本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

自燈明、自帰依、法灯明、法帰依

2023-07-13 20:55:40 | 十地経

お釈迦さまの最後の言葉に

「アーナンダよ、

自己を依り所として

自己に帰依して過ごすがよい

他人に帰依することなかれ。

また真理を依り所として

真理に帰依して過ごすがよい

他のものに

帰依することなかれ。」

ということがあります。

 

このことは仏教の根本で

『十地経講義』でも

このように説かれています

 

「つまりですね、

人生というか、

生きとる自分の意味を

明かにしたいというんです。

自分を明らかにするために

この、教えというものに

よるわけです。

 

教えによらずに

自分を明らかにする

ということはできんです。

これはね、

ちょっというと、

何かできるように思うんです

今の人は教えを嫌うでしょう

 

それはそこから何か考えると

我々は、仏陀の遺言ですね、

仏陀の遺言が法を灯とし、

他を灯としてはいかん。

それから自らを灯として、

他を灯としちゃいかん。

 

こういう具合に、

法と自とに依れと、

他に依っちゃならんと。

これは非常に

いい言葉じゃないかと思う。

 

みずからの主体というか

自分を知るということが

一番大事なんです。

自分を知るために

法に照らすと。

つまり、

我々の方から勝手に

法を知っていくんじゃない

出かけていって。

 

そういうことをやるから

他に依っとる

ということになるんであって

法から何か、

法に照らされて自分を知ると

自分が法を知るんじゃない、

法によって自分を

知らされるわけです。

 

こういう考え方、

今は

ないんじゃないでしょうかね

自分は

自分ではっきりしとると、

こう思うんです。

 

ところが、

人間で一番分からんのは

自分じゃないか。

世界中を知っているけど、

自分が分からない。

 

自分を明らかにする

ということが、

これが人生の根元に

あるんじゃないか。

その自分というものは

真理に、

真理を自分が証明するんじゃ

ない、

真理に自分が証明されるんだ

 

真理の言葉によって

自分というものをそこで

見出していく。

だから教えがなしで

自分が分かるということは

ないんじゃないか。

 

そういう場合は

自分を色々に考えとるんだ。

自分で自分を

考えとるんであって、

自分にはならんのじゃないか

考えた自分じゃないか。

 

そういうものは、

やっぱり知らん間に

他が入っているんです、

その中に。

だからして絶えずこう、

動くんですよ。

 

あっちの本読めば

そうかと思うし、

こっちの本読めばそうかと

思うし、

人のいうことを聞きゃあ

こうと、

絶えず流動していくわね。

流転です、思想の。

 

これがどうも、

そいつを動かんように

しようとすれば、

それは教条主義になる。

やっぱり教条は他でしょう。

イデオロギーですね。

 

なんかこう、

語りかけられて、

真理に語りかけられて

自分を知ると。

真理に自分が証明されるん

です。

自分が真理を証明するんじゃ

ない。」

 

お経の最初に

「如是我聞」という

「聞く」ということがある

ように、教えを聞く

自分を無にして教えを聞く

ということが

自分を明らかにする

といっても 

教えに照らして自分を知る

そういうことで

教えを聞かないところには

自分を明らかにできない

ように思います。

 

 

 

 

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