出家 ( しゅっけ )
家出 ( いえで )
乞食 ( こつじき )
乞食 ( こじき )
似たような字ですが ( 同じ字ですが )
発音によっては意味全く違ったものになります。
普通、家庭が面白くなくなって
家を出ることを 「 家出 」 といいます。
ところが、お釈迦さまも一見、
同じようなんですが、 …
お釈迦さまは一国のプリンスで、
普通の人からしてみれば憧れの存在だったのです。
地位もお金もプリンセスもそして子供までいて
なに不自由ない生活でした。
けど、それらをすべて捨てて、
一介の乞食 ( こつじき ) となって、
人間としての本当の要求を求められた。
働かない、ということでは
乞食 ( こじき ) も 乞食 ( こつじき ) も
変わりません。
あるとき、お釈迦さまが托鉢に出ておられた時のことです。
お百姓さんに食を乞われると、
「 ただ人からもらうだけではなく、
あんたも働いて稼いだらどうか 」
と、お百姓さんが言って返すのです。
すると、お釈迦さまは
「 私は心の畑を耕している 」
という、話が残っています。
何気なく生きていますが、
心のどこかには、
「 これでいいのか ? 」
という、何か本当のことを知りたい
という、願いを抱えているものです。
そのうち、そのうち
といっている間に、時間出来たころには
頭の方も、物忘れもひどくなり、
根気も続かなくなり、
身体も次々と不調をきたし、
気がついたころには、
お迎えが … ということにもなりかねません。
お釈迦さまも、個人の問題にとどまらず
人類的課題を、
人間、何のために生まれて、という
その問題がどうしても解決しなければ
という、人類の課題を背負っていかれたのが
お釈迦さまの出家だと思います。
以前に、三浦先生からお電話いただいたとき
「 大変、忙しくて、ばたばたとしています 」
と答えたら、
「 えらい ! のんきな話やね ! 」
と、痛烈な一言を頂いたことがあります。
普通は、忙しい、といえば、
それは大変で、でもよかったね !
といわれるのですが、
そこを見逃さなくて、
「 坊主として、第一番に考えなければ
いけないのは、人生の目的だろう !
忙しさにかまけて、自分自身を忘れるな ! 」
という、言葉が隠れているのです。
同じ 「 食 」 を頂くのも、
人類の課題を一番に考えるため
働くことを二の次にしてください
というのが 「 乞食 」 ( こつじき )
ということなのです。
坊さんが頭を丸めるのも、
そういうことで、働かないから
一切の地位も権威も落とします
ということで、髷を落とし丸坊主したということです。
坊さんになることを落飾といいますね。
昔のはなしで、
「 乞食 ( こじき ) は三日やったらやめられん 」
ということがって、
怠けだして、人からいただくことが当たり前になると
ほんとうの自分を見失うものです。
それを 「 乞食 」 ( こじき ) というのでしょう。
だから、インドでは道を求める人 ( こつじき )
に対しては、差し上げた方がお礼を言うという
ということを聞いたことがあります。
お経の中で、お釈迦さまは
供養は受けられるけれど、
有り難うとは言われないで、
「 黙然として、聴許す 」
と書いてあります。
供養を許すと、
だから、ありがとう、といってしまえば
「 乞食 」 ( こじき ) になってしまうのです。
ということを知ってでしょうか、
日本のお坊さんのなかにも、
お礼を言わない、方がいらっしゃるようです
が、 …
しかし、三浦先生は
「 ご本尊様に代わってお礼を言うのが
住職の務めだ !! 」
とも言われてました。
いずれにせよ、人間として、
生まれたことの意義、人生の意味、
人間としての本当の要求、
いのちの意味を考え続けなければ、
まずは、お坊さんとしての資格がないのでは
とも 思うのですが、
お坊さんになる動機も、それぞれあって
私を含め、結構、不純なものも持っていますので
ま~ …
なっている以上は
その動機を磨き純粋にしていく
努力を惜しんではならないと思います。
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