本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

翻訳に生涯を捧げる

2021-01-20 21:07:07 | 十地経

『十地経論』は

インドの僧・菩提流支ボダイルシ

によって翻訳されたものです

インドの人が中国語に翻訳する

そこには大変な苦労があった

ということです。

生まれの年代は分かりませんが

527年に亡くなられます。

 

そのことを、

「いつも思うんですけど、

いかに苦労して翻訳したか

ということをですね。

それはアーリアンの言語と

漢民族の言語とは

全然語脈が違ったものに翻訳する

んですから。

インド語をギリシャ語に

翻訳するのは楽なんです。

言語法則が違うものに翻訳する

ということは容易ならん苦労

ですよ。

だからして僕は一語でもね、

もったいないと思うんです。

インドからやって来てですね。

その熱がね、僕は驚くんです。

 

玄奘はインドに行って

帰ってくるまで17年かかってる

行くのも

ただ行って何か勉強してくる

というようなもんじゃないんです

やっぱり何か問題があった。

菩提流支三蔵の翻訳した

『十地経論』を読んどる

読んだからそこに何か

はっきりせんものがあると。

それは言葉じゃない、

思想でしょう。

誰に聞いても、わしはこう思うと

思うだけの話で

徹底的にこうだと言う人がおらん

だからしてインドへ行った。

 

そして、インドのナーランダで

戒賢三蔵に出遇って初めて

長い間の疑問を氷解することが

できたんです。

それは一語一語が貴重な苦労で

翻訳されています。」

 

玄奘は602~664年の人

日本では聖徳太子が十七条の憲法

を作られたころです。

玄奘は自分で書かれた書物は

一つもありません

生涯、経典翻訳に命を懸けた人

あえて、あるとすれば

それは『大唐西域記』です

これも唐の周辺の情勢を弟子に

資料を渡し書かせたものです。

 

翻訳も一人でコツコツする

というのではなく

大きなプロジェクトチームを作り

作業に取り掛かっておられます

そのための資金を得るために

弟子に書かせたようです。

 

安田先生も書かれた本は

一つもありません。

聞いた弟子たちがテープから

声を聞きながら文字にしていく

 

 

ですから、最初の頃は

こういうガリで摺ったものを

読んでいました。

後になって印刷して本になった

ということです。

 

 

私の手もとにもわずかに

これ一冊が残っています。

 

晩年、安田先生の全集を作る

ということで相談に行かれた

喜ばれると思って、

ところが

「そんなもの作る必要はない」

という先生の返事、

弟子たちが困っていると

「お経は感動した弟子たちが

書き留めたものですよね」

「そうです」

では分かりました、と三浦先生

他の人たちがどうしていいか

と困っていると、

「感動したのであれば

感動した人たちが

作ればいいのですよ」

ということで

先生の著作集が出来た

ということです。

 

安田先生は『十地経論』を

読む時その菩提流支三蔵の翻訳

された一語一語に深く感動

されたのでしょう。

だから、繰り返し繰り返し読み

お経の文字が身に沁み込んでくる

まで読み込まれたと思います。

 

お経の文字はそういう方々の

血のにじむようなご苦労の末

今のような経典になったわけです

あだやおろそかには

出来ないと思います。

 

インド人は記憶を大切にする

漢民族は書いたものを大切にする

ということがありますが

インドではあまり資料がないのは

そういうことでしょう

聞いた声を文字に書き記す

ということは大変作業だと

思います。

発音は同じでも文字にすると

まったく違う言葉もあります。

そういうものを的確な言葉にする

ましてインドの人が漢訳する

ということはご苦労があったと

今更なが思います。

 

 

 

 

 

コメント
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