本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

時代を拒まずそして流されない

2019-10-03 21:16:24 | 住職の活動日記

京都新聞の中で、

京舞井上流家元の言葉です。

なかなか含蓄のある

そして考えさせらる意味を

含んでいるようです。

 

今の家元は五代目井上八千代さん

私としては何かしら親しみを

感じているのです

たぶん今の方も私と同世代?

以前東寺にいた頃

東京とかで公演があるたびに

東寺のお大師様に御祈願に見えられ

その時、

代参でお見えになっていた方が

今の家元の方です

よくお見えになっていたので

私としては顔なじみ、と

勝手に思っているのですが…

 

そんなこともあって

よく新聞とかでお見受けするたび

切り抜いたりして

その記事は大切にしていました。

 

そういう時

京都中央信用金庫のポスターにも

お出ましになっていました

 

 

 

「わたしの言動力」という見出しで

その内容は

 

祇園の花街を中心に発展し

江戸期から二百年以上つづく

京舞井上流。

女性らしい所作と緊張感のある

力強さを兼ね備え

表情に頼らず、舞だけで

すべてを表現します。

皇室ゆかりの近衛家に仕えた

初代から数えて五代目

人間国宝の井上八千代さんは

「舞台は生きもの。

演目が一緒でも同じ舞は二度と

ありません。

見てくださるお客さま、

舞うわたくし、

お互いに一期一会。

一回一回の舞台を大切に、

人との出会いを大切に…」

と語ります。

その時の出会いが

一生に一度であると心得て

互いに誠意を尽くす心構えが

京舞という文化を守り

育んできたのでしょうか。

 

と出ていました。

このことは誰にでもいえることで

一期一会と受け止めるか

また同じことと受け取るかでは

大きく違ってきます

毎月お邪魔する月参りにしても

毎月のことと当たり前と

してしまうのでは

せっかくの大事な一時も

無駄にしてしまいかねません。

 

そして、

「時代を拒まず

 そして流されない」

ということも

歴史を作ってこられたからこそ

言える言葉であって

その時という時代を拒めば

受け入れてもらえないし

時に流されてしまえば

はやりものとして流されて

やがては消えてしまうかも

知れないということです。

 

何かそこに一つの精神としては

菩薩という人間像が考えられます

さとってしまうのでもなく

かといって迷いの中にあって

一緒に迷って自分を見失って

しまうのでもなく

一緒に迷いつつも

本当の人間という姿を

求め続けているという菩薩

ということが考えられます。

 

修行といっても

一番の難は分別の固執を

打ち破るとうことです

打ち破るといっても何も

暴力的に破るというのではなく

よく知るという認識です

 

この固執が邪魔すると

自分は絶対だと言い張り

自分が正しいと頑張る

すると

時代を拒んでしまうし

また固執するあまり流されまいと

融通性がなくなってしまう

 

固執というものが取れてこそ

「時代をこばまず

  そして流されない」

という融通無碍の心境が

開けてくるように思います。

 

 

 

 

 

 

 

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