本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

偶然と必然の間

2018-10-30 20:20:01 | 住職の活動日記

人との出会いも

段々と深まっていくと

この人と会うべくして出会った

出会いは必然であった

ということがあると思います。

 

偶然は準備できている心に微笑む

     パスツール

 

という言葉もあります。

チャンスということもただ漠然と

待っていただけでは訪れません。

虎視眈々と狙っていてこそ

チャンスは掴み取ることができます。

 

「果報は寝て待て」

ということもありますが、

のんびり構えて寝ていいたのでは

何がチャンスなのか

分からなくなってしまい

チャンスに出会っているのに

通り過ぎてしまうということも

あるようです。

 

仏道修行ということも

常に努力し続けてこそ

一筋の光は見えてくるのでは

ないでしょうか、

ただ漫然としていたのでは

遇うべきものに出会っても

分からずに通り過ぎてしまいます。

 

やはり、

こちらに見るべき目を持たないと

本当のものは見えてこないようです

 

よく言われました、

仏さんに出会っても

こんにちわ、さようならで終わるか

それとも

出会っていても分からずに終わるか

常にアンテナを

張り巡らしていないと

仏さんと出会っても

分からずに終わってしまいますよ

キンキラ金の仏さんと

思っていると見過ごしてしまうかも

案外、貧素なみすぼらしい姿を

しているのかもしれません。

 

こちらが求めていると

たとえ偶然の出会いにしても

その出会いは必然であったと

気が付くものです。

 

偶然といえばすべてが偶然でしょう

その中に必然ということを

見い出してこそ

本当の出会いはあるように思います

 

生れてきたことも

偶然の出来事でしょう

しかし、

自分との本当の出会いがあれば

生れてきたことは必然であったと

ということになると思います。

生れるべくして生まれてきた

本当の自分に出会うために

生れてきたのだという

必然性が出て来ると思います。

 

そこに僧伽(サンガ)ということも

偶然生まれてきた

ことかもしれません。

しかし、その会ということによって

本当の自分ということが

分かるならば

その会(サンガ)ということは

出会うべくして出会った

たまたまその会に参加したことが

偶然ではなく

必然であったということが

再認識されるのでしょう。

 

すべての出来事を

川の流れる如く偶然であったと

するならば

その人生はすべてが偶然である

何の驚きも感激もないものに

なってしまうでしょう。

反対に、

偶然に見える出来事も

出会うべくして出会った必然の

出来事としてとらえるならば

全ては光り輝いてくるでしょう。

 

すべてのことは必然であったと

見直す時に

人生の深さと驚きと感動が

生れてくるのではないでしょうか

 

 

 

 

 

 

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