今や人工頭脳の進歩はめざましく
人間の知能を越えようとしています
将棋の世界でも、
人間がコンピューターに勝てない
ということが起こってきています。
知識を詰め込むというだけなら
機械には人間は勝てそうにも
ありません。
人間は忘れるということがあります
応用するとなると
今まだ人間の方が勝っていると
思うのですが、
仏教では知恵という文字を
あえて智慧と書きます。
生活の知恵とかいう場合は
知恵でいいのでしょうが、
仏の智慧ということで
この文字を使っているのです。
よく、三浦先生から教えて頂いた、
水とは常温では液体、冷やせば氷
熱すれば水蒸気、と
科学的に知ることができるが
喉が渇いたときに飲む一杯の水
その美味しさは
「なんともいえない」
そういうふうに体で知ることを
「智慧」と言うのだ、
ということです。
しかし、
仏教でも一概に智慧と言いますが
玄奘三蔵はあえて訳さずに
「般若」というように音写したのです
というのも、
仏教では智慧ということが中心課題
なのです。
般若波羅蜜多というように
波羅蜜の行といってもその中心は
般若波羅蜜多の行です。
普通には六波羅蜜が有名ですが
その中で6番目が智慧波羅蜜
(般若波羅蜜)といい、
それをさらに詳しく
10に展開していくと
十波羅蜜となります。
そうなると、
6番目が慧波羅蜜
10番目が智波羅蜜と
智と慧というように分けて使います
ところが、
知識も智慧もある面では同じで
あるともいえないこともない。
しかし、科学と宗教で使う場合には
ちょっとニュアンスが違ってくる、
私たちが勉強して得た知識は
当然自分のものである、と
自分の中に所有されていると
考えています。
信仰の世界における智慧は
「智慧を得た」というと
得た智慧の方が自分より
大きいのです。
般若心経に出てくる
「一切顛倒」ということば
一切は逆さまである、と
智慧と言う世界から見ると
私たちが是と思っていたことは
すべて間違いであったと
思い知らされるのです。
言えば誤解するし
言わなければなおさらわからない
ということがあります。
なにか責任を持ってやろうとすると
自分の意思がなかなか伝わらない
というジレンマに襲われます。
天台宗を開かれた
伝教大師最澄が吐露しておられます
「愚中の極愚、狂中の極狂、
塵禿の有情、底下の最澄」
なにもこれは卑下した言葉ではなく
悟りによって照らされた自分の姿
智慧を得たことの確信が
こういう言葉となったのです。
智慧を得て悟りを開いて
偉い者になった
というのではないのです。
智慧の光があればこそ
自分の愚かさが見えてくる。
よくしたもので、
私たちも本能的に
自分は本物ではないということを
どこかで分かっているのです。
ですから、
やけにブランド物を付けたがる
自分が本当でないから
ほんまもんが欲しいのでしょう。
いくら機械が進んだとしても
コンピューターが
得た膨大な知識によって
今までの
自分はすべて間違っていました
という結論はださないでしょう。
いくら知識が豊富になっても
それは智慧になることはないと
思います。
人間と機械の違いは
知識と智慧と言う一点において
越えられない一線がある
のではないでしょうか。
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