梅原猛先生、卒寿の時の言葉です。
作品は96センチ42センチの
大きなものですが、
これは長3の封筒の大きさです。
「霊」という言葉、
最近ではあまり良い意味では
使われないようです。
心霊写真とか除霊するとか、
霊という言葉自体が祟りを表すような
ニュアンスで使われるようです。
辞書を見てみると、
古い書体では、 靈 と、
雨の下に口が三つその下に巫
と書きます。
雨は農業に最も大切な恵みであった
そこから雨を神の力と表し、
その神の力を多くの口が受けとめる
ということが本来の意味のようです。
そこに神のことを司る巫女を加えて
この字が出来上がった。
古くは神聖な意味合いで使いました。
霊峰富士を仰ぎみて、とか
八十八ヶ所霊場とか
人間は霊長類の頂点である、
鈴木大拙先生は「日本人の霊性」
という題で本を書いておられます。
梅原猛先生は
「霊がふるふる受けとめよ」とは
どういう意味で使われたのでしょう。
今の私たちは悲しいかな
二元論に毒されて、
あるかないか
あるものは目に見えるし
目に見えないものはない、
というどちらかにしか受け取れない
という感覚になってしまいました。
目には見えないけれどいらっしゃる
という、昔の日本人が持ち合わせた
大切な心を見失ったようです。
「仏は常にいませども
現(うつつ)ならぬぞあわれなる
人の音せぬ暁に
ほのかに 夢に見えたもう」
と、梁塵秘抄には
仏さまの存在を表しています。
目には見えないけれど
感じとり受けとめる力を
昔の人は持っていたのでしょう。
人間の心も霊性ですが、
それ以外にも、
物質的なものにも
霊性を感じ取る能力を
持っていたのが私達でしょう。
お盆も終り、もう来月はお彼岸
有縁無縁のご先祖さま
目には見えないけれど
そこここに帰って見えられたのです。
本当に「霊がふるふる」
ということでしょう。
受けとめよとは、
私たちの心を研ぎ澄ませ
ということでしょうか?
確かに、目に見えないものを
粗末にしてきました。
そこに今の私たちの欠点も
あるようですが、
しかし、「こころ・心」といっても
仏教は
「物質を尊敬するというのが
本当の精神です。」
といいています。
心を大切にするとは
物を大切にすることです。
使い捨てといって
物を粗末にしていたことが
知らず知らずのうちに
心までなくしていったのでしょう。
お釈迦さまのお弟子さんに
物を大切にする、ということで
衣も捨てないで継ぎ接ぎして
着ておったのですが
終いに継ぎ接ぎがたくさんになり
衣というより大きな塊のように
見かねて、お釈迦さまも
何もそこまで大切にしなくてもよい
と諌めたという話も残っています。
物とこころ
切り離せないところに
大切な意味があるようです。
そんなことを考えながら
梅原猛先生の
「霊がふるふる受けとめよ」
ということを考え直して
いたのですが … ?!
なにかしら考えてみるのも
面白いのでは !!
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