講義を聞いていると
どこを開いても、菩提、菩提心
ということが貫かれているように
思います。
「阿耨多羅三藐三菩提」
アノクタラサンミャクサンボダイ
anuttra-samyak-sambodhi
アヌッタラ・サムヤク・
サンボーディ
という言葉をあえて訳さず音写した
言葉です。
どの経典でも
阿耨多羅三藐三菩提という漢字で
出てきます。
訳すと、
無上正等正覚、無上正真道、
無上正遍知となります。
上がない(無上)と
いうのですから、終わりがない
修行にしても到達点がない
どこまでも修行していく
というのでこういうのでしょう
さらに、
正しく等しい(正等)
正しいさとり(正覚)と
いうのです
別な見方には
無上正真道とありますから
もう終わりがない正しい
本当の道、道程ということで
このように訳されたのでしょう
「三」という言葉が
「三藐」とか「三菩提」と
出てきますが
これは数字の三ではなく
サンミャク、とかサンボダイ
という言葉の音写です。
それで講義では
「菩提心に立った人間が、
菩提の心というのは
菩提を求める心
菩提を成就した人を正覚者
仏陀といいます
無上正覚者と
阿耨多羅三藐三菩提を完成した人
というんです、
仏陀というのは。
だから無上菩提心という場合
ただ心というのではなく
その要求です。
願心です。
願というのは
魂という概念になるでしょう。
人間というものが
道具でもないし
自然物でもないということは
なにか、魂があるからでしょう。
霊魂というのが魂じゃないんで
願が人間の魂でしょう。
願というものはどういうものか
というと、
無上というでしょう。
無上ということをよくいうのは
究竟クキョウですね
究竟や、この上ないんですから
だから、願というのは
究竟的関心ですね
それは、気にかかる
ということです。」
色々気にかかることはあります
経済とか地位や名誉や幸福など
そういうものの根底にある関心事
それを究極的関心(究竟的関心)
というのでしょう。
英語の辞書を見ていたら
soulソウルとスピリットspirit
宗教的な霊魂がソウルで
肉体に対する魂がスピリット
というようです。
ついでに、
魂も魂魄ということがあって
「魂魄」コンパクという言葉も
昔、軍歌で知ったのですが
古代中国の考え方では
人が死ぬと魂と魄に別れ
魂は天上に、魄は地上に止まる
と考えられたそうです。
そういう言葉を
どうも私たち現代人は
言葉があるとそういうものが
実体的にあると考えてしまう
魂があるとか、魂を見たとか
これも二元論にとらわれた
私たちの妙な癖のような
ものでしょう。
目に見えないものは無いというし
言葉があればそういうものが
あると考えてしまうという
ことなのです。
見えなくても感じとる世界が
あるように思います。
話はそれましたが
阿耨多羅三藐三菩提
とても大事な言葉なのですが
書かないとつい書けなくなって
しまいそうです
玄奘三蔵もあえて訳さず
経典に音写の言葉として
残されたのはそくに深い意味が
あるように思います。
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