熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。
意外な発見だったというか
私が知らないだけだったのです。
書写している時
横超オウチョウと竪超ケンチョウ
という字が出てきて
竪の字はてっきり堅と思っていた
のです。
気になり、なぜ堅いという字を
(たて)という意味があるのか
と、調べてみると
堅と似ているけれど
よく見れば下は土ではなく立に
なっています。
竪 ジュと読みたてという意味が
あります。
詳しくは豎と書き下が豆を書き
豆の部の字になります
竪は俗字ということですが
もっぱらこの方を使うようです。
竪穴タテアナ式住居とか
竪坑タテコウと、あまり
なじみがないかも知れませんが
炭坑の縦に掘る穴のことです。
ただ、たてというだけでなく
「横のものをたてにする」
という意味があります。
これも書いてみなければ
わからないことです。
竪超というのはたてに超える
ということで
簡単には修行して段々に煩悩を
克服してさとりに近づいていく
ということで、
普通修行というとこの竪超のこと
になります。
ところが、横超ということが
出てきました。
横ざまに超える。
横という字はあまりいい意味では
使わないようです。
横着とか、横車を押すとか
横領するなどがあり
横という字の意味にはよこしま
ということもあり、
ただ、いい意味では横綱という
言葉があります。
本来は横に対する言葉は縦です
縦横無尽という熟語もあります
ところが仏教では
横に対する言葉として竪を
使っています。
『十地経講義』では、
「木を倒す場合に上の方から
倒さんでしょう。
根のところから倒すでしょう。
ああいうようなところから
横という字が出てくると思います
竪に割り切るんじゃない
横に切るんですね。
竹を割るように竪にスカッと
切ってしまうんじゃなしに
横から切る。
つまり根から切ってしまう
というわけです。
竪の方は結果が目的になるんじゃ
ないですか。
現在あるものからイデアールな
もの、理想的なものを考えて、
理想的なものに向かって
現実を超えていくんでしょう
それで竪になる。
そうじゃないんであって
むしろ現実の根を切ってしまう
こういうところに
横という字が出てくるわけです
根底を切ってしまう。
いってみりゃ
埋没している人間を凡夫と、
凡夫を超えて行くというのが
これが竪ですわ。
そういうことよりむしろ
凡夫にかえっていくと。
一体その凡夫というのは
何が凡夫かと。
凡夫を、上の方に超えていくと
いうんじゃなしに、
むしろ凡夫になっていくと。
向上していくんでなしに
下向していくというような
そういう一つの道が
横超というんじゃないかと
思うんですけど。」
と、難しい問題というか
こういう考え方もあるのですが
ある面納得できるものを感じます
上へ上へといっても
そうできるものではありません
そのことで安田先生はドイツ語の
ウンターゲーエンと沈むと
太陽が沈むという場合この言葉を
使うようですが、
似た言葉では、
理解するというunderstand
分けて考えれば下under
に立つstandとなりますので
下に立って考えると
人も理解できるのでは、
そういう言葉もあるようです。
単に縦横といっても
竪横もあるし、経緯という場合も
経糸緯糸タテイトヨコイトということも
あります。
その事を私たち人間にあてはめて
考えるとまた
深い意味が生まれてくるようです
これは鳩と鷹の物語なのですが
鷹に追われた鳩が行者(シビ王)
のところへ逃げ込んだ。
行者はその鳩を助けようとする。
すると、
追いかけてきた鷹が
行者に向かって、
「あなたは鳩をたすけて、
よいことをしたと思っているかも
しれないが、
それならば、
鳩を食べなければ死んでしまう
私の命はどうしてくれるのか。
鳩の命をたすけるということは、
この私の命を殺すという
ことなのだ。
それはどうなるのだ」と、
こうせまった。
それで行者は非常に困って、
妥協案を出した。
「それでは仕方がない。
鳩と同じ重さだけの私の肉を
おまえにやろう」と。
小さな軽い鳩ですから、まあ、
どこの肉を削るにしても、
そうたいして削らずともよい
と思って、
自分の肉を削りとって、
はかりにのせてゆくわけです。
けれどもいくらのせても
鳩とつり合わない。
鳩の方が重いのです。
最後に、行者がその全身を
投げ出したときに初めて、
はかりがつり合ったという、
そういう物語なのですが、
なかなか考えさせられる問題です
どんな命であろうと、
そのいのちそのものにとって
かけがえがない。
どんな小さな命であっても、
その命そのものにとっては
全世界と同じ重さの命を
もっているわけです。
どんなちっぽけなものであろうと
命の重さは平等です。
命の重さは等しい。
虫の命は小さくて、
人間の命は重いと、
そういうわけにはいかない。
いつも唱える「十善戒」の
第一番目は「不殺生戒」です
何気なく唱えていますが
よく考えればここで
まずつまづきます。
食べるということは
他の命を頂く、食べるわけです
他の命を殺生するわけです。
では、食べないというと
それでは自分が死んでしまい
自分を殺生してしまうことに
なります。
いずれにしても殺生を
してしまいます。
食べれば他を殺生するし
食べなければ自分を殺生する
という大きな矛盾です。
ですがそんなんことは
まず考えなく
美味しくいただいています
反対に、
人間だけが、
食べらるということはありません
私たちはあらゆる命、
生き物を自分の食としている
わけです。
この大きな矛盾を抱えて生きている
というのが、私たちの生きてる
という現実なのです。
誰もそんなことは考えずに
生きていますが
「不殺生戒」を誓っている
私たちにとっては
常に考えなければいけない
問題のように思います。
いろいろ屁理屈をつけて
食べるのが当たり前のように
思っている人もいますが
動物は食べられるためにある
とか、食べられてこそ
成仏できるのだとか、
動物の目を見ると
決してそうではない
悲しそうな目をしています。
育てた牛を出荷される
「今日はおとなしく
車に乗ってくれた。」
と、育てた方も寂しそうな
顔をしておられました。
どんな生き物でも生きたい
という意欲というか
生きようとしてあるものが
命なのです。
解決の道はないようです
せめてもの償いに
生きるという意味を見出す
命の意味を見出すという
そいうことを考え続けること
しか私たちにはできないようです
「懺悔」と書いて、
読み方は二つあります。
普通には「ザンゲ」と読み
仏教では「サンゲ」と濁らない
読み方です。
漢和辞典には
懺は・くいる、
みずからあやまちをくいて
告白し改める。
悔は・自分のあやまち(過)を
知る。くやむ。
広辞苑には、
「キリスト教で、罪悪を自覚し
これを告白し悔い改めること」
と出ています。
ですから主にキリスト教とか
普通には濁ってザンゲといいます
仏教辞典ではもう少し厳密で
クシャマという印度の言葉を
音写して懺摩サンマとなり懺悔と
面白いことにたまたまか
似た意味の漢字を当てたのか
懺悔サンゲとなったのです。
意味は忍という意味で、
罪をゆるして忍ぶようにと
他人に請うこと。とあり、
悔は追悔、悔過ケカの意味です。
懺と悔は詳しくは
懺はゆるしを乞う(意味が軽い)
悔は他の者に自己の罪を
申し述べて罪を除く説罪のことで
(意味は重い)
というように出ていますが、
お釈迦さまもこのことはとても
大切にされ、安居の後の自恣に
自分の罪を告白するということを
されていました。
今はあまり見かけませんが
毎月15日は「布薩会」フサツエ
といって懺悔をするお勤めが
半月ごとに行われていました。
布薩もインドの言葉で
ウポーシャダを音写したものです
説戒とも訳されています。
今でも東寺では15日には
行われています。
なかなか珍しいお勤めで
お参りの方もお坊さんも
一緒になって懺悔し戒を受ける
というもので、
座ってお参りするだけではなく
香水で浄めたり、
人数を数える棒を授かったりと
参加型のお勤めです。
辞書とかには
自分の罪を告白して悔い改めたら
罪が軽くなりまた免罪されると
ありますが、
「忍」という言葉にも訳される
ようにしのぶというだけでなく
忍は認識の認で深い認識という
よく知るというだけに止まらず
犯した罪ということを
ずっと心に抱いていくという
その事を常に忘れず(憶念不忘)
その自覚の深さを言うのでしょう
今、大津の歴史博物館でも
「六道絵」の全幅の公開があり
そこにもすごい顔をした閻魔様が
いらっしゃいます。
しかし、
他(閻魔大王)が裁くのではなく
自分が自分を裁く
どんなに嘘ついても
その嘘を一番先に聞いているのも
自分の耳であるし、
その嘘を聞いて覚えているのも
自分の頭だということです。
辞書には簡単に「忍」という
ことで出ていましたが
自分自身で思い知るという
認識があるのです。
そういえば奈良の「お水取り」も
悔過といいますから
松明の方が有名になっていますが
本来は十一面観音の前で懺悔する
というのが
お勤めの本来の意味のようです。
どうにもならないことを
どうにかしたいというのが
私たちの考えですが、
『十地経講義』では
「我々の主観でどうにもならん
ものを真理というわけです。
それからどうにもならんものが
現実ですね。
どうにもならんものを
どうにかしていこうという場合
にはですね、
どうにかならんものを
やめるわけにはいかん。
どうにかしたいけど
どうにもならん場合には、
どうにかしようということを
変えるより仕方ないですね。
真理を思い通りにしたり
現実を思い通りにするわけには
いかんでしょう。
思い通りにしようという主体を
変えていくより仕方ないですわね。
問題ができない場合には
できない方を変えなきゃならん
ですわね。
問題を変えるというわけには
いかんでしょう。」
この言葉ですが
ページの中ではほんの数行
なのです
他にも重要なことが
たくさん出てくるのですが
何かしらこのことが気になりました
ふと三浦先生のことを
思い出したのです。
この頃、東寺にしろ洛南高校でも
色々の難題を抱えておられました
このことを安田先生も
直接は言葉にされませんでしたが
重々承知されていたようで
折に触れて何かしら問題解決の
糸口を
経典という教えに照らしながら
話されていたように思います。
ですから、この話の前には
矛盾と対立という
たとえて見たら真理と現実
という問題です。
こういう矛盾するものを
総合するのが原理という、
このことを仏教では願と
願という言葉がその原理を
表しているわけです。
という話が出てきます。
話は分かる
けれども現実はそうではない
ということが
こういう聞法をしていて
悩むところです。
道理、原理としては
そうなのですが
現実はそのようになっていない
その時でしたか
東寺の中でよくはやっていた
言葉に
「絶対矛盾の自己同一」
という西田幾多郎さんの
言葉でしたか、があり
よく意味も分からないまま
言われたものでした。
この世の中は絶対の矛盾だろうと
現実を変えるわけにもいかないし
まして話される真理は
なおさらのこと
変えることは出来ない
そこで、
ただ一つ変えることのできるもの
それは自分自身ではないか。
ということで
常に話題になっていたように
思います。
不思議なことに
こうやって読み書きしていると
今の年を忘れ、あの当時のことが
ありありと目に浮かんできます。
講義とその当時の三浦先生のこと
が重なってくるのは
語られる仏道とそれを実践される
人との絶妙のやりとりのように
思われてきます。
『十地経講義』のなかで
よく出てくる言葉の一つに
ユーバァ・メンシュという
ことがあり、ニーチェの言葉で
「超人」と訳されます。
ユーヴァという言葉は
身近なところでは
「ウバァーイーツ」という
『今夜私が頂くのは』という
フレーズで、黒柳徹子さんや
錦織圭選手がコマーシャルに見る
あの「ウバー」と同じです。
英語ではオーバー over です
人によってはOverManとも
Superman(スパーマン)とも
Beyonnd-Manとも訳され
Überは上の方にとか
…の向こう側とか、…を超えて
という意味になります。
よく安田先生は
菩薩ということを超人Übermensch
というニーチェの言葉を使って
説明されています。
仏教といっても人間の問題
もっとさかのぼれば生の問題
そういう問題に答えているのが
『十地経』に出てくる菩薩の問題
というように説明されています。
菩薩という言葉は
菩提薩埵(ぼだいさった)
菩提を持った薩埵(衆生)、
目覚める可能性を持った衆生
そして、菩薩摩訶薩ともいわれ
摩訶薩-大いなる人という意味です
そのことを
このように言われておられます
「大いなる人、これは
ファウストやツァラトゥストラに
相通ずるものがあると思います。
それ自身、人間であると同時に
人間を背負って立つというような
むしろ人間の担い手ですね。
そういう意味においては
英雄というような言葉も
今日では階級的に英雄という
言葉もありますけど、
そういう英雄というような言葉
ではまだね、
菩薩にはならんと思いますよ。」
というように、
菩薩ということも
覚有情とも言いますが
具体的には人類の問題を
背負って立つ人ということで、
そういう意味で
ウバーメンシュという超人
人間でありながら人間を超えた
人間とは違う別ものになった
ということではなく
また、人間の延長線上に出てくる
人間というのでもなく、
そこには一線を画する
人間でありつつ人間を超えた
というような
迷いの人間を翻して
人間の問題に目覚めたという
大いなる人というのは
人類の問題に目覚めた
人類の問題を背負って立つという
個人の問題ではないので
「大いなる」という言葉が
でてくるのでしょう。
ただ、個人が迷って苦しんで
目覚めたというのであれば
声聞・縁覚ということで
済む話なのです。
そこに菩薩という問題が出てくる
ところに個人を超えた
人類の問題として
それを背負って立つという
『十地経』の道程があるように
思うのです。
大といえば小ということもあって
大乗小乗とかいうこともあり
講義は新たな展開をしていきます。
「善もせず悪も作らず
死ぬる身は
地蔵も誉めず閻魔叱らず」
という、
これは式亭三馬の辞世の句と
いわれています。
死んでから初七日(しょなぬか)、
二七日(ふたなぬか)と過ぎて
35日目五七日(いつなぬか)が
閻魔様の前へ行く
といわれています。
そこには浄玻璃鏡があって
自分の行いをすべて映し出される
ということです。
閻魔様と地蔵菩薩は
裏表のような関係で
閻魔様の本地が地蔵菩薩と
閻魔様は仮の姿として
私たちに怖い顔しておられますが
その本当の姿は地蔵菩薩と
いうのです。
閻魔というのはYamaヤマという
インドの言葉を音写したもので
その当てた字に魔という字が
入っているため何かしら
恐いイメージを持ってしまいます
閻という字は顔かたちの美しい
という意味もあるのですが
閻魔という漢字がどうもいけません
恐ろしいという感じを植え付けて
しまいました。
ヤマ(閻魔)という意味は
縛(罪人を捕縛する)
双世(苦楽の二つの世)
平等(裁くのに偏らない)
という意味なのです。
閻魔様の右に少し隠れていますが
二つの顔があります
檀拏幢(だんだどう)という
柔和な女相(左)と
赤い顔した忿怒の男相です
裁きを受ける時重罪であれば
忿怒の男相が口から火を噴き
善行であれば女相の口から
良い香りが漂ってくる
そいうこともあるようですが、
仏教で大事な点は
閻魔様が裁くのではなく
裁くのは自分自身である
ということです
ある面からいえば他に裁かれる
というのはまだ軽いような
自分が自分を裁くという
これほど重いことはないようです
宗教ということを考えるとき
「罪」ということを
どのようにとらえるかで
その宗教の深さが分かるように
思います
祓って浄めてそれで済むような
ことであれば、そういう宗教は
まだ未熟だとも言えます。
あるお坊さんですが
「自分は天地神明に懸けて
一切の罪などない」と
堂々と自負しておられる方も
いらっしゃいましたが
自分の罪をどのように受止めるか
そこに宗教心も深まってくる
ように思うのです。
覚鑁カクバン上人の言葉に
「我等懺悔す無始よりこのかた
妄想に纏われて衆罪を作る」
ということがあります
無明という妄想から
知らず知らずのうちに
あらゆる罪を犯してきてるのです
だからといって懺悔サンゲして
罪が消えるわけではありません。
初七日から忌明けの49日間
色々の仏さまや十王といわれる
閻魔様に代表される方々の
裁きがあるわけですが
それは裁くというより
自分自身に罪を自覚させる
その49日間だと思います。
深い罪の自覚こそが
罪から解放されるただ一つの
方法のように思います。
式亭三馬のように
誉められもせず叱られもせず
行けたら一番いいのでしょうが
十善戒にもあるように
不殺生・不偸盗・不邪淫と
どれ一つ取ってみても
必ず犯してきているのです。
地獄絵図というものがありますが
それを見ていると
それほどのことをしておいて
ただで済むわけはないようです
そういう面から見ても
宗教ということの深さを
考えさせられます。
昨日訪れた「龍谷ミュージアム」
ここには感動する壁画があって
ベゼクリク石窟15号窟の
回廊癖画が復元してあります。
こういう本物と寸分変わらぬ姿に
再現してあります
ここのスペースは写真撮影OK
ということです
石窟の回廊ですから
かなり狭い空間なのです
そのなかに
こういう図柄があります
よく見ると下の方に
身を投げ出し、自分の髪を
髻を解いて足元に差し出しています
この立っておられる仏さまは
燃灯仏ネントウブツと呼ばれ
お釈迦さまの前世の物語で
お釈迦さまが儒童梵士ジュドウボンシ
と呼ばれて修行していたころ
この梵士は未来において必ず
仏になるであろうと
予言した方です。
仏さまが街にやって来る
というので町の人々は
水たまりに土を入れたりして
きれいにしていたのですが
間に合わなくて
そこに儒童梵士が着ていた
鹿皮の衣を脱いで水溜まりを
覆い足りないところに自分の髪を
敷いて、
「仏よ、どうぞ弟子方と共に
私の背中を踏んで通り給え」
と言って、
衆生無辺誓願度の大願を誓った
(すべての人々を必ず仏にする
という誓い)
仏は、
この儒童梵士の殊勝な願いを知り
「儒童よ、御身は必ず
遠き未来において能仁如来
(ノウニンニョライ・釈尊の別名)
となるであろう」
と、未来に成仏する約束を
されたという物語です。
今の私たちでは考えられない
出来事ですが
こういう自分の身を投げ打って
供養するという
出来ないことながら
見るたびにハッとさせられる
壁画なのです。
心に深く刻まれた物語です。
そういうこともあって
あえてこの壁画を選ばれて
復元されたのだと思います。
龍谷ミュージアムでは
閻魔さまの展示会が開催中
西大路七条にある「正法寺」
通称「七条えんま堂」の仏さまを
中心に地獄にいらっしゃるという
仏さま方がお待ち受けされて
います。
中でもやはり閻魔大王のお姿は
迫力があります
十王という仏さまは
亡くなってから私たちの罪を
裁くという十人の方々
初七日に始まり三回忌までの
十人です
閻魔様は五七日(イツナヌカ)
35日目に登場されます。
そういう亡くなってから
私たちが旅するであろう世界を
丁寧に仏像を交えながら
説明してあります。
美しい綺麗な仏さまの展示会は
よくあるのですが
見たくない、行きたくない
地獄の世界を表した展示会は
珍しいようです。
外は雨、急に寒くなり
11月の気候というようです
地獄めぐりをした後
雨に打たれて座るカエルさん
ホッとする姿でした。
雨に打たれる庭は
ひときわ美しいようです。
そこから岡崎にある
「泉屋博古館」センオクハクコカンへ
ここは住友コレクションを
蔵している博物館です
とても美しい博物館で
場所といい建物といい
とても落ち着いたくつろげる
雰囲気を醸し出しています。
ここでは
「瑞獣伝来」という展示会
仏教にも関係が深い
龍・鳳凰・虎などがどのように
私たちに身近な存在としての
関りを取り上げてあります
こちらが鳳凰の姿です。
この展示会もなかなか面白い
今まで取り上げられなかった
こういう想像上の生き物たちを
テーマにしたのは興味深い
ところです。
弘法大師空海にも縁が深い
「善女龍王」という龍神様も
いらっしゃいますし、
また、亀が経典を運んだという
背中に仏頂尊称陀羅尼を乗せた
龜も登場します
「九頭龍九鈷杵」クズリュウクコショ
という仏具もあったり、
梵鐘の頭に付いている金具は
龍頭リュウズといいます
(これは腕時計のねじを巻く
竜頭リュウズと同じです)
四神相応(シジンソウオウ)といえば
東に青竜、西に白虎、南に朱雀
北に玄武の四つの瑞獣で
この地相に合った土地が京都の
都です。
私たちには見ることが
出来ないかもしれませんが
想像上とはいえ
誰かがどこかで感得した生き物
目には見えないけれど
どこかで秘かに私たちを
見守っているのかもしれません。
建物美しさも
気分が落ち着く雰囲気を
つくり出しています。
「人間像」「人間学」
そして「修道的人間」という
ことも感動した言葉です。
ちょうど、第21巻目に入り
この言葉が出てきました。
講義は昭和53年5月30日に
おこなわれたものです。
「仏教の伝統は非常に長い伝統を
もっていて、突然出てくる
ものじゃないですけど、
菩薩というようなことをいっても
分からんかも知らんですが、
現代の我々として
どういう意味をもってるかと
いえばですね、
仏教というものが
与える人間像なんです。
つまり人間像であり、
また人間学なんです。
人間像の方は経典が代表するし
人間学の方は論が代表する。
人間というものを
どのような形で明らかにするか、
人間ということは共通課題ですから
これはやっぱり
現代の問題にもなるわけです。」
仏といっても菩薩といっても
人間を理解する上での
一つのあり方だと思います
仏とか菩薩が別に存在する
わけでもなく
そういう位、仏という位
菩薩という位、人間という位
になるわけです。
このことはある面ではショックを
受けた言葉だったのです。
講義ではその後
人間学ということが使われたのは
フォイエルバッハからで
そのあとフロイト、
それからウェーバーとか
マルクスという人も
人間の歴史的社会的存在という
ことを明らかにしていると、
述べておられ、
この人間学ということを
仏教だけにとどまらず
西洋からの見方も交えて
展開していきます。
また、先生の著書で
『人間像と人間学』
という本があって
とても感動したのです。
少し紹介します
「仏教において人間といわれる
ものは、修道的人間と考えられる
それ故、
人間を表す仏教の言葉で、
如来、阿羅漢、菩薩、凡夫等と
いわれるのは、すべて
修道的人間の位に
ほかならぬのである。
凡夫から出発して如来に至る、
その間に無数の衆生がある
というよりも、
衆生における無数の位がある
のである。
凡夫とは、人間でありつつ
しかも人間に背いているという
人間の非本来的な在り方を示す
ものである。
しかし、そういうことも
修道的人間を考えなくては
成立たない。
修道的人間を離れれば
凡夫ということすらない。
またそれ故、
人間には凡夫を自覚することに
よって、
凡夫を翻して本来の自己に
帰っていくということがある
のである。
その方向において
菩薩とか如来とかの名前が
立てられるわけである。
かかる名前をもって人間の位を
あらわすところに、
その人間観が修道的なものである
ことが示されている。」
と、本の最初から
結論的なことが述べられています
これは余談ですが、
確か先生のお弟子さんの話ですが
本を買う場合
最初に出てくる内容に
感動しなかったら買わない方が
いいと言っておられました
良い本は最初から結論が出ている
ということです
そういえば、
お経も最初に結論が出てきます
般若心経も最初に
このお経の結論、主題が述べられ
それから順にその次第はと
説かれていきます。
何回読み直しても
読むたびにピシッと背筋に
一本線が通るような
背筋を正して読まなければと
そういう緊張感が走ります。
人間像と人間学
人間像は「経」であり
人間学は「論」であるという
こういう立場で
『十地経』を読んでいかれる
このことはずっと
講義全体を通して貫かれている
ように思います。
「蝸牛」 カギュウとも、
かたつむりとも読みますが
『十地経講義』を書き写し始めて
やっと20巻が終わったところで
残すところあと10巻
というところです。
私の場合、
何のために書き写すとか
誰かのために書き写すという
ことではなく
最初は、
感動した言葉を手帳に書き写して
いたのですが
どうしても言葉足らずというか
前後の関係もあり
いっそのこと全部写してしまえ
ということで
書き写し出したのです。
ところが書き写し始めると
今まで気が付かなかった
ことが読めるようになり
書いてみると目で読むのとは
違った理解の仕方があるように
思えてきました。
特に私の場合は理解力が弱い
ということもあって
目で読んだだけでは
どうも頭に入ってこなくて
書いてみてやっとなんとか
言葉が目に飛び込んでくるような
ことなのです。
ちょうど、20巻目の終わりに
「あとがき」があって
そこに
「蝸牛の歩みにも似て中々進まぬ
焦りを、一語一音をも納得できる
まで聞き分けようとする
パートナーに窘タシナめられ、
第八地も四冊目に入った。」
という言葉があって、
私にも同じことを感じたのです。
しかし、
先生の声を文字にするという
これは大変な作業だったと思います
何回も何回も聞き直し
それを言葉にしていく
そこには仏教用語もあり、また
ドイツ語、ギリシャ語もありで
それをカタカナと言語で表す
それも週1回という時間で
成し遂げられたことは
玄奘三蔵が経典を翻訳された
作業に似たようなことを感じます
私にとって書き写すだけなので
それから思うと何の苦労も
ないのですが
書き写していて感じるのは
同じような発音の言葉
文字になればなんてことは
ないのですが声から文字にされた
そのことに大きな驚きを覚えます
書き写しながら
分かっていそうな言葉でも
あらためて辞書を引きなおすと
そこに新たな発見があるのです
私にとってはそこも醍醐味の一つ
なのです。
ですから
私の歩みも蝸牛の歩みなのですが
全部書き写すことができないかも
しれませんが
まあそういう方向を持ったことが
私にとっては宝物なのです
何時辿り着くかは分かりませんが
歩みを止めずにいれば
全部書き写すことができるかも
しれません。
もし書き写せたら
また、第1巻から写し始めたら
いいのではないかと思います
私にとっては読むことは
書き写すことなのです。
時折
先生の講義の場面を
思い出すことは更にうれしい
ことでもあります。
「蝸」という字には
小さいという意味もあるようで
蝸牛盧カギュウロといえば
蝸牛のような小さい家という
ことです
蝸角の争い、は
とるにたらない小さい争い
ということです
また、好きな句に
「かたつむり
どこで死んでも我が家かな」
というのがあります。
そして「蝸牛」というのは
私にぴったりなようで
何かに使いたいような
そのような言葉です。