今住んでいる所が小倉、
昔はこの付近は「巨椋池」と呼ばれる
周囲16キロの大きな池がありました。
宇治の資料館で巨椋池の展示が
あるということで出かけたのですが、
館内は写真撮影禁止で、
といってもさほど撮りたくなる
展示はなかったのですが、
ただ入口にあった、
昔の巨椋池の古地図(絵図)が
一見にしてよくわかりました。
巨椋池には宇治川、桂川、木津川が
注ぎ込んでいます。
宇治川の源流は瀬田川、
つまり琵琶湖から流れ出ているのです。
そして、宇治川は淀川となって大阪湾へ注いでいます。
この三つの川が流れ込んでいる所に
秀吉は淀城を築いたのです。
つまり、物資は大阪湾から船でここを通り、
更に高瀬川を通り、京都の町中まで運ばれました。
秀吉はこの淀を要として、
城を築き、伏見の町を日本一の町に
作り変えました。
今、近鉄が走っている線路は
秀吉が作った「太閤堤」の上なのです。
その当時の、宇治川は好き勝手な流れをしていて
洪水が起こったり、
ずいぶんと悩みの種だったようです。
なにより淀の地を治めるには
宇治川を抑え込むのが重要だったようです。
ふと熊本に眼をやると、
加藤清正が作った「熊本城」
難攻不落の名城と言われています。
そして何より、自然の地形を
利用した城作りは、
秀吉について学んだのではないでしょうか?
坪井川という河川を堀に利用しているのです。
そしてこの川は有明海に注ぎ込んでいます。
ですから、白を作るときにはこの川を利用して
物資を運んだのではないでしょうか。
そして、そのまま堀として利用した。
交通の便としても、また城の守りとしても
自然の地形をうまく生かしているのです。
そしてまた、巨椋池には
もうひとつ,気になる地名があります。
古絵図にも出てくる、
「東一口」 という地名です。
ここは、巨椋池の漁業の盛んなところでもありました。
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