今日は菩提樹苑・サラの苑の全体会議があり、
その後、いつも 「 勉強会 」 ということにあいなるのですが、
今日は、他のことで、議論伯仲
勉強会までには至りませんでした。
来月、にお話しようと思って … 、
以下のことが話の要約ですので、
よかったら、ご一読してみてください。
梵 天 勧 請 (ぼんてんかんじょう)
成道のあと数週間、釈尊は樹下にあって、独りその法を楽しんでいた。
その間の心境を経典は次のように語っている。
「この深い、微妙な法は人々の理解できるものではあるまい、
このまま説かずに終わることにしようか。」
(無上甚深微妙法)
そのとき、世界の主 、梵天が、
「世のなかには聞けば理解しうる人々もある、
その人々のために慈悲をもって説きたまえ。」
と請うた。
そこで、釈尊が最初に法を説かれるのである。(初転法輪)
「比丘らよ。ここに出家が避けなければならぬ二つの道がある。
それは、卑しい欲にふける愚かな快楽の生活と、
いたずらに自分を苛む愚かな苦行の生活とである。」
という、苦楽の二辺を離れる「中道」の教え、が説かれた。
その説かれた中道の教えの内容とは 「八正道」 である。
正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定
数多い仏教経典のなかには、法を説けという請いにたいして、
それを拒んで説かないというような場面がよく出てくる。
これはなにも、知らないからとか、意地悪というのではない。
意識的に聞こうとする心、何かを知ろうとする心、
そういう心には説いても分からず、分からぬどころか、
誤ってうけとり、かえって迷うという危険もあるからである。
かといって、説かぬのは不親切である。
しかし、説けば誤解される。ここに難問題がある。
(般若心経にでてくる 「一切顛倒」 ということ)
しかし、この難問題をあえてふみきるのは、
世の人々の深い願いを自己と観じた釈尊の、
やむにやまれぬ深い慈悲であったのであろう。
(釈尊の説法を「獅子吼」という)
したがって、自己の主張を他に認めさようとか、
他を仲間にひきいれようとか、
そういう不純な動機ではない。
法を説く動機は、かならず大慈悲なのである。
さとりは自らに関係しているが、説くのは他に関係する。
他のために説くということは同時に、
かならずそれに対応して聞くということがある。
聞くのは他の言葉を聞く。
説法とか聞法は、いずれも他と関係する。
その媒介となるのは言葉である。
さとりは説くことができない。
そのままそれを言葉に表現することはできない。
水のうまさを言葉で言いあらわすことは不可能である。
だから深い感動や感銘には「何とも言えぬ」という言葉がよくもちいられる。
さとりもそういうものであって、自らうなずくだけである。
そのうなずいたものをうなずいたまま語る。
説けぬものを説く、そこに法を語ることと、
いろいろを語ることの違いがある。
したがって、聞くものは聞けぬものを聞くのである。
以上のようなことを、話そうと思っていました。
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