「ほとけさま」といっても
なかなかわからない、
ですから、いろいろ工夫を重ねて
表現してきました。
その一つに象徴的な形をもって
現したのです。
一つには「灯明」(おロウソク)
そして、「お花」、と「線香」と
お参りする時にお供えするものです。
この三つをお寺では
「三具足」(みつぐそく)といいます。
おロウソクは智慧の光を
お花は仏さまの慈悲を
お線香は頭に火を付けたら
灰になるまで燃え尽きるということで
精進努力を表します。
仏さまといってもわからないから
お燈明とお花と線香で、
智慧と慈悲と精進努力という
仏さまの内容を表したのです。
ですから二つの意味があります。
こちらから仏さまにお供えする
という、
綺麗なお花をお供えし、
周りを明るくするおロウソクを
お供えし、
香りのいいお線香をお供えする。
ということと、
仏さまの側からいうと、
私はお燈明のような智慧をもっています。
お花のような慈悲をもっています。
お線香のような精進努力をしています。
という、
仏さまの内容を表しているのです。
「香をもって食とす」
といわれているように、
仏さまのご飯は香りです。
炊き立てのご飯のかおり、
お茶の香り、
いいお線香のかおり、
それらすべてが仏さまのご馳走です。
香りがご馳走というところに
なにかしら奥ゆかしさを感じます。
がつがつとものを食べるのではなく、
ものはそのままで、
その香りだけ頂かれる。
「香の十徳」ということもあります。
心身を清らかにする、とか
邪気を祓い汚れを除く、とか
眠気を覚ます、
忙しい時には心を落ち着かせる
などなど、
お香の徳があるようです。
それでお香も、
ただ焚くだけ(焼香)ではなく、
手に塗る、塗香(ずこう)もあれば、
口にくわえる、含香(がんこう)、
丁子を煎じた香水もあり、
お不動さまの護摩には、
またさまざまなお香もあります。
ほとけさまといっても
わかったようでもわからない、
昔の人は
「仏は常にいませども
現(ウツツ)ならぬぞあわれなる
人の音せぬ暁に、
仄(ホノ)かに夢にみえたもう」
と詠んでおられます。
また、「みほとけ」という歌では
「みほとけは まなこを閉じて
み名よべば さやかにいます
わがまえに」
というように、
仏さまをどのように感じとり
それをどう表したらいいものかと
苦心されたのです。
その究極が、三具足で象徴される
灯明・お花・お香
の三つです。
よく考えてみると
洋の東西を問わず、
灯明にお花にお香は
必ず付いているものではないでしょうか?
仏壇を掃除して、
お花をお供えし、ロウソクを灯し
香を手向ける。
なんとも心が落ち着く、
気持がリフレッシュされる。
単純なことながら、
宗教以前のこととして
とても大切なことのように思います。
砂漠で生まれた宗教との違いがあるのでしょう。
豊かな自然の中で瞑想できる、
そういうところが仏教の発祥のようです。
しかし、自然も豊かさだけでなく、
恐ろしい一面も持っています。
そこに自然に対する畏敬の念も大切なのでしょう。
そのことを忘れてしまった今の私たちの問題が潜んでいるようにも思います。
いつも素晴らしいコメントありがとうございます。