本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

人は見たいと思うものだけ見る

2021-02-18 20:22:26 | 住職の活動日記

見ているようで見ていない

聞いているようで聞いていない

心ここにあらずで

本当に見ようとしないと

目に飛び込んでこないし

聞こうと本気で聞かなければ

聞こえてこないものです。

 

というのも

ちょっと気になったことがあって

掃除をしていたら

柱にいやというほど

肩をぶつけてしまい

それも骨が折れたかと思うほど

痛い!、とさすりながら

雑巾がけしていると

今度は、横の桟で

頭を挙げた拍子に

これまたこぶが出来るほど

ぶつけてしまいました。

 

何でこうなるのと ?

調べてみると、

見る力と空間認識力という

ことが出てきて、

年とともにそういう力が

落ちてくるということです。

例えば、

よろつくとかふらふらするとか

そういうのは

筋力低下もあるけど

そういう見る力、空間認識力の

低下ということもあるようです。

 

そういえば、

どうも最近見えにくい

眼鏡が合わなくなってきたのかと

ということで眼科へ行くと

左右の視力の違いで

片方ずつ見ると見えにくい

しかし両眼で見ると

まあまあ見えている

左右の見え方を頭の中で

調整しているということです。

 

そういえば、

『般若心経』にあるように

眼耳鼻舌身意というのは

眼根は目は見るという働き

目が見るのではなく

眼球ガンキュウ(眼根ゲンコン)は

見るという働きです

それを見るのは

眼識・耳識・鼻識・舌識・身識

意識という心です。

 

目から入った情報が

目の意識によって処理され

その情報を判断して

身識に伝え身体が動くという

その一連の行為が

うまくいかないとぶつかったり

ぶつけたりと痛い目にあうのです

 

そういわれてみると

人間の体はよくできています。

そのときに

ここに柱があるぞ! と

よく見ていなかったら

ボーッと見ていたのでは

ぶつかるということになるのです

空間認識力を鍛え

見ようとする意識を確かに

持たなかったら

今日のような出来事に

なってしまいます。

痛い目にあうわけです。

 

「ボーっと生きてんじゃねーよ」

と誰かさんに叱られそうですが、

人は妙なもので

例えば商店街とか歩いていて

人によっては

レストランが気にかかり

また、花屋さんが気になったり

酒屋さんが気にかかったり、と

人それぞれ

今の自分の興味に合わせて

ものを見ているということに

なります。

ですから、興味の無いものは

見ていても見えていない

ということになります。

 

本当に

心してよく見聞きしなければ

いけないのだと

つくづく思い知らされました。

後日談があって、

その話を家内にしていたら

「あなたは昔からですよ!」

と、一言です。

やはり、

ボーッと生きてきたのか?

 

 

 

 

 

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宗教問題とは

2021-02-17 20:10:55 | 十地経

宗教問題というと、なにか

分かったようで分からない

信仰が足りんとか

もっとお参りしなければとか

あるでしょうが、

本当は、自分が問題になる

ということでしょう。

いろいろなことは

知識としてわかっても

肝心の自分自身はというと

誰も教えてくれないし

ただ一人考えても分からない

ものです。

 

講義ではそのことを、

「宗教問題は最初は本能として

あるんでしょう。

前に言ったように、

何か気にかかる。

一番大事なものを忘れとるような

気がするんです。

それは欺けない。

それだから忙しくするんです。

だから忙しくするのは

それはもがきなんです。

自己欺瞞なんです。

問うに落ちず語るに落ちる

といってね、

忙しくしとるということが

何も人から批判されて

ごまかしたというんじゃない、

忙しくしているということは、

実は、

ごまかしを告白していること

でしょう。

 

だから、そういう意味からいえば

非常に普遍的なんじゃないか

人間が宗教的存在として

成り立つということは。

宗教という概念が、

答えとして見るならば、

まあ神とかなんとかもってこんと

宗教にならんように思うから、

それは、

答えとしての宗教であって、

宗教という概念は問なんです。

本来の自己を失った人間が、

自己を回復しようという

要求なんです。」

 

忙しい、ということも

よく口癖のように出てきますが

以前は家内にとって

家庭を第一に考えていると

子どもと遊んで欲しいとか

家のあれをして欲しいとか

いろいろあると思います。

ところが、

忙しい、の一言で

何も言えなくなったようです。

その、「忙しい」を

一刀両断したのは三浦先生です

熊本に帰りお寺も軌道に乗り

そんな折電話がかかってきて

お葬式や法事で忙しくしてます、

というと、

「何を呑気なこと言っとるか」

と檄が飛んできました。

職業坊主ではなかろう

坊主になった第一の仕事は

本当の自分を見つけるためだろう

何の為に坊主になったのか。

と、

まあ厳しい言葉を頂きました。

ついつい忘れてしまうところです

 

それから講義はさらに、

「霊魂というのが

魂じゃないんであって、

願が魂でしょう、人間の。

だから、願というのは

どういうものかというと、

無上というでしょう。

無上ということをよく言うのは

究竟クキョウですね。

この上はないんですから。

だからその願というのは、

究竟的関心やね、

気にかかることです。

究竟的関心なんです、

この願というのは。

それが人間の魂や。

人間には究竟的な関心という

ものが … 。

非究竟的な関心もあるんです

経済の関心とか、幸福の関心とか

知識の関心とか。

いろいろ関心はあるけど、

究竟的関心ね、

そういうものが

根底にあるわけでしょう。」

 

というように出てきます。

究竟(くきょう)というのは

至上絶対の究極を表し最上級を

形容する語。

例えば、最極無上の真理を仏という

形で示して、究竟法身クギョウホッシン

といい、

仏教の至高最終の目的である

大般涅槃ダイハツネハンのことを

究竟涅槃クギョウネハンという。

というように辞書には出ています。

 

また、ティリッヒという方は

アルティメイトコンサーンと

究極的関心というように

いわれています。

いろいろ関心はありますが

最終的に何に関心があるか

ということを考えていけば

やはり人として生まれて

自分自身が分からない

本当の自分自身を知らないで

死んでいくことほど

悲しくさびしいことはないと

思います。

 

 

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人間の本来のあり方が求道という形をとる

2021-02-16 20:10:51 | 十地経

人間のあり方というものを

みて見ると、

ということで講義をみて見ると

 

「分別に立って悩んでおる衆生か

あるいは染められた、

自分の我執に染められた、

自分自身を失って生きとる人間か

あるいは自分を回復して生きとる

人間か、

というのが一番具体的な

人間のあり方でしょう。」

 

ということがでてきます。

悩んでいるか、

我執によって自分を失って

生きているか、

または自分を回復して

生きているかという

三つに分けられています。

悩んでいるのはまだしも

我執ということによって

自分を失っているということすら

分からなく生きているのが

私たちのようです。

 

そこで、普通に考えると

仏法とか信仰とかいってる人間は

特別な特殊な人間と

思ってしまいます。

 

「仏教を求めるだの、

種智院大学は小さい学校ですが、

小さいのはそれは特殊だからと、

社会人とかそういうのが一般の

人間であって、

坊主になるというのは、

特殊な人間だとか、

こういう具合になる。

もっといえば、

そういう考えからいうと、

宗教というものは非常に特殊な

もんだと、

こういうようになるんじゃないか

 

そういわれても仕方がない面も

あるんです。

宗教が特殊なんじゃない、

特殊化された宗教になっとるから

今は。

世間離れのした、

人間に関係のない

宗教になっとるから、

だからしてそう見られるように

なったこともやむを得んけど、

しかし、

宗教そのものが特殊なんでは

ないんです。

 

宗教というものが

別にあるわけじゃない、

宗教という言葉が、

キリスト教から出た言葉ですから

宗教は答えじゃないんだ、

問なんだ、問題なんです。

宗教という問題、

それは、

自己を失った自己を

回復しようという要求や。

そういう問題が宗教や。

 

そういうのが道を求めるとか、

いうんですが、

求道心、

だから求道という場合は

特殊な人間じゃないんだ。

人間がね、

一番ね、真面目になった場合や。

人間が本来の自分の位置を

見出した場合の人間のあり方が

求道なんです。

 

変わった風変わりな

人間なんじゃない、

それが本来なんだ。

それが変わっとると思うほど

皆が変わっとるんだ。

思う方が変わっとるんだ。」

 

というように出てきます。

ふと思うと、

「勉強会」などと称して

仏教の勉強をしているのですが

傍から見ると何と暇人の

たわごとのように見えるでしょう

もっと金儲けの話とか

役に立つ話をしたらどうか

と言われるかもしえません。

しかし、

このような講義の話を

聞いてみると、

やはりそうではなく、

人間が一番真面目になった場合

そういうことが

本当の人間のあり方なんだ

ということが改めて

思い知らされます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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『お蚕さんから糸と綿と』

2021-02-15 20:44:50 | 住職の活動日記

この本を知ったのは

京都新聞の「凡語」の欄に

紹介してあったからです。

早速取り寄せて見てみると、

蚕とか絹ということは知っていて

なんとなく糸の作り方とかは

分かっていたつもりでしたが

読んでみると

驚くことばかりでした。

 

 

写真家・大西暢夫さんの

4年かけて追った労作です。

 

思い出すのは

子供の頃、

母と一緒に整理していた時

たぶん、曾祖父が使っていた

大島の帯、

一見すると普通なのですが

ひっくり返すと裏は

丁寧に修理されたあとが

継ぎ接ぎして柄を合わすように

補修されているのです。

「昔の人はこうやって

大事にしたのよね!」と

言っていました。

 

そういえば

私が今もっている衣は

祖父の晋亮法印のもので

とてもしっかりした正絹です

それを洗い張りして染め直し

仕立て直したものです。

というのは

今ごろの正絹は外国産が多く

日本のものは値段も高く

数も少ないものです。

ざっと考えても百年以上は

経っているものです。

大切に使えばさらに数十年は

使える代物です。

 

この本を読みながら思い出すのは

修行中に寒さに震えていると

ご信徒の方が

これを背中に貼りなさい

と頂いたのが真綿です。

背中がジーンと暖かくなり

何という優れものと

そっと衣と白衣の間に忍ばせて

寒さを逃れたものでした。

修行も後半戦になると

寒さも揺るぎ、

真綿も必要なくなり

捨ててしまいました。

 

ところが、この本を読むまで

真綿と木綿の綿の違いを

知らなかったのです。

蚕からとった綿を真綿

綿花から出来ている綿を木綿

というのです。

「真綿だからね!」と

念を押されて

頂いたのを思い出します。

 

蚕も養蚕業の方は

「お蚕さん」や「お蚕様」と

大切に呼んでおられます。

そして数を数えるのも

一匹二匹ではなく

一頭二頭と牛や馬と同じように

数えます。

それほど大切に養い育てて

おられるのです。

 

今では養蚕の人は少なくなり

この本で紹介されている

ところも滋賀県と岐阜県の県境

金糞岳(カナクソダケ)標高1317m

から流れ出る草野川の麓の集落の

1軒だけだそうです。

 

絹というのは

シルクロードともいわれる

道があるように

西洋の人にとっても大変貴重な

品物だったのです。

木綿や麻しかない時

あのシルクの肌触りと光沢は

何とも言えない品だったのでしょう

ナイロンが出来てからは

それに代わってしまい

養蚕をやる方も少なくなった

ということでしょう。

昔、デパートに行くと

ストッキングの修理を目の前で

やっている光景を目にしました

それが何だかその時は分からず

物珍しさにジッと見ていた

という記憶があります。

 

そういう名残でしょうか

管長さんが就任されたりすると

お祝いに絹の反物を差し上げた

ものです。

絹というのは

お金にも匹敵するほどの

値打ちある品物だったのでしょう。

 

今は何でも使い捨ての時代

形が古くなったり

飽きが来てしまうと断捨離宜しく

惜しげもなく捨ててしまいます。

文中にも、

 

「糸や綿が、命あるものから

生まれてくるということを

ぼくは忘れかけていた。」

 

とあります。

2,5㎏の布団一枚作るだけで

1万頭のお蚕さんを全部使う

ことになるということです。

今は真綿の布団は

あまり見かけませんが

1万頭の命の上に寝ている

と考えると勿体ないような、

また、着物1着で3千頭もの

お蚕さんが必要ということです。

 

昔の人は着物にしても綿にしても

全部いのちから出来ている

ということを知っていたのです

単なる着物ではなく

命から頂いたものという

そこから古びた着物でも

大切にされてきたのでしょう。

 

とても感慨深いものがありました

 

 

 

 

 

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二障の根底には二執がある

2021-02-14 20:37:26 | 十地経

「障」というのは、さわり

ということで、

さとりにいたるみちを

さまたげるということです

そして「執」は、

固執するとか執着するなど

それに執して離さないという

ことです。

 

何かの見出しで、

70になって捨てること

80になって捨てること

というようなことが出ていました

断捨離です。

なかなか捨てられなくて

増えていくばかりですが、

 

執について辞書には

事物や理を固執して離さない妄執

迷執、執着をいう。

とあります。

物については物理的に

今いる場所におれなくなり

仕方なしに捨てなければいけない

時がやってきます。

しかし、理という

心の問題は何ともしがたく

今まで何十年と生きてきた

考え方の執着は捨てきれません

俺はこうやって生きてきたんだ

というような妙な自負みたいな

ものがあって

これに対する固執は凄まじい

ものがあります。

 

講義では

「衆生の執を破るということに

なるのです。

だから二障の根底には二執がある

わけです、二執がね。

衆生執と法執と、

執というものが根底となって

障りというものが成り立っている。

人間が障サえたんじゃい、

自分の固執によって

自分が障サえられとると、

こうう意味です。

 

執というのは、

自分の考えなんです。

あるものは衆生であろうが

諸法であろうが、

諸法の法性であろうが、

とにかく自分の考えたものが

諸法そのものだと考えるわけです

考えたものがあるんもんだと

考えるわけです。

考えたものは

考えたものに過ぎんです。

 

だから我々が本当に分かっとる

というものが実は分からん。

我々が初めからそういうもんだと

思ってあることが実は分からん

我々が初めから、

そういうもんだと思っておること

が実は考えたもんだ。

だから本当の存在というものは

考える以前にあるわけです。」

 

自分の思いというのは

妙なもので

本当の話を聞いていないくせに

勝手な自分の思い込みで

これはこういうもんだと

思い込んでしまうのです。

 

それで、辞書には

五蘊が仮に和合するところに

人等の衆生を仮設ケセツする

ということを知らないで、

実我があると妄執するのを

人執、我執、生執(衆生執)

という。

と出ています。

 

昔の歌に、

「引き寄せて結べば草の庵にて

解くれば元の野原なりけり」

ということがあります。

家というものが最初から

あるのではなく、

草でもって結べばちょっとした

家になり、

草がほどけてしまえばもとの

草原に帰ってしまうという。

人というのも

最初からこうあるのではなく

五蘊(色受想行識)が

仮に集まっているもので

五蘊が解ければもとのものに

なってしまうという。

 

そういえば、一休さんの歌に

「借用申す昨月昨日

 返済申す今月今日

 借り置きし五つのもを

 四つ返し

 本来空に今ぞもとづく」

というのがあったようです。

 

私たちの体というものは

お借りしたもので何も執着する

ものではないということです。

 

自分に対する固執

そして、自分の考えた事に

対する固執

この二つの固執が

なかなかとれないということです。

 

そこで、そういう固執が

障りのもと、妨げになっている

ということです。

 

※「障」ということも

さわりと読みますし、また

文中では「障える」と出てきて

「さえる」というように読みます。

二障ということは

煩悩障と所知障ショチショウです。

 

 

 

 

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十牛(じゅうぎゅう)

2021-02-13 20:29:33 | 住職の活動日記

十牛の譬えということがあって

よく禅宗の方で

言われるようですが、

人間の本当の心というか

人間の中に潜んでいる本心

そういうものを尋ねていく道程を

「牛」に喩えたのです。

 

「牛」という生き物は

インドでは特に大切にされ

町の中でも至るところ

牛さんが歩いています

ですからインドでは

ビーフカレーはないという

ことのようです。

 

お釈迦さまの姓は

ゴータマ・シッダールタといい

ゴータマとは優れた牛という

ことを意味しています。

 

「十牛」でいう牛とは

私たちの本心を表しています。

1.尋牛-自己の本心である

     牛を尋ね

2.見跡-足跡を見つけ

3.見牛-牛を見出し

4.得牛-牛を捉え

5.放牛-牛をならし

6.騎牛帰家-牛に乗って

  無為のさとりの世界である

  我が家へ帰り

7.忘牛存人-もう牛が逃げ出す

  心配がないので牛のことなど 

  忘れて安んじ

8.人牛倶忘-更に人も牛も

  本来空であることをさとり

9.返本還源-花は紅、柳は緑

  というありのままの世界を

  さとり

10.入鄽垂手ニッテンスイシュ

  衆生を救うために町に出る

 

という十段階です。

 

権と実ということがありましたが

実ということは真実で

真実の真の反対は偽ということで

偽はにせものということです

「真の仏弟子」とは

ということがあって、

よく、討論したものです。

最初、

おまえは偽りの弟子ではないか

ということを師匠から言われ

ショックでしたが

よくよく考えてみれば

真の仏弟子どころか

酒は飲むし、肉も喰らう

挙句の果て妻帯して子供まで

ということを考えてみれば 

当に偽りの弟子なのです。

 

お釈迦さまも

さとりを開かれたから聖人として 

仏になられたのですが

あのまま、地位や名誉や位

妻子まで捨てて出家の修行者で

あれば、

普通から見ればひどい話です。

一切の責任を放棄されたのですから

十牛どころの話ではありません。

 

さとりを開かれたということは

このような十牛という道筋を

見出されたということです。  

誰でもが歩める道を見出した

ということですが

自分の立場というものを

真の仏弟子とみるのか

偽りの仏弟子とみるのか 

ということがあります。

 

俺は真の仏弟子だと

威張って言えるような

ものではなく

偽りの仏弟子でありながら

ゆくりなくも加えられた

というところに

毎日唱える

「懺悔文」サンゲモンの

重みがあるように思います。

でないと

自分自身が偉いもんになった

という大きな誤解をしてしまい

本当の道は見つからないように

思いますし、

また、地位や位や金に目が眩み

道を外れてしまいます。

 

十牛ということも

よくよく見ればなかなか

奥が深いものがあります。

 

 

                                                

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権ゴンと実ジツ

2021-02-12 20:39:26 | 十地経

「実」ということも

仏教辞典では、権・実と

対句として出てきます。

仏教にはよくあることで

一つの言葉だけでは説明できず

対の語句として説明してあります

例えば、

差別シャベツと平等、とか

共グウと不共フグウという具合に

そこで、この「実」という語も

権と実というように出てきます。

 

この権ゴンという字も

普通には権ケンと読みます

権力とか権威とか

圧倒的にケンと読むほうが

多いのですが

仏教読みになるとゴンとなります。

 

よく使う言葉では

権現ゴンゲンとか権大僧正とか

権宮司などがあります。

 

仏教辞典によると

権とは、一時的なかりそめの

てだてとして設けたものあり、

実とは、真実不磨の意で、

永久に変わることのない、

究極的なまことのものをいう

というように出てきます。

 

また、

「権」という字もその成り立ちは

面白く、

もとは、黄色い花の木ということ

そこから、秤の分銅の意味になり

分銅は軽重を支配するものである

というところから権威とか権勢

という意味が出てきました。

そしてもっぱら、

もとの意味は離れて権力という

ちから、という意味になりました。

そこから、さらに、

かりそめ、正に対する副の意味で

権現とか権禰宜というような

言葉が生まれたようです。

 

東照大権現というような

徳川家康のことを呼ぶように

人々を導くために

かりの姿をとったということで

このような名称になったのです。

 

もどって、

権と実ということは対称的に

権教・実教、権智・実智、

権人・実人などと対語として

用います。

 

実教は、自らのさとりのままを

うちあけた究極的な根本の教えで

権経は、他の人を実教へ導くための

てだてとして設けられたもので

導く人が実教へ至れば廃止される

教えということです。

ですから、よくお経の中では

「権実」ということが出てきます。

 

実には、真実と事実という

に二面があるというように

先生は説いておられますが

それは、

実の中に権と実があるということで

そいう二面性を説かれたと思います

権と実というように

実だけでも説けないし

権だけでも一面しか見てない

ということで、

権実というように

切っても切り離せない言葉を

対語として仏教では述べている

ように思います。

 

 

 

 

 

 

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「実」は実に面白い

2021-02-11 20:09:24 | 十地経

実という字は古くは實と書き

その成り立ちは、

ウ冠と貝そしてその間に周が

入った字です。

家の中に財宝がみちるという意味

そこからみちる、まこと、じつ

というよな意味が出てきます。

 

講義にも出てきますが

実には真実という意味もあれば

実存という意味もあり

実体という言葉もあります

実用とか実践哲学というなど

事実そこにあるようなことに

なるようです。

 

講義では、

「それで

実ということが出てきます。

この実というのは、

真実という意味じゃないんだ。

実、それは対治する実を、

実に性だと思っているものを

破る、という意味ですね。

無生だと破るわけです、

実に、

実の性があるという考えを

対治して、

無生とこういうんだと。

実という意味は真実という意味

じゃないんだ。

実体という意味ですね。

言葉というのは制限されておって

実というのは

真実という場合もあるけど、

また、真実の正反対をいう

場合もあるわけです、

えらい概念だね。

 

実体でしょうね、

固定して考えること、だから、

ものを固定して考えることが

実なんです。

実とするというのは、

固定することでしょう。

つまりいってみれば、

存在を考えるとでしょ。

考えた存在とすることが

これが実体化じゃないかね。

 

あるものをあるが如く見ずに、

あるものを考えて、

考えたものがあるもんだという

立場じゃないか。

それは、

何も存在そのものじゃないんだ。

考えた存在だと。

実というのは考えること、

考えが実体化するんですから、

考えた存在なんです。

それを存在そのものだと

誤ってとるだけでです。

 

それで誤っとるということを

知れば、

知るということが対治です。

そういうように、

実というものを考えるのに、

七つの場合があるというんです。

それで七つを立てる。

我々が実と、実体化するものに

七つあると。

それで七つの事ということを

ここに立てるんだと。」

 

というように述べておられます。

 

参考までに、七つのとは

経典に「四種の無生」が出てきて

事無生・自性無生・

数差別無生・作業差別無生

その中、事無生が七つに別れ

一切本来無生・無成・無相・無出

不失・無蓋・不行

ということです。

 

こういう話が

行きつ戻りつしながら

言葉としては飛び飛びに

出てくるので

一応別に書いておかないと

その構成を忘れてしまいます。

 

実体化ということも

私たちの身に付いた悪い癖

というのでしょうか

見えるものは在るもの、だと

見えないものは無いものだと

決めつけてかかるようで

見えなくてもあるという

あればそれを形あるもの

実体化して考えてしまう。

 

例えば霊ということも

霊があるというとどこにあるのか

お盆の時とか

お寺さんは棚経で家にお参りし

私たちはお墓へお参りする

ご先祖さんの霊はどちらに

お見えなのでしょうかと、

 

今の人は霊という言葉に

そう言う言葉があれば

そういうものが形てしてあると

考えてしまいます。

昔の人は

歌にもあるように

 

「仏は常にいませども

現ウツツならぬぞあわれなる

人の音せぬ暁に

ほのかに夢に見えたもう」

 

というような、

あるかないかというような

そういう実体化して考える

考え方を破るというのが

一つの対治というような

智慧のはたらきなのでしょう。

 

実というのも

真実の実もあれば

実体化して固定的に考える

実もある

その両極端を持った字のようです

 

 

 

 

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人間を病人ととらえている

2021-02-10 20:37:59 | 十地経

お釈迦さまの最初の説法、

初転法輪において説かれた内容は

四諦(四聖諦)といわれています。

苦聖諦・集聖諦・滅聖諦・道聖諦で

苦集滅道クジュウメツドウと略して

いわれています。

これは一つにはインドの医学で

病人を見る方法ということです。

そういうことについて

講義では、

 

「間違った考え方、

間違った固執を破るという意味が

対治なんです。

真理に照らして妄執を破る

わけなんです。

転倒しとる、

せしめとるものを破ると。

一つの病気なんです。

僕は今でもフロイトという人を

非常におもしろいと思うんです。

何故かというと、

深いことは別としてですね、

人間が病人だととらえたことが

非常におもしろいと思うんです。

 

けどそれは医学というものです

けども。

人間は胃袋が悪いといっても

胃袋だけ病んでいるいるものは

おらんのであって、

胃袋を病むことによって

自分自身を病んどるわけです。

わしが死んだら

子供はどうなるかといって、

自分の胃袋に関して、

子供まで心配しとるです。

 

だけど、

あらゆる病気は、そういう、

一つのノイローゼとか、精神病、

精神という字を使うけど、

心理です。

精神分析という具合に翻訳しとる

プシコ・アナリーゼというん

だから心理分析です。

病的心理の分析です。

 

そうすれば、

苦悩ということが

病状なんだろうと思います。

人間は苦悩して生きとる

ということが病状なんだと。

その原因があるわけです。

原因といえば因縁があるわけです

苦悩して、苦悩たらしめている

因縁があるわけです。

 

それが四聖諦、苦集滅道の

第二番の集ですね。

苦をして苦たらしめている因縁

があるわけです。

それから今度は滅というのは、

なおったという意味です。

 

なおったという意味にも

いろいろあるですね。

どういうのがなおったかと。

僕は結核をやって、

結核にかかってましたけど、

まあ僕は外科手術しなかったんで

そしたらね、

退院してもいいと。

あなたの状態は、臨床医学上

なおったという意味ですと。

えらい念押しとるんや。

徹底した意味で

なおったというんじゃない、

臨床医学の上でなおったと、

こういう意味でね。

病巣はまだ残っているんだから

ただ封じ込めたんだね。

だから臨床学としては、

それで完結したと。

こういう具合に、なおる

ということもいろいろあるね。

 

だからして、

幸福になったのが

なおるんでもないしね。

痛い病気がなおったといっても

また病気という思いがあったら

なおらんのじゃないかね。

病気という思いがあればまた、

いつ痛くなるか分からん。

痛いのはなおったけど、

いつかまた病気になるかも知らん

という思いでまた病気になる。

 

だからして、

病気というものがあるわけじゃ

ないでしょう、仏教からいえば。

因縁から、病気という

一つの状態が、因縁によって

成り立っておるわけなんです。

病気自体があるというもんじゃ

ないでしょ。

一つの状態の上に立てた名前に

すぎんです。

病気そのものというものが

別にあるもんじゃない。

そういうものが今いった無生

なんです。

だからまあ滅ということを

はっきりしなきゃならん。

それから最後に道諦ということ。

これは薬や。

病気の原因を知り、

また治った状態と比較して

最後に、それによって、

薬を与えると。」

 

というように述べておられます

普通は元気に生きている人を

病人とは見ないでしょう。

ところが苦悩するということから

みれば、

いくら元気そうにしていても

それは悩みを抱えた病人という

ことになるのでしょう。

 

お釈迦さまの目から見れば

苦悩することなく

元気に飛び回っているっ人ほど

危ないのであって、

暗く悩んでいる人の方が

かえって正しいのかもしれません

しかし、

そこには「明るく悩め」

ということを言われましたが、

暗いということは

自分自身の殻に閉じこもって

沈んでいるのでしょう。

 

今日のところも面白い問題です。

 

 

 

 

 

 

 

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立春「大吉山」へ

2021-02-09 20:10:27 | 住職の活動日記

立春が過ぎてはや1週間、

京都新聞の「天眼」に

「ヘンな奴ら」と題する記事

歌人で科学者の永田和宏先生が

よく歩かれるようで

東海道五三次を歩いておられる

また、北大路から京都駅まで、で

ちょうど1万歩だそうです。

その記事を読んで

思い立つように近くの大吉山へ

 

 

宇治橋を渡り、

そこから見上げると

 

 

向かいの小高い山が大吉山

標高132m

 

 

宇治上神社の鳥居をくぐり

 

 

神社へは外から参拝して

左手の道を進む

 

 

すると緩やかな上り坂になって

今日は風が冷たく

これ位では体がまだ温まらない

 

 

上がっていくと

美しい木々の林が左右に広がる

こういう時期誰もいないかと

思いきや

よく似た年恰好の人とすれ違う

「こんにちわ」

と挨拶しながら

たぶん、日課のように登られて

いる様子です

約20分ほどで山頂へ

 

 

ここの展望台からの景色

正面には「平等院」が見え

 

右に眼をやると

 

 

宇治橋が見えます

ここには色々の人が見えるようで

野鳥を観察する人

腰は曲がっていてもゆっくりと

一歩一歩登られる方

顔なじみの方もいらっしゃるようで

 

 

展望台のところには

ペットボトルを改良した

鳥たちの水飲みが設けてあります

展望台から先にすすむと

 

 

仏徳山(大吉山)の表示

階段を上がると

 

 

ここが山頂のようです

 

 

三等三角点の石碑が見えます

この頂上からさらに道があって

迂回するように続いています

 

 

もとの場所へ続くと思い

進んで行くと

どうも違う方向へ

進んでいるようで

間違っても低い山だし

戻ればいいかと

 

 

道は階段になって

段々と下りていく

たぶん興聖寺へ繋がっている

のではと思い

 

 

進むと

林の間から

お寺の甍のようなものが

見えてくる、一安心

 

 

標識が出てきたので

左の方向は笠取山

醍醐寺のある方向です

足を鍛えたら行ってみたい

ところです

しかし、道をよくく見ると

きれいに整備されている

やはり人通りも多いのでしょう

 

 

途中には、

ここから先へは行けません

の表示、この先は関西電力の

敷地のようです

お寺の裏手に出てきます

迂回するように回ると

 

 

立派な山門があります

 

 

道元が開いた日本最初の曹洞宗の

お寺になります

 

 

右に掲げてある表札が

このお寺の正式名称でしょう

 

 

またここは紅葉の名所で

秋には全山真っ赤に染まります

ここを出ると

正面には宇治川の流れが見えます

宇治川に沿って歩いていくと

 

 

先程の発電所からの水の出口が

見えてきます

 

 

水の勢いは激しく

電気を作っている水ということが

実感できる気がします

その勢いのある水辺に

 

 

鳥たちが楽しむかのように

流れに身を任せたり

逆らって登ったりと

遊んでいるようにも見えますが

本当は餌を求めて必死なのかも

しれません

 

 

この川が一つの関所であるように

流れは急なものがあります

南から来たら

この川を渡らなければ都へは

入れない一つの関門です

 

 

この寒いなか鳥たちは

流されたり潜ったりと

 

 

忙しそうです

 

 

鵜もいます

この鳥たちの様子を見ていると

なんだかおもしろくもあり

時が経つのを

忘れてしまいそうです。

 

しかし、

右足の甲の部分に少しの痛み

しかしながらこれでやっと

1万歩を超えたところです

先程の永田先生は

「週に4回は1万歩」

を目標とされているそうですが

運動不足の私には

いきなりの1万歩は堪えました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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