講義の中でよく
「超えて行く」という表現が
出てきます。
「人間を超えたところに菩薩が
ある」とか、
「人間の考えでは、
つかめんようなものを
人間はもっている」
というようなことが出てきます
人間の延長線上に菩薩・仏
があるのではなく
その人間を超えたところに
菩薩、仏という世界がある
ということですけど
「超えていく」
ということが分かったようで
分からない。
講義でも、
「超えるというような意味も
我々は漠然としてはしご段を
上がるように超えると考えとる
ですけど、
超えるということも
厳密に考えてみんならんです
どういうのが超えるのか」
と述べておられます。
そして
ニーチェのことを話され
「神は死んだということを
いった人です。
誤解がおきるですけど
宗教は死んだというような
意味なんです。
神学としての宗教は
もう死んでしまった
という意味じゃないかと
思います」
そして、
超えるということで、
「ニーチェはそこで
ユーバーメンシュ(Übermensch)
といいますね。
ユーバー(Über)、
これは超でしょう。
メンシュ(mensch)は人や。
超人や。
人間を伸ばしたんじゃない。
人間を超えるものや。
こういうものがニーチェの
思想です。
神が死んだ後から生まれてくる
ものが超人や。
これがつまり
仏教でいう菩薩じゃないですか」
ニーチェという人の本は
読んだことがないのですが
神は死んだ、
では私たちはどうするのか
そこには人間がこのままでは
どうすることもできない
神にも頼ることも出来なくて
このままの自分でいることも
できないという現実
そこに、人間を超えるという
そいう超人という考えが
生まれたのでしょう。
「ニーチェは大乗仏教を
知らなかったんですけど、
ニーチェは仏教を知とった
ショーペンハウアーを通して
けど、それは小乗仏教や。
小乗仏教は知っとったんですけど
大乗仏教は知らなかったんです。
けど自分みずからは
大乗仏教を生み出しとるね、
これはどういうかというと
人間とは何かといえば、
人間を超えていくものが
人間なんだ。
それが人間の本質なんです。
人間を超えて
神になるわけじゃない。
そうすれば人間がですね、
存在でなしに、
あるものじゃなしに、
橋になるでしょう。
橋は、超えていくものが
橋ですから。
人間はあるものじゃない。
橋といえば、あるいは道と
いってもいいです。
まあドイツだから橋といったんだ
けど、これは
我々からいえば道ですね。
道はどこからどこへ
向かっていくもの。
人間があるものじゃない、
歩く道になることでしょう。
つまり行になることでしょう。
人間が行としてつまり、
行人(ギョウニン)、
『行人』という小説があった
漱石に。
行人(コウジン)というか
知らんけど、
その名前はいいですね。」
どうしても、
人間という「ある」もの
として考えてしまいがちですが
そうではなく
人間自身が道になる
道程そのものであるという
歩んでいる自身が人間ですから
歩みとしての人間
ということでしょう。
先日テレビのインタビューで
スイスの方で日本で
農業をしているという人
今年の抱負は、と聞かれて
一瞬困った顔をされて
「天気で、元気」と
天気が良くて日々健康で元気
これしかないということでしょう
単純なことですが
今年の抱負とか目的とかではなく
日々働ける幸せ
それしかないように思います。
そこに、行人というか
人間が道になっている
ように感じました。
単純明快な答えに
聞いたこちらもすっきりしたような
何かしら頷ける一言でした。