本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

必栗託仡那(ひつりったきつな)

2020-10-21 20:30:00 | 十地経

何とも難しい聞きなれない言葉

ですが、訳すと「凡夫」という

ことになります

お経には訳さずに音写した言葉で

出てくることがあります

それが、

「必栗託仡那」ヒツリッタキツナ

ということです。

インドの言葉では

prithag-jana

プリタグ・ジャナを

必栗託仡那と音写したのです。

直訳すると「異生」イショウ

となります。

 

弘法大師は『十住心論』で

一番最初の位を

「異生羝羊心」イショウテイヨウシン

といっておられます。

凡夫といわずに異生という

字を使っておられます。

羝羊とはおひつじのことで

人がただ欲望の赴くままに

生きている状態という

ことを指しています。

 

異生という言葉は

異なって生じている

ということで、

いろいろな考え方や

それぞれの煩悩によって

業を作って様々な果をうけて

種々な世界に生まれている、

ということです。

 

世界は一つという人もいますが

人はそれぞれに自分の世界を

作って生きています

人と人と合う合わないという

ことはその人の世界と世界が

どういう接点を持っているかで

合う人と合わない人とが

出てきます。

 

ですから、異生といえば

自分の世界に固執して

人の考え方を容易に受け入れない

ということをいうのでしょう。

 

また、普通には

凡夫というようにいいます

聖者ショウジャに対して、

愚かで凡庸な士夫ジブ・人間

ということです。

 

生まれたり死んだりして

六道に輪廻しつつあるものを

六凡ロクボンといいます

地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・

天の六つの世界を輪廻している

凡夫ということです。

 

『十地経講義』で

「人間の現実とは何が現実

なんだろうか。

我々は現実現実といっているけど

我々の現実は、理想と比較して

現実というだけでしょう。

つまり理想から見た現実であって

そうじゃなくて、

理想が消えてしまうような現実が

あるでしょう。

そのどうにもならんものをですね。」

 

そういうどうにもならない現実に

生きている人を凡夫と

いうのでしょう。

「自分探しの旅に出ます」

ということが言われましたが

その自分というのは

自分に都合のいい自分

ということでしょう。

理想から見た自分なのです

現実に生きている自分となると

どうにもならないものをかかえて

生きています。

 

そこに、理想に走らず

現実に身を置いたひとを

凡夫というのでしょう。

心は色々いいことばかり考えたり

反対に悲観してしまったり

好き勝手に考えるのが心です

ところが、

その好き勝手に考える自分を

支えているのはこの身という

ことになります。

 

弘法大師も、

「即身成仏」と

身が成仏するのだと

心が成仏するのではない

というように「身」という

ことを大事にされています。

 

そこに、凡夫とか異生という

言葉は違いますが

現実に身を置いた人ということで

理想に走らず夢を見ない

現実の人と

言っておられるようです。

 

 

 

 

 

 

 

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