「 如来蔵 」 ( にょらいぞう )
ということが仏教いわれています。
「 蔵 」 という字は仏教の中ではよく出てくる言葉です。
お寺の名前にもよく使われます。
「 本蔵院 」 とか 「 南蔵院 」 「 宝蔵院 」 という名前もあります。
それから、人間の心で一番深い心、
人間のしたことをすべて、静かに記憶していく意識があります。
「 阿頼耶識 」 ( あらやしき ) といいます。
アラヤとはインドの言葉ですが訳すると 「 蔵 」 という言葉に当たります。
ですから、阿頼耶識のことを 「 蔵識 」 ともいいます。
人間は自分の中に ほとけさま 「 如来 」 を蔵している
ということで、 「 如来蔵 」 といいます。
今朝読んでいる中で、この言葉に出会いました。
「 我々は、どんな力を持っているかということは、
自分で決めるわけにはいかない。
私はあきません、というようなことは
越権なんです。
私は駄目だということは、
どこにそんな判断を下す権利があるのか。
それがもうはや、すでに間違いです。
それは、自分が自分を所有していると思うから、
私はどんなものであるかということは、
私の判断では決まらんのです。
私は偉いもんだ、といういい方は、
まだ、そう偉くないんだという具合に、
反省することができるけど、
私はあかん者だというのは、もっと悪い判断です。
わしは駄目な者だということがですね、
それは冒涜に近いです。
自己冒涜というようなものです。
実は、
人間には、人間の分別では
分別できないような、
大きな何かを持っているのです。
それを 「 如来蔵 」 というのです。
心が挫けそうになるとき、今朝の目の覚めるような一言でした。
思い出せば、
よくこのことで、三浦先生に叱咤されたものです。
「 自分はもうあきません !! 」
と、言おうものなら、烈火のごとくしかられました。
そのときはよく意味もわかりませんでした。
自分が自分に対して 「 駄目な者 」 ということぐらい、
大変な間違いはないということです。
如来蔵、自分には仏さまがいらっしゃるから、
偉いもんだ、というわけでもないのです。
如来を蔵しているなら、
その如来に出会うための努力が必要、
修行ということが、死ぬまで修行
そういうことが大事になってくるのです。
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