お彼岸の心
布施 ( あたえよう 物でも心でも )
ふ せ
持戒 ( 生きよう 人間らしく )
じ かい
忍辱 ( 耐えよう どんな事にも )
にんにく
精進 ( 勤めよう 日々の仕事に )
しょうじん
禅定 ( 落ち着こう 息整えて )
ぜんじょう
智慧 ( 目覚めよう 仏の道に )
ち え
修行ということを言いますが、仏教でいう修行は
この上に書きました六つに尽きるわけです。
「 六波羅蜜 」 ( ろくはらみつ とも ろっぱらみつ ) ともいいます。
般若心経に出てくる、
『 般若波羅多 』 ということが
「 般若 」 ハンニャ とは 「 智慧 」 ということですから
第六番目の 「 智慧波羅蜜 」 ということになります。
この 「 智慧波羅蜜 」 が仏教の眼目です。
これがないと、世間でいう都合のいい話になってしまいます。
「 布施 」 ということも、人には親切にしときなさい、
廻り回っていいこともあるから、といってしまえば世間の話です。
ではなく、仏教では修行ですから、人間の一番強い物惜しみの心
執着心を克服する、という大切な修行になってきます。
「 持戒 」 ということも、ほどほどに世間に迷惑をかけないように、
というではなく、本来は
外の誘惑から自分を守ってくれるという大事な意味があります。
「 忍辱 」 も、じっと辛抱しなさい、そのうちいいことがあるから、
と、いってしまうのではなく、
自分の心のそこに潜んでいる、苦しいことから逃げ出したくなる
その心を退治していくという修行の意味があります。
そのように、六波羅蜜には自分の心に潜む煩悩を
よく見つめ、削り落としていくという作業があるのです。
お彼岸ということも、彼の岸
仏さまのいらっしゃる清らかな世界に行くということではなく、
人間は、本来、清らかな心を持っているのです。
その心が埋もれてしまっている。
仏さまのいらっしゃる世界がどこかにあるのではなく、
本当は、私たちは生まれながらにして仏さまの世界にいるのです。
しかし、それに気がつかず、失っているということが現実です。
その失っているということを悲観するのではなく、
失っていることを自覚することによって、
本当の世界に触れていく、
そういうことが、 『 彼岸 』 の意味なのでしょう。
一応、表現としては、 波羅蜜 ( パーラミター ) ですから
彼岸へ渡る、という形をとりますが、
自分の心の中では大逆転が起こって、
気がついてみたら、彼岸は自分の中にあったんだということでしょう。
お経の表現では、
『 穢土 ( 此岸 ) の中に浄土 ( 彼岸 ) を見出し、
見出した浄土 ( 彼岸 ) によって、
穢土 ( 此岸 ) に生きる。 』
となっています。
彼岸というのは、一つの心境と考えたらいいと思います。
この世の中 ( 此岸 ) 行き詰った世界です。
その行き詰った世界を逃げ出さずに、また流されず、
そのどうにもならないことを媒介として内面の世界を開いていく、
その心境が 「 彼岸 」 ということだと思います。
その実践として、心静かにお墓に参り、ご先祖を偲び、
今の自分を思い返すという、ということではないでしょうか。
そこに新たな智慧も開いてくると思います。