『 ボールが止まって見える 』
先日亡くなられた 「 川上哲治さん 」 の
名言です。
「 ボールが止まって見える 」
…
「 止まって見える 」
これは、こういう風にも書けるのでは ?
「 止まって 観える 」
今読んでいる 『 十地経 』 というお経の
第七地 の中心課題は
『 双行 』 ( そうぎょう ) 二つの行です。
その二つが 『 止観 』 ( しかん ) ということです。
「 摩訶止観 」 という言葉もあり、
仏教の根本の概念です。
「 止 」 と 「 観 」、
止 - という字は 「 静 」
観 - という字は 「 動 」
だから、 「 止観 」 ということは動と静が一緒になった、
「 動静一如 」 ということになります。
動と静ということは反対の性格のものです。
それが一つになってくる。
性格の反対のものが一致してくる。
仏教では正反対のものが一致してくる
という表現をとります。
「 止 」 と 「 観 」 、 「 静 」 と 「 動 」
これは反対概念で矛盾していることは違います。
西洋では弁証法ということでいっているようです。
しかし、仏教では論理的に一致してくる、
ということではなくて、
実践的に一致してくる、と説いています。
好きな言葉に 「 熟練 」 ということがあります。
職人さんの技を見ていますと、
無駄な動きもないし、まさに
動 と 静 が一つになっているようです。
「 止まる 」 静かに三昧に入る、ということと
「 観る 」 実験観察する、という動き
または、 「 知 」 と 「 行 」
知るということと、実践するということは
矛盾はしてないけど、
なかなか容易に一致しがたいものです。
論理的に矛盾しているわけではない、けれど
実際的に一致するのは難しい、
という問題があります。
それを克服するのは 「 熟練 」 ということしかないのです。
熟練という反復です。
反対しているものが一致してくるのは
論理で解決するのではなく、
反復して実践していくしか解決はないように思います。
ここに繰り返し繰り返し、という
一歩一歩の努力が大切なのです。
仏道修行といっても、一歩一歩
努力というところに本当人間の姿がるように思います。
お経を読んでいると、
人間が自然に人間としての在り方は
努力する、ということが人間の構造のようです。
ここでもう一つ深く考えると、
努力をできる場所を見つける、
努力ということが可能な場所を見出す。
それが大切だと思います。
人生においても努力できる場所を持つ
ということが一番幸せなことなのです。
川上哲治さんも
『 無駄になる努力はない 』
とも言っておられます。
無駄とか、ためになるとか、ではなく
努力自体が真の人間の在り方なのでしょう。
川上哲治さん、同郷ということで
何かしら親しみを感じ、野球もわからない
門外漢の私が、
川上さんの残された言葉から
考えてみました。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます