本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

ブーバー「Ich und Du」

2024-08-30 20:01:13 | 十地経

ブーバーということを

ネットで見ると

何か、アニメのキャラクター

が出てきます。

最近では哲学用語とか

そういうことに関する言葉が

よく、キャラクターの名前

として出てきます。

「メメントモリ」もそうです。

しかし、ブーバーという人は

(1978~1965)ユダヤ人の

哲学者で、『我と汝』という

言葉で有名です。

また、

Ich und Du (イッヒ ウント ドゥ)

という言葉も、歌の名前としても

有名なようです。

 

「我と汝」(Ich und du)

ブーバーといいう人は

ユダヤ人でありながらも

イスラエルとアラブの和解 

のために生涯を捧げ、

両方の民族から尊敬された

平和の哲学者です。

アインシュタインをはじめ

多くの偉人から共感を得た

ことでも有名です。

 

講義では

「それから『我と汝』という

ことも今日ではよくはやる

言葉ですけど、

非常に注意せんならんのは

ブーバーで有名なんですけど

ブーバーでは Du 、汝と、

神も永遠の汝ですね。

汝の神と汝の隣人を愛せよ

というのが、キリスト教の

ゲボート(Gebot)〔戒律〕

を代表する言葉なんです。

つまり、

神の勅命ですね。

それを圧縮した言葉なんです

 

汝の誠を尽くし、

汝の心を尽くして神と

汝の隣人を愛せよ、

こういうんです。

 

その神は永遠の汝だし、

それから隣人は相対的な汝なんだ

どっちも汝というんだ。

神も汝というんだ。

 

仏教はそういうこと言わんだろう

と思うですね。

阿弥陀仏を汝といったことは

ないです。

彼という字で表すんですけど。

彼の如来と。

汝如来ということでは

表さないですね。

彼の如来という具合にいいます

 

仏教では人間がですね、

そういう法に対して汝といわず

むしろ法の方が人間に汝と

いうんです。

これは非常に違う点です。

 

キリスト教の方では

人間の方が神や隣人に対して

汝というんですけど、

仏教では法の方が人間に対して

汝というんです。

汝という呼びかけによって

我を賜るんです。

我という自覚を。

 

つまり仏教では

人間が神を証明するんじゃない。

神によって人間が証明される

んだ、汝と。

神に証明された自分をもって、

逆に神を証明していくわけです。

こういうのが仏教なんです。

 

だから昔は、言葉はなかった

ですけど、

汝というのと仁者と同じ。

つまりその釈迦が我々に対して

釈迦は先輩ですね、

釈尊が我々に

ナンジ、この道を往けと、

こういう時のナンジは仁者という

言葉で表すんです、

往けというのは。

 

ドイツ語で同じ汝でも、

Du という言葉を使う場合と

Sie(ズイ‐)という言葉を使う

場合とあるんです、区別して。

Sie の方は尊敬をもっとる、

尊敬をもっとるということは

よそよそしいんです。

 

だから神なんかは、

Sie とはいわんです。

やっぱり Du といってる。

自分の愛人も Du という。

Sie というようなことは、

やっぱり何か、

尊敬を表すんであってね、

何かそこに

よそよそしさがある。」

 

ドイツ語も難しいですが

日本語も難しい点があります

「汝」という言葉も

辞書をみると、

自分と同等かそれ以下の者

に対して使うと、

あります、が

聖書では

「汝の敵を愛せよ」とあるし

ソクラテスは

「汝自身を知れ」といい、

また経典では釈尊は

弟子に対して汝と呼びかけて

おられます。

 

自分より以下の者という

よりもこういう

経典や聖書では

親しみを込めて「汝」と

呼びかけておられるようです。

神も汝だし、愛人も汝という

ことは、

どちらも他人事ではない

身近なことと言うのでしょう。

面白いところです。

 

 

 

 

 

 

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