いま死んだ どこへもゆかぬ ここにおる
たずねはするな ものはいわぬぞ 一休
一休さんはおもしろい、含蓄のある、歌を詠まれるものです。
いま、世間では 『 千の風になって 』 がはやっているようです。
そのなかで、チョッと気になる文句が 『 お墓に私はいません 』
というくだりです。
よく質問を受けます。お盆のときお坊さんは仏壇にお参りに来られる、
私たちはお墓にお参りに行きます。どちらにご先祖さまはいらっしゃるのですか?
簡単には 『 手を合わせて、お参りするところに、
ご先祖さまはいらっしゃるのですよ。』 と答えます。
悲しいかな、私たちの頭は、「 あるか、ないか 」 「 あるものは目に見える、
目に見えないものはない 」 という、すべてのものを実体化して見てしまう、
そういう考え方になってしまったようです。
梁塵秘抄に
仏は常に在ませども 現つならぬぞ哀れなる
人の音せぬ暁に 仄かに夢に見え給う
とありますように、
人の音せぬ、という人間の煩悩妄想が無くなったときに、
仏さまは仄かに現れてこられるというのでしょう。
一休さんの歌 『 千の風になって 』 そして 梁塵秘抄 と
照らし合わせて見られると、なんか、仄かに分かってくるのではないでしょうか。
たずねはするな ものはいわぬぞ 一休
一休さんはおもしろい、含蓄のある、歌を詠まれるものです。
いま、世間では 『 千の風になって 』 がはやっているようです。
そのなかで、チョッと気になる文句が 『 お墓に私はいません 』
というくだりです。
よく質問を受けます。お盆のときお坊さんは仏壇にお参りに来られる、
私たちはお墓にお参りに行きます。どちらにご先祖さまはいらっしゃるのですか?
簡単には 『 手を合わせて、お参りするところに、
ご先祖さまはいらっしゃるのですよ。』 と答えます。
悲しいかな、私たちの頭は、「 あるか、ないか 」 「 あるものは目に見える、
目に見えないものはない 」 という、すべてのものを実体化して見てしまう、
そういう考え方になってしまったようです。
梁塵秘抄に
仏は常に在ませども 現つならぬぞ哀れなる
人の音せぬ暁に 仄かに夢に見え給う
とありますように、
人の音せぬ、という人間の煩悩妄想が無くなったときに、
仏さまは仄かに現れてこられるというのでしょう。
一休さんの歌 『 千の風になって 』 そして 梁塵秘抄 と
照らし合わせて見られると、なんか、仄かに分かってくるのではないでしょうか。
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