モ~ 想 モ~ 念 を
取り除き
すでに生まれもった 宝を
見 ウシ なうな !
先日、4月6日 和歌山県の 『 根来寺 』 ( ねごろじ ) に
参拝しました折、この言葉に出会いました。
本当いうと、最初に目にとまったのは
この 『 うし 』 さんです。
なんと、棕櫚 ( しゅろ ) で出来ているのです。
あまりにも本物そっくりでしたので近づいてみると、
この言葉が書いてありました。
なるほど !! とても含蓄のある言葉です。
そして、ドッキとさせられる言葉でもありました。
私たちも、すました顔してお参りしているのですが、
ふと、この妄念妄想が顔を出してくるのです。
そこで、あるとき 『 管長さん 』 に尋ねてみました。
すると、 「 実は私もそうなんだ! 妄想との戦いだね ! 」
とお答えいただき、
( 誰でもそうなのかと ! ) と少し安心しました。
ここの 『 根来寺 』 を開かれた 『 覚鑁上人 』 ( かくばん )
という方は、自分に対する戒めとして、
『 蜜厳院発露懺悔文 』 ( みつごんいんほっろさんげのもん )
という文を書き止めておられます。
「 我ら懺悔す、無始よりこのかた、妄想にまとわれて、衆罪を造る … 」
(さんげ)
という一文で始まり、
私たちは 『 妄想 』 に苦しみ、 『 妄想 』 に悩み
すべての罪を作っている。
最後は、その人々が造るもろもろの罪は全部、私が引き受けよう
そして、その罪が他の人に及ばないように、と
すごい、決意の文でもあるのです。
読むたびごとに、身が引き締まる思いのする文なのです。
※ 仏教では 『 懺悔 』 ( ざんげ ) といわなくて
( さんげ ) といいます。
人間の深い痛みと悲しみを込めて、普通いう 懺悔 と区別する意味で
あえて、「 さんげ 」 といいます。
取り除き
すでに生まれもった 宝を
見 ウシ なうな !
先日、4月6日 和歌山県の 『 根来寺 』 ( ねごろじ ) に
参拝しました折、この言葉に出会いました。
本当いうと、最初に目にとまったのは
この 『 うし 』 さんです。
なんと、棕櫚 ( しゅろ ) で出来ているのです。
あまりにも本物そっくりでしたので近づいてみると、
この言葉が書いてありました。
なるほど !! とても含蓄のある言葉です。
そして、ドッキとさせられる言葉でもありました。
私たちも、すました顔してお参りしているのですが、
ふと、この妄念妄想が顔を出してくるのです。
そこで、あるとき 『 管長さん 』 に尋ねてみました。
すると、 「 実は私もそうなんだ! 妄想との戦いだね ! 」
とお答えいただき、
( 誰でもそうなのかと ! ) と少し安心しました。
ここの 『 根来寺 』 を開かれた 『 覚鑁上人 』 ( かくばん )
という方は、自分に対する戒めとして、
『 蜜厳院発露懺悔文 』 ( みつごんいんほっろさんげのもん )
という文を書き止めておられます。
「 我ら懺悔す、無始よりこのかた、妄想にまとわれて、衆罪を造る … 」
(さんげ)
という一文で始まり、
私たちは 『 妄想 』 に苦しみ、 『 妄想 』 に悩み
すべての罪を作っている。
最後は、その人々が造るもろもろの罪は全部、私が引き受けよう
そして、その罪が他の人に及ばないように、と
すごい、決意の文でもあるのです。
読むたびごとに、身が引き締まる思いのする文なのです。
※ 仏教では 『 懺悔 』 ( ざんげ ) といわなくて
( さんげ ) といいます。
人間の深い痛みと悲しみを込めて、普通いう 懺悔 と区別する意味で
あえて、「 さんげ 」 といいます。
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