宗教心というものは初めから
堂々としたもんじゃないと思う。
何かフッと気にかかるという問題
から起ってくると思うですね。
フッとこれまでの考え方を
反省してくると、
こういうところに … ほっとけば
もみ消されてしまう。
ちょうどモエデルという字がある。
芽が出てくる。
それが寒気にあたったら、
すぐしおれてしまう。
そんなもんじゃないかね、
宗教心の「メバエ」というものは
頭から大自覚という、
そんなものはありゃしません。
ヒョット何か気にかかる
というようなことがね、
それが関心というものです。
人間は関心的存在。
今まで持たなかったところに
新しい関心を持つ、
気にかかる。
これが大事な点じゃないかね。
ちょうど読んでいて気にかかった
一文です。
宗教心というと何か
大上段に構えたような気がしますが
そうではなく、
非常にささやかな問題意識
だから開経偈には
『無上甚深微妙法』 と
この上ない法ではあるが
微かで堪えないような教えだと
いっているのでしょう。
ドイツの哲学者であり宗教学者の
ティリッヒという方は
「究極的関心」
ということを言っておられます。
いろいろ関心事はあるけれど
自分にとって何が最終的な関心事
なのかという、
健康でいたい、お金も欲しい
立派な地位にも就きたい
名誉も欲しい
いろいろありますが、
いざ、
死ということを目の前にした時
最後に関心あるものは何かと
そういうことの問題です。
普通には、
「ヒョット気になる」
ということを何気なく
見過ごしてしまいがちです。
しかし、その
微かに気にかかるということが
宗教心の芽生えなのです。
講義は続けて次のように
述べています。
「ところが宗教心は、
気にかかるんだ。
気がかり不安なんだ。
疑問というもんじゃない。
…
それだからして
芽生えのようですけどね、
芽生えが成長した場合にね、
その流行思想をいっぺんに夢の如し
と判決を下すような力をもっている
一挙に。
なんぼ栄えても夢だろうと、
これは絶対的批判を下してしまう。
そういうものまで成長してくる。
けど萌芽だからわからんわね。
その萌芽という意味を善導は
白い道といっている。
細い糸だと、
求道心というのは細い糸のような
もんだ。
けどそれは立った瞬間に大道になる
火にも水にもおかされん。
その「立つ」という言葉が
大事な言葉じゃないかね。」
というように講義は続きます。
人間は大木にはつまずかないが
小さな小石に躓くということが
あります。
私たちに起こったささやかな
微かな問いの心を大切にしなければ
とあらためて感じるのです。
そして、「立つ」という心が
大道になっていくと
思い立つ心の起るとき
ということがあります。
それはただ頭で分かった
というのではなく、
人間を感動させる言葉に出会った
ということでしょう。
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