不動明王、不動使者ともいわれる
経典には童子形に作れと言われている
だから、顔は忿怒の相ですが
体つきは柔らかい子供のような
優しい線になっている。
しかし、その精神は
大日如来の
教令輪身(きょうりょうりんしん)
といわれ、
教化し難い衆生を大忿怒の相で
導くと言われている。
だから、
大日如来と同体の仏で、
その忿怒の相が不動名王で
慈悲の相が菩薩といわれている。
そして、
明王とは智慧の王様というか
明とは煩悩の闇を照らす智慧の光
のことです。
なぜ忿怒の相をとるのか
何に対しての怒りなのか
誰に対しての忿怒の相なのか
知恵の象徴である明王が
なぜそのような姿をとるのか
考えてみると、
教化し難い衆生とはだれか?
たぶん、
その中には自分は入っていない
のではないでしょうか。
以前、お知り合いの方で、
とても信仰深く、
日々の勤行を欠かさない
という方がいらっしゃいました。
その方がいわれるには
十善戒がどうしても気になり
唱えられないと、
「不殺生・不偸盗・不邪淫…」
まあ、
一般的にはいらぬ殺生はしないし
盗みもしない、
しかし、
邪淫だけはどうもやめられない
と、こぼしておられました。
十善戒一つにしても
よくよく考えれば、
何一つ守れるものはないのです。
邪な恋心は起きるし
嘘はつくし、二枚舌は使いうし、
自分勝手に物事を見て、
それに固執するという具合なのです。
では守れないから、唱えないのか
そうではなく、
守れなくても、守りますと誓う
大きな矛盾ですが、
出来ないけど誓う、痛みをもって
そこが大事だと思うのです。
よくよく考えれば
忿怒相で導かなければならぬのは
私たちのこと、自分のことでは
また、修行していると
例えば、『十地経』では
第八地が不動地といい、
第七地は一つの難関がって
ふと、空虚に陥る危険が潜んでいる
その時に諸仏の激励があると
お経には出てくるんですが、
その陥りやすい、スランプのような
ことが起きてきます。
第八地の不動地というのは
諸仏の激励によって乗り越えてきた
そういう境地でしょう。
だから、励ましといっても
賛嘆するというより
叱り飛ばすのでしょう。
おだてて頑張れ
というような生ぬるいことでは
七地沈空という
空ということに沈んでしまう
それほど深い落ち込みです
ちょっとやそっとの
励ましぐらいでは立ち上がれない
そのような時、
その叱り飛ばす姿が不動明王の姿では
ないかと思うのです。
だから、顔は怒っていても
体つきはやさしさを帯びた
慈悲の姿なのでしょう。
その慈悲というか背景にある智慧
があればこそ叱り飛ばす
忿怒の相を取っているのです。
5月はお不動さまの大祭です
心して護摩に臨みたいと思います。
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