋管のある日枝神社までを散策してみました。
今でこそ多少のごみが捨てられているものの綺麗な流れになっていますが、タナゴなどの魚が獲れ
ることから釣り人などが捨てたごみが酷く「ドブ川」と呼ばれた時期もあったようです。そんなこ
とからマナーを促す立看板が要所要所に立っています。




散策場所を地図に丸数字で入れてみました。便宜上、番号順に紹介していきますが、2日かけて
回りました。初めの日は何か所か回り損ねましたので、2日目は①から回り直したため大半の場
所は2回回ったことになります。
いつもこんな不経済なことをやっています(恥)
破線の上の部分は東松山市ですから、長楽用水路は東松山市との境付近を流れていることになり
ます。




長楽堰(ながらくせき)  左岸から                   (地図①)
長楽堰は長楽用水(農業用水路)の取水堰
写真の手前の所で都幾川から長楽用水に分水しています
 



長楽用水路の取水点 余分な水は都幾川に戻ります  写真の右手が上流(以下例外を除き同様)
取水堰のここは護岸工事がされていますが、あとは素掘りの水路です




長楽樋管   左岸の堤防上から                    (地図②)
都幾川の左岸堤防に設けられています 元圦(簡単に言うと用水の入り口です)
   



長楽樋管はこの堤防の中を通って堤外水路『長楽用水路』の吐口に(左端のフェンスに囲まれた
ところ)  なお、この写真においては右が下流




長楽樋管(用水の元圦)の吐口   ここが長楽用水路の始点となります

なお、長楽地区は長楽用水の堰元ですが、用水は矢来堰用水(東松山市の都幾川から送水)に依存
しているとのことです。

吐口の下流すぐの所の上で交差している掛樋(水路橋)は矢来用水




長楽樋管吐口のコンクリート壁に埋め込まれている銘板『長楽用水路樋管 昭和43年3月』とある
かつては煉瓦造(1899年竣工)であったものを何度か改修しているようですのでその際の年月か?
 



矢来用水の掛樋(水路橋)の上流側側面
左端の方に 『明治三十五年五月十日新築 比企郡中山村大字長楽』と縦2行に刻まれているとの
ことでズームで撮ったものの陰刻らしきものが写っていませんでした(残念)




矢来用水の掛樋(水路橋)の下流側側面
寄進者でしょうか 何名かの名が刻まれています 『宇津木・・』の名も




始点から見た長楽用水路




長楽用水路左岸の川畔の『地蔵尊』                   (地図③)




長楽用水路からいったん離れて『修堤記念碑』があるという長楽の氷川神社に向かうために地蔵
尊のすぐ下流に架かる橋を渡って




長楽『氷川神社』                           (地図④)
訪ねた日はたまたま氷川神社の祭礼の日でした




鳥居の脇(外側)にある石仏を納めた覆屋  雨風に晒されなくてよいですね




左:庚申塔(青面金剛)            右:三面馬頭観世音菩薩立像?




上述のとおり祭礼日であったことから境内には神輿が出ていましたし、拝殿には獅子頭が二面並べ
てありました。
さて、目的の『修堤記念碑』がどこに建立されているのか分りませんでしたので氏子さんのおひと
りにお聞きしました。
その方は以前は東京にお住まいでこちらに越してきたと言うことで、神社全体についてはまだ精通
してなかったようでわからないとのことでした。しかし、一緒に探してくれ、社殿の右側にある木
の後ろに隠れるように建っていた碑を見つけることが出来ました。




『修堤記念碑』の表側(左)と碑陰(右)
碑文は読める状態ではありませんが大正3年(1914)12月建立したもので、大正2年8月27日の洪水
で都幾川の左岸堤防は長楽地区で4箇所が決壊した。この碑はその修復工事の竣工を記念したもの
のようです。
碑陰には、埼玉県技手(名は省略)・土木技手(名は省略)・地元請負人宇津木松五郎、・工事委
員5名(名は省略)・長楽住民一同と記されてい
る。

 


更に、氏子さんから「神社の由来を書いたものがありますから見ていってください」と社殿に上げ
させていただきました。
これは幣殿入り口の上に架けてある『氷川神社由緒』




読めるように二分割にしてみました
【天文年中より天正にかけて宇津木兵庫之進北條氏政に仕え代官として此の地を支配す】
とあります。
宇津木氏はこのあたりの旧家名士のようです。宇津木・・・どこかで聞いた名だと思いませんか?
そうです。女子ソフトボール日本代表監督をしていた宇津木妙子氏はここの出身なのです。
宇津木兵庫之進の後裔かも知れませんし、そうでなくとも一族の方には間違いないようです。




本殿

更にさらに氏子さんから「堤防に九頭龍が二基あります」と行き方とおおよその位置を教えてくれ
ました。九頭龍大権現の石祠が左岸堤防の早俣橋付近にあるということは予備知識でありましたし、
条件次第で見てくる予定でしたが詳しい場所は分らずにいたものですからこれは大助かりとばかり
堤防に・・・




1基目の『九頭龍大権現』の石祠                 (地図⑤)のあたり
早俣橋の下流にあたります  写真上部に写っているのが早俣橋




表面がだいぶ剥離しています




2基目の『九頭龍大権現』の石祠                 (地図⑥)のあたり
早俣橋の上流にあたります   




こちらは大権現の文字もはっきりと




早俣橋の下あたりの堤防上から『長楽樋管』を

このあと来た道を地蔵尊のある所まで戻り再び長楽用水路の散策を
《長楽用水路 ②》へ続く

散策日:令和2年(2020)7月16日(木)・19日(日)

武将らの銅像(3)

2019年12月16日 | まち歩き
最近は、諸々の事情から遠出ができず、近場の城館跡や史跡を巡っています。そのため、当然のこ
とながら新たな武将らの銅像に会う機会はほとんどなくなりました。
ここ数年では6人の武将の銅像しか会っていません。この先増えるここもないようですから、一旦
ここで区切りの意味で・・・



 齋藤実盛公(さいとう さねもり) 【 天永2年(1111)~寿永2年(1183)】

  所在地:埼玉県熊谷市妻沼 妻沼聖天山   齋藤別当実盛開基の寺    
  撮影日:平成29年(2017)1月22日

平安時代末期の武将
藤原利仁の流れを汲む斎藤則盛(また斎藤実直)の子越前国の出 
武蔵国幡羅郡長井庄(埼玉県妻沼町〔現・熊谷市〕を本拠とし、長井別当と呼ばれる
大蔵合戦において源義賢を討ち取るも、その子駒王丸(のちの木曽義仲)を助けて木曽に送る
寿永2年(1183)加賀国の篠原の戦いで敗北。義仲の部将・手塚光盛によって討ち取られた。




 新田義貞公(にった よしさだ)  【 正安3年(1301)頃~延元3年/建武5年(1338)】 ①

  所在地:群馬県太田市新田市野井町 生品神社   新田義貞挙兵の地    
  撮影日:平成30年(2018)9月19日

鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての御家人・武将
正式な名は源 義貞(みなもと の よしさだ) 河内源氏義国流新田氏本宗家の8代目棟梁
鎌倉幕府を攻撃して事実上滅亡に追い込み、後醍醐天皇による建武新政樹立の立役者の一人




 新田義貞公(にった よしさだ)  【 正安3年(1301)頃~延元3年/建武5年(1338)】 ②

  所在地:群馬県太田市世良田町  太田市立新田荘歴史資料館  
  撮影日:平成30年(2018)9月19日
  



 新田義貞公(にった よしさだ)  【 正安3年(1301)頃~延元3年/建武5年(1338)】 ③

  所在地:東京都府中市科片町2丁目 分倍川原駅前   「分倍河原の戦い」の地  
  撮影日:平成30年(2018)9月5日




 脇屋義助公(わきや よしすけ)  【 嘉元3年(1305)~興国3年/康永元年(1342)】

  所在地:群馬県太田市脇屋 正法寺    脇屋義助の菩提寺   
  撮影日:平成30年(2018)9月23日

鎌倉時代末期から南北朝時代初期の武将
新田朝氏の次男。新田義貞の弟。兄・義貞に従い鎌倉幕府の倒幕に寄与するとともに、兄の死後は
南朝軍の大将の一人として北陸・四国を転戦




 新田義貞公(にった よしさだ)  【 正安3年(1301)頃~延元3年/建武5年(1338)】 左
 脇屋義助公(わきや よしすけ)  【 嘉元3年(1305) ~ 興国3年/康永元年(1342)】 右

  所在地:群馬県太田市東本町 太田駅前広場    
  撮影日:平成30年(2018)10月2日




 太田道灌公(おおた どうかん)  【 永享4年(1432)~文明18年(1486)】

  所在地:埼玉県入間郡越生町龍ヶ谷 龍穏寺    太田道真・道灌ゆかりの寺
  撮影日:平成30年(2018)12月28日

室町時代後期の武将 武蔵守護代・扇谷上杉家の家宰
摂津源氏の流れを汲む太田氏。諱は資長(すけなが)。太田資清(道真)の子で、家宰職を継いで
享徳の乱、長尾景春の乱で活躍。江戸城を築城したことで有名。また、「山吹の里」伝説でも有名




 大石定久公(おおいし さだひさ) 【 延徳3年(1491)~天文18年(1549)】

  所在地:東京都八王子市下柚木 柚木城跡(永林寺)  定久の居館跡
  撮影日:平成28年(2016)12月17日

戦国時代の武将 山内上杉家、後北条氏の家臣 武蔵国守護代 滝山城主
天文15年(1546)、上杉氏が北条氏康に河越城の戦いで大敗し没落すると、主君の上杉憲政を見限
って後北条氏に臣従する。その後、氏康の3男・氏照を娘・比左の婿養子として迎え入れて滝山城と
武蔵守護代の座を譲り、入道して心月斎道俊と号し多摩郡五日市の戸倉城に隠居。

  過去記事   『武将らの銅像』   『武将らの銅像(2)』

令和・万葉集・仙覚律師と小川町 ③

2019年05月03日 | まち歩き
(39)―1


再び町中に戻りました。この春日公園は、かつて比企郡市で唯一の裁判所・小川簡易裁判所があった所です。当
然ながら、小川区検察庁も近くにありました。この簡裁・区検が廃されてから久しくなりますが、現在、比企郡
市に裁判所・検察庁はありません。


(39)―2



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駅通りに戻りました。小川町駅に向かって左側の歩道を進みます。


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埼玉縣信用金庫小川支店の前です。元は小川信用金庫の本店店舗でしたが、経営破たんにより「さいしん」に営
業を全部譲渡して解散。このため「おがしん」の本店店舗であったこの建物は「さいしん」の支店店舗になりま
した。
以前、ここには小川警察署がありました。
なお、「おがしん」の先代の本店店舗の建物は現在他の銀行が使っています。


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小川町駅が目の前に見えてきました。
コインパーキングの経営主体と料金はこの当時のものと変わっています。随分と高くなってしまったようです。


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最終の70基目は、本でいえば編集後記に当たるものでしょう。出発点とした最初のモニュメントとは道路を挟ん
で向き合っています。
「令和」の出典元である巻五「梅花の歌」の序文は、歌ではありませんから、当然と言えば当然ですが、モニュ
メントの中にはありませんでした。

現在では、歌が書かれた部分が無くなったり、汚れが酷くて見るのさえいやなものもあるかも知れません。もし
かしたら新しいものと取り換えてあるかも知れませんし、新元号「令和」の出典が万葉集ということで、関係者
が何か考えているかもしれませんね。「梅花の歌」の序文のモニュメントを追加したりとか・・・

撮影日:平成19年(2007)7月29日(土)・8月12日(土)・14日(月)

令和・万葉集・仙覚律師と小川町 ②

2019年05月02日 | まち歩き
(25)―1


この路地は「北裏」と呼ばれます。土蔵が並んでいますが、これらの商家の表は旧秩父往還に面しており、秩父
往還の北側に位置する裏道であることから北裏と呼ばれます。また、秩父往還の南側の路地は「南裏」と呼ばれ
ています
この「北裏」は明治22年(1889)の町村制の施行に伴い、4村合併により旧の小川町が誕生するまでは小川村と
西大塚村の境界の道でした。


(25)―2



(26)


北裏の通りにあるもう一つの万葉モニュメント


(27)


一旦秩父往還に出ました。この万葉モニュメントのあるすぐそばに、『ファッションセンターしまむら』発祥の
店舗がありました。


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再び路地に入りました。この塀のあるお宅にはいくつもの土蔵があります。
白壁のテープは応急処置だったようで、今は壁が塗られているようです。


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晴雲酒造の工場(倉庫)の前に・・・


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更にもう一つ晴雲酒造の前に


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(※)


仙覚律師遺跡(中城跡)へ向かいます


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仙覚遺跡の石標と万葉モニュメント


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急な坂道を登り切った所に、仙覚律師遺跡(中城跡)の標柱と並んで


(33)-2


ブレブレの写真で恥ずかしい。町中を歩き続けて、更に急坂を上った直後でしたので息切れした状態でした。
また、撮った写真をその都度確認してはいませんでしたので(以上 言い訳)


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続いての写真も同様で・・・


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仙覚律師遺跡碑と万葉モニュメント


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(※)


仙覚律師遺跡碑


(※)


仙覚律師遺跡の説明板

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(37)・(38)


万葉の歌が書かれたモニュメント2基(37)・(38)が見つかりませんでした。中城跡の中に支柱だけになった
ものを1基見つけましたが、(37)か(38)のどちらかのものでしょう。

上がってきた入口とは反対の北側にある道を降りて町中に戻ります   ③に続きます

撮影日:平成19年(2007)7月29日(土)・8月11日(金)・12日(土)

令和・万葉集・仙覚律師と小川町 ①

2019年05月01日 | まち歩き


新しい時代「令和」が始まりました。
「令和」最初の投稿は、新元号と関係深い万葉集にまつわることで・・・

新しい元号であるこの「令和」は日本最古の歌集万葉集を出典としたことにいては今更話すこともないでしょう。
万葉集は漢字だけで書かれており、これを解読したのが仙覚律師であり、仙覚の著作「万葉集注釈」により、今、
こうして読めるようになりました。




歴史講座で仙覚律師についての講義の際に頂いた資料を基に作成してみました。『万葉集』仮名文字がなかった
時代に様々な方法を駆使して漢字で表した難しい表現であったため、平安時代にはすでに読むことが出来なくな
っていました。仙覚は漢字本文の脇にカタカナで訓点を書き記す方法ですべてを読み下しました。この訓点を
「仙覚の新点」と呼びます。


「万葉集注釈」の奥書に、「武蔵国比企郡北方の麻師宇郷の政所」と記されており、このことから比企郡小川町
増尾周辺に仮宿してまとめたと推定されています。
そんな小川町には、万葉の歌のモニュメントが建てられています。建てられたのは平成17年(2005)12月ですが、
この1年8ヶ月後の平成19年(2007)7、8月にこのモニュメントの写真を撮って歩きました。
建てられてから2年弱を経過していたこともあり、汚れがあったり破損で不明のものがあったりしましたが、何と
かこの時の写真を探し出しましたので、「令和」=「万葉集」=「仙覚律師・小川町」ということで。


万葉モニュメントは全部で70基あり、小川町駅前にある割烹二葉支店前からスタートし、仙覚律師遺跡(中城跡)
を経由して再び駅前に戻ってきます。


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割烹二葉支店


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12年も前の写真ですから、街並みの景観も今とは若干違っています。
駅を背にして左側の歩道を進みます。
駅通りに関しては、歩道にある花壇に建てられていますので、すんなり見つけられましたが、駅通りから外れた
らどこにあるのか探すのが大変でした。


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小川町駅入口交差点の少し手前にある山岡鉄舟ゆかりの『割烹二葉』前のモニュメント
鉄舟が名付けた『忠七めし』は、『日本五大名飯』のひとつ

ここから路地に入ります  あとは②に続きます

撮影日:平成19年(2007)8月11日(金)・12日(土)

太田駅前の新田義貞公像(群馬県太田市)

2018年12月13日 | まち歩き


太田駅北口(群馬県太田市東本町)のロータリーに建立されている「新田義貞公像」を見てきました。
銅像は、義貞公だけではなく、義貞公の弟・脇屋義助公の像と一緒です。

昭和63年(1988)に建立され、旧駅前広場にあったものを、太田駅周辺土地区画整備事業に伴い平成21年(2009)
に現在の場所に移転。

銅像の両脇に掲げられている大中黒ののぼり旗は、鎌倉攻めの際に使われ、現在は市内の新田神社に伝わるものを、神社の協力
を得て、『新田義貞顕彰会』が、白地と太く黒い線の比率を忠実に再現し縮小して作製したものと言います。




立っているのは新田義貞公とわかりますが、片膝をついているのは、どこにも書かれていませんが弟の脇屋義助公と云われます。
主人と従者のような像です  兄弟でありながらも、嫡流と庶流ではこのように主従関係になってしまうのがこの時代

背後に「SUBARU」の建物が見えます。「SUBARU」(元・富士重工業)といえば、新田氏と並ぶ太田市の代名詞
私が車に乗り始めた最初の2台はスバル車で、東京・練馬のディラーから購入しました・・・関係ない話か




同上




凛々しい義貞公




義助公は、新田郷脇屋に分家したことから「脇屋」を名乗りました。
義貞公に従い鎌倉幕府の倒幕に寄与するとともに、義貞の死後は兄に代わり新田一族を率いて南朝軍の大将の一人として北陸・
四国を転戦しましたが、伊予国府(現在の愛媛県今治市)で病死してしまいました。享年38。




後ろ姿も  




台座の銘板

  新 田 義 貞 公
鎌倉時代末期~南北朝時代初期の郷士の武将。清和源氏新田氏嫡流、元弘3年(1333)生品神社で挙兵。鎌倉幕府を倒し
建武新政の中核となり、武者所頭人・左近衛中将に任じられる。延元3年(1338)越前藤島の戦いで壮絶な最後を遂げた。
御年38歳。公の御霊は太田市金龍寺・新田神社にまつられている。この像は公の没後650年と太田市制40周年を記念し
て郷士ゆかりの人びとの浄財を得て新田義貞公銅像建設委員会により建立された。
 昭和63年(1988)5月3日
太田駅周辺土地区画整備事業に伴い旧駅前広場より現在の場所へ移転された。
 平成21年(2009)12月18日 太田市

散策日:平成30年(2018)10月2日(火)

小江戸川越散歩

2017年04月03日 | まち歩き


昨2日(日)、小江戸川越をちょっとだけ散歩してきました。
ほんとは3月25日(土)の小江戸川越春まつりのオープニングに行く予定だったのですが、諸々の都合で行けませんでしたので。




特別なイベントこそありませんでしたが小江戸川越春まつりの期間中です。沢山の観光客が繰り出していました。
川越と言えばこの蔵造りの町並み(一番街) 明治の大火の教訓で建てられた店蔵(見世蔵)ですが、江戸期のものと思っている方が多いようで・・・




この長い行列は、「ねこまんま焼きおにぎり」を買うために並んでいる人たちです。店の前だけではありません。
店舗内をぐるっと回って再び外にですからさすがに今回は諦めました。
この乾物屋さんが「ねこまんま焼きおにぎり」を始めたころは簡単に買えたのですが、今ではすっかり有名になってしまいましたので・・・




「菓子屋横丁」  ここも大勢の観光客が。やはり行列を作っている店ばかり・・・










「蓮馨寺」の桜   昨年は喜多院の桜を観ましたので今年はこちらで
蓮馨寺の寺紋は「三つ葉葵」と「三つ鱗」です。その理由は門前の案内板の中に書かれています




クレアモール商店街にある公園の桜です

歩きたいところはいっぱいありましたが、ここを歩いただけでも精一杯でした。

散策日:2017年(平成29年)4月2日(日)

関東灘

2016年10月29日 | まち歩き
「武蔵の小京都」と呼ばれる小川町。その小川町は「関東灘」の異名ももっています。埼玉県には現在35の蔵元があるそうですが、うち3軒の蔵元が
埼玉の片田舎と言われるこの小川町にあります。3軒という数は、多いのか少ないのかは微妙ですが、決して少ない数字ではないと思います。
本日の散歩で、そんな町内3軒の蔵元を回ってみました。酒類は余程のことがない限り飲まないし、飲んでもほんの少量の私ですから、
清酒を購入するためでも、酒蔵見学でもなく、単に写真を撮るためだけの目的でした。下の3枚が本日撮った蔵元の写真です。




武蔵鶴  武蔵鶴酒造株式会社  創業 1819年(文政2年)




帝松  松岡醸造株式会社  創業 1851年(嘉永4年)




晴雲  晴雲酒造株式会社  創業 1902年(明治35年)

と、以上3つの蔵元が現在あるわけですが、実はもう二軒造り酒屋がありました。




もう二軒のうちのひとつ
力石(ちからいし)  株式会社細川商店  創業 1899年(明治32年) ※ 日本酒醸造は明治38年から

20数年前に大型酒類専門店、所謂お酒のディスカウントストアに変わりましたが、その後は通販でのみ「力石」を販売していたようです。
しかし、そのディスカウントストアもなくなり、現在はその跡地に ※屋※兵衛 なるファミレスがあります。
この写真は、力石こと細川商店のあったすぐそば(前と言ってもよいかもしれませんが)の街路灯につけられた看板ですが、つい最近気づきました。
「清酒 力石」で検索しますとまだホームページが残っていますが、いつ廃業したのかまでは分りません(廃業していないかもしれませんが)
冒頭で述べたよう埼玉県には現在35の蔵元がありますが、この35の中に力石・細川商店の名はありませんのでやはり廃業(あるいは転業)したのでしょうね。
 
そしてもう一軒は
菊泉  滝澤酒造株式会社  創業 1863年(文久3年)
で、現在の小川町で創業しましたが1900年(明治33年)深谷市に店舗を移しています。
このように全部で五軒の蔵元があったわけですが、株式会社細川商店が日本酒の醸造を開始したのは、滝澤酒造が深谷市に移転した後のことですので、
同時に五軒の蔵元があったということはなく、
1900年までは  ●武蔵鶴 武蔵鶴酒造  ●帝松 松岡醸造  ●晴雲 晴雲酒造  ●菊泉 滝澤酒造  の4軒の蔵元
1905年からは  ●武蔵鶴 武蔵鶴酒造  ●帝松 松岡醸造  ●晴雲 晴雲酒造  ●力石 細川商店  の4軒の蔵元 です
小川町には、そう遠くない昔には蔵元は4つもあったということを書きたかったばかりに、現存する3つの蔵元を回ってきたわけでして・・・

散策日:2016年(平成28年)10月29日(土)

風薫る五月

2015年05月06日 | まち歩き


風薫る五月。ゴールデンウィーク中の1日くらいは行楽まがいのことをしてみようと、昨5日、定番中の定番で荒川を遡って景勝地長瀞までと計画。




まずは長瀞の下流寄居町にある「かわはく(埼玉県立川の博物館)」へ 展望台からの眺めはさすがです




噴水も大水車相手ではかすんでしまいます




鉄砲堰の実演
山間のV字谷に堰を造って大量の水をため、人為的に鉄砲水を起こして材木を下流に流し送る
かつては中津川の本流と支流で行われていたようです




レトロな長瀞駅の駅舎と今では珍しい丸型ポスト(郵便差出箱1号)
実は長瀞を通り越してC市の名物***丼を食べてから長瀞に戻ると計画していましたが、***丼について電話で
確認したところすでに供給分以上の客が来ていて無理とのことでしたので諦めて「かわはく」から長瀞に直行した次第




***丼はダメでしたので長瀞で目星をつけていた蕎麦屋さんに行ったら行列。ここはというところはほとんど同様でし
たのでやはり行列のできていた別の蕎麦屋さんへ。列の後ろ数人の所で「本日閉店」の看板を出すほどの混みようです。
店外で待って更に店内で待ってやっと食べた野菜天そば。山盛りの天ぷらも写真を撮るのを忘れてしまった。
そばのあとは天然氷のかき氷を。天然氷の蔵元まで行っても相当混んでいることは容易に想像できましたので、
同じ天然氷を使っているお店に。ここも行列でやはり蕎麦屋さんと同じく「本日閉店」の看板がやはり出されました。

注文したのは「抹茶小倉かき氷」。あまりの量に食べきれませんでした。




岩畳に行こうと長瀞駅横の踏切に向かうと付近には人がいっぱい。SLが間もなく来るとのことでした。鉄ちゃんでは
ありませんがまあ一種の群集心理でカメラを構えちゃいました。でも、場所が悪かったものですから(本当は腕が悪い)
ヘッドマークは鯉のぼりと、こどものひ・2015.5.5の日付入り



河原へ降りる石段の所で地元の観光ボランティアと思われる男性が大きな声をあげてツアーの団体客に「長瀞」についての
説明をしていました。天然記念物と名勝に指定されていること、更に、長い瀞なので長瀞と呼ばれるといったようなことを。
でも「瀞」についての説明はなかったような気がします。これでは分ったような分らないような説明ですね。




ラフティングボートでしょうか?




自身がライン下りを体験したのは何年前のことになるだろう

散策日:2015年(平成27年)5月5日(火)