『 天才とは 努力する 才能である 』
あたりまえに読んでしまえば、なんてことはないのですが、
繰り返し読んでいくうちに、不思議な言葉だな、と感じます。
「 天才 」 という名詞ではないのです。
「 努力している才能 」 を 「 天才 」 というのでしょう。
努力している、というと、動詞です。進行形です。
進行形の状態を 「 天才 」 と名づけるのでしょう。
だから天才と言うものがあるのではなく、努力している働きそのものが
「 天才 」 というのでしょう。
『 仏 』 という言葉も、名詞ではないと思います。
『 仏を行じている 』 という、『 ほとけING 』 という
進行形でなければいけないと思います。
悟り、とか 悟った、という名詞や過去形ではないと思います。
名詞や過去形では、それは 『 仏 』 というものに対する固執でしょう。
固執すれば、悟りも悟りでなくなってしまいます。
だから、仏さんとは 「 悟りを行じていること 」
つまり、 『 For Others 』 己を無にして、他のために
働いている、はたらきそのもを 『 仏 』 とかいうのではないでしょうか。
少しこむつかしくなりましたが、
たまには、言葉も感覚でとらえるのではなく、
厳密に分析してみるのも大事なことです。
それでは
あたりまえに読んでしまえば、なんてことはないのですが、
繰り返し読んでいくうちに、不思議な言葉だな、と感じます。
「 天才 」 という名詞ではないのです。
「 努力している才能 」 を 「 天才 」 というのでしょう。
努力している、というと、動詞です。進行形です。
進行形の状態を 「 天才 」 と名づけるのでしょう。
だから天才と言うものがあるのではなく、努力している働きそのものが
「 天才 」 というのでしょう。
『 仏 』 という言葉も、名詞ではないと思います。
『 仏を行じている 』 という、『 ほとけING 』 という
進行形でなければいけないと思います。
悟り、とか 悟った、という名詞や過去形ではないと思います。
名詞や過去形では、それは 『 仏 』 というものに対する固執でしょう。
固執すれば、悟りも悟りでなくなってしまいます。
だから、仏さんとは 「 悟りを行じていること 」
つまり、 『 For Others 』 己を無にして、他のために
働いている、はたらきそのもを 『 仏 』 とかいうのではないでしょうか。
少しこむつかしくなりましたが、
たまには、言葉も感覚でとらえるのではなく、
厳密に分析してみるのも大事なことです。
それでは
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