「0葬」 最近こういう本が出て、
今、話題のようです。
0葬
ー あっさり死ぬ -
というのが本のタイトルで、
帯には、
「葬式も墓もいらない」
という人のために迷惑をかけない死に方入門
とあります。
最近は、「終活」 の講演会をやると
100、200名は集まるそうです。
そういえば、
私めも、散歩とかで歩いていると
葬儀関係のホールとかが目に入るようになってきました。
やはり一度はお世話にならなければなりません。
けど、あんまり思わないほうがいいかも ?
朝お寺の前を救急車が、
掃除しながら、一度は乗るのかな~
と思っていましたら、
なんと、その日に車にはねられて
救急車で運ばれる羽目になってしまいました。
偶然にも、朝見た救急車だったのです。
真新しい救急車でしたのでよく覚えていました。
そのことから、思い出したのが、
ヒンズー教の考え方の中に
「0葬」 に似た考え方があるのです。
ヒンズー教では人生を四つの時期に
分けて見ています。
青年時代、学習期といって、
ヨーグベーダとかそういうヒンズーの経典を勉強する。
家長期、結婚して妻子を養い、同時に
ヒンズーの祭祀も責任をもって務める。
臨終期、子供が一人前になって所帯を譲ると
村を離れる。けれど、まだあとから相談事もあったりと
時々帰ってくる。
遊行期、いよいよもうこれで大丈夫となると
ヒンズー教の聖地巡礼に出て二度と帰らない。
残した財産はどうなっているだろうか
そんな心配はしない。
遊行(ゆぎょう) ですから、本当に乞食生活です。
それは、ヒンズーの世界では聖者の世界に属します。
だから、むこうでは乞食といっても聖者ですから
威張っているそうです。
布施をもらっても、お礼も言わない、
布施した方が功徳を積むのだから、
もらった自分の方が相手に功徳を積ませている
というような考えらしいです。
そして、いよいよ死期が迫ったと、
感じると、ヒマラヤへ向かって歩みだす、
途中で行き倒れ、
これが本当の涅槃でしょう。
「0葬」 ということも、
これが本来の姿のなのでは
ないでしょうか。
面倒くさいから、すべてを簡略化する
ということで、 「0葬」 ではないと思います。
ま、これを書かれた
島田裕巳という宗教学者の方も
そう簡単には捉えらていないようで
一つには、葬送で儲けようとする
静かな抵抗でもあるようです。
しかし、よく考えなければいけないのは
何が重要で、何が不要か
ということです。
葬式もしない、お墓も建てない、
ということになると
後に残された人に迷惑がかかりかねません。
ある立派なお坊さんが、
昔のお祖師様は葬式も何もしなかった
「死んだら鴨川に流してくれればいい」
といって亡くなられたそうです。
後に残った人たちが、
どうしたものか、いろいろ相談して
出した結論が、
あんな立派な先生の遺言だから間違いなかろう、
ということで、本当に何もしなかった。
ところが、亡くなられたということは、
どこからともなく広がるもので、
それを聞いた方たちは
やはり弔問にお見えになる。
その弔問の方たちが永延と
1年余りにも及んだそうです。
とうとうその奥様は入院されたとか、
… !!
やはり、するべきことはしておかないと、
そして、人間の尊厳性
命だけではなく、死の尊厳性もあります。
死を軽んじて捉えるところに
命というものも軽く扱われてしまうような気がしてなりません。
歌舞伎に 「駱駝」 という演目がります。
貧乏長屋で、亡くなった、
さてどうやって葬式をするか、
「せめて、お弔いだけはしてやらないと」
というくだりで、一同知恵を絞るのですが、
貧乏であっても、お弔いだけは
というところに本当の人間としての
務めがあるようです。
クロマニヨン人でしたか ??
死体のそばに花粉があった、
その発見が、
死者に対して花を手向けた、
最初の出来事ではないか
そのことが、人間が他の動物と違った
大きな一点であると、
亡くなった方を弔うという、
生きてこられたその人生に対して
「ご苦労でした」
といえる、
単純にそういうことが大切なのではないでしょうか。
言葉足らずで、いらぬご心配をかけました。
しかし、私も結構おっちょこちょいで、
骨折をしています。
交通事故の時は鎖骨骨折、ちょうどお彼岸の前日で、固定ベルトをはめてのお参りでした。
またつい最近では、観音巡礼の前日にはしごから落ちて、松葉杖でのお参りとなりました。
もう、いよいよ注意して骨折しないようにしなければ、
これからの骨折は命とりですからね、
と思っております。
律良