本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

法(任持自性・軌生物解)

2021-12-29 21:02:58 | 十地経

「法」という言葉も

どうしても身に着かない

法といえば法律の法を

考えてしまい

仏教でいう法ということが

すんなり入ってこないのです

安田先生の講義にも

仏教の経典では特に

当たり前のように出てきます

 

篤く三宝を敬え

三宝とは仏法僧なり

という言葉もあるように

仏教の中で中心的問題です

法はダルマを翻訳したもので

道理とか教理、真理、善行と

訳されます。

 

ところがです

法ということも

色々な意味を持った言葉で

そこが、どの法なのか

すぐに入ってこないのです

昔から、

法についても定義は

「任持自性ニンジジショウ

 軌生物解キショウモツゲ」

の二義があります。

辞書を見ると

自体の自性(独自の本性)

を保持して改変せず、

能く軌範となって人をして

一定の事物の理解を

生ぜしめる根拠となるもの

という定義があります。

 

それとは別に

諸法無我という時の法は

存在するすべての「もの」

という意味もあります

ですから、

なになにというもの、

という意味で法が使われる

からややっこしいのです

たとえば、

「色法と心法」という時は

物的なものと心的なもの

という意味になります。

 

法には

法律ともいうように

戒律的な面もあるように

思うのです

特に、キリスト教やイスラム

では内容はほぼ戒律だとも

いいます。

軌範という性格が強いように

思います。

たとえば食事にしても

あれは食べない、など

厳しい決まりがあるようです

 

「法」という言葉が

出てきた時に

前後の関係から

どいう法の解釈に

当たるのかを推察しなければ

経典や講義は聞けないように

思うのです

 

真理としての「法」

存在する「もの」としての法

正しいこと、

規則にかなっていることの法

など、

いろいろ出てくるところが

どうにも難しように

感じてしまい

頭にす-っと入ってこない

のが、困ったことなのです

頭の悪さを痛感します。

 

けど、繰り返し

意義を読み直し、

前後の関係を明らかにして

読み進めなければ…

分からんでも

こういう文章に身を浸して

いることが大事なのでは

と思っているのです。

 

 

 

 

 

 

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