今読んでいるとこに
メモがあったのです。
「朝起きて顔を洗う
ということが仏行なんだ。
仏になる行じゃないんだ、
仏を実現しとる行なんだ。
仏になった行なんだ。
別にそれは
さとりを得る手段という
もんじゃない、目的なんだ。
仏になりたいと
そんな妄想を起こしちゃ
駄目だと。
本当の仏というのは
行仏なんだと、
行としてある。
仏が行ぜられとる
ということが
本当の仏なんだと。」
多分、道元禅師の言葉に
行住坐臥すべてが仏だと
仏としての行だと
行うこと自体が仏だと
そういうことからだと
思います。
講義では
『行道仏教学』という
釘宮武雄さんの本を紹介して
おられました。
それからもう一つ
「絶対の真理が
絶対の真理になるために、
不完全な人間が必要なんです
こういうところにですね
人間を機として
真理は展開するんだ。
こういうところに
人間のかたじけなさ
というものがある。
人間が尊重せんならんと
人間の尊厳性ということを
いいましょ。
人間というものが尊厳だと
いうことはそこにあるんだ。
こういうようなことでね、
なんか障りというものが
大事だと。」
私たちは障りがあると
いうことを嫌うようですが
そうではなく
障りがあることが
真理のはたらく場所だと
そうでなかったら
真理のはたらきようがない
そういう不完全な人間
けど、真理のはたらく場所を
もっている人間だからこそ
そこが人間の尊厳性という
なかなか考えさせられる
問題です。
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