愚痴を零すとか
グチッた! ぐちる!
というようにあまりいい意味では
使わないようです。
愚痴とかきますが
痴という字は俗字で
癡と書くのが本当です。
疑って決めかねるということから
なり立っているようです。
癡も三大煩悩の一つで
貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)
というように、
むさぼり、いかり、ぐち
ということです。
癡のことをサンスクリットでは
moha(モーハ)といいます
この言葉が訛ってバカと
なったようで
そして、馬鹿と漢字をあてたという
ことのようです。
いろいろ嫌なことや苦しいことが
あると
ついつい、ぐちが出てきます。
しかし、
仏教ではこの愚癡を大切にします。
お経の中でも
あるご婦人がお釈迦さまに
ぐちをこぼされる。
お釈迦さまはそれを黙って
聞いておられる。
それは
愚癡という形で宗教心が現れている
ということです。
つまり
自分が問題になってきたのです。
グチを愚痴のままで終わらせないで
宗教心まで導くのが
本当は私たちの仕事なのです。
という意味では
お寺とはグチの捨て場所なのです
グチという俗の俗たるものを
宗教心まで高める
というのは、
一番、身近で一番低いように
思うのですが、
じつは低いものが深いところから
出ている、からなのです。
よくお寺にも相談の方が
おみえになります。
話すうちに心のわだかまりも解けて
グチを喋り出せば
それでいいのです
一端グチが出だすと次々と
長い時には3日間にわたり
お話を聞くこともあります。
お話をされているうちに
次第に
問題は自分であったかと
気がつけば
それでいいのですが
なかなか、自分が …
というところまではいきません
しかし
話しができるということは
帰るときには
心が軽くなりましたと
足取りも軽く
お寺を後にされるものです。
今に時代なかなか
ぐちをこぼせる相手もいないし
そういう場所もないようです
私たちは
お寺こそ、
そういう場でありたいと
常々願っているのです。
たかがグチかもしれませんが
されど愚癡です
宗教心の根が宿っているのです。
そのことを大切に思ってほしい
と思います。
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