昨日のブログ記事で安政の大獄の中心人物である彦根藩主・大老井伊直弼が眠る豪徳寺を取り上げました。実はこの豪徳寺からわずかな距離になんとこの直弼公とま逆な位置に対峙した幕末の思想家として名高いあの吉田松陰先生を御祭神として祀る松陰神社があるのです。
松陰神社の鳥居
歴史の悪戯ともいうのでしょうか、徳富蘇峰が評価した「徳川幕府転覆の卵を孵化した保育場の一」と言わしめたあの「松下村塾」を開いた松陰先生がなんと仇敵とも思える直弼公の眠る豪徳寺のすぐそばに眠っているという不思議な縁(えにし)。
でも、どうして松陰先生の出身地である萩から遠く離れた江戸の、しかも世田谷のど真ん中に松陰先生が眠っているのか? 素朴な疑問が湧いてきます。実はこの松陰神社がある地は江戸時代から長州の毛利藩藩主「毛利大膳大夫」の別邸が置かれていた場所で「大夫山」と呼ばれていました。松陰先生が江戸伝馬町の獄舎で処刑されたのが安政6年10月27日です。その4年後の文久3年に松陰先生の門下生である高杉晋作、伊藤博文らによってここ世田谷の地に改装されたのです。千住の回向院にも松陰先生の墓があるのですが、ここ松陰神社にある松陰先生の墓が正真正銘のものなんですね。そして明治に入り、15年11月21日に先生門下の人々が集まり、墓の脇に先生を御祭神とする社を築いたのです。これが松陰神社の始まりです。
松陰神社の由緒書
それでは松陰先生が処刑されるまでの経緯を知っておきたいと思います。
松陰先生は天保元年(1830)8月4日長州藩(現在の山口県)萩松本村で毛利藩士であった杉百合之助常道の次男として生まれました。松陰というのは号で、名前は矩方、通称寅次郎。幼い頃は虎之助と呼ばれていました。
次男であった寅次郎(松陰先生)は6歳のときに萩で山鹿流兵学師範を務める吉田家を継ぐことになります。吉田家を継いだ寅次郎は叔父である玉木文之進のもとで教育を受け、松陰先生が11歳の時には藩主である毛利慶親公に講義をするまでに成長していました。そして22歳の時(嘉永4年)には山鹿流兵学で最も高い免許である「三重傳」を受けています。
嘉永4年といえば、ちょうどこの頃に中国でアヘン戦争が起こり、日本近海には外国船がたびたびやってきた時代です。この年に松陰先生は藩命により江戸留学が実現し、あの佐久間象山先生に師事することになりました。そして同年12月に外国船調査のため東北へ旅立ちます。東北各地を視察し翌年(嘉永5年)に江戸に戻りますが、国内旅行の許可証の不携帯の罪で身分剥奪の上、浪人の身となってしまうのです。
これを知った時の藩主・敬親公は特別の計らいで諸国遊学10年間の許可を与えたことで、松陰先生は嘉永6年の5月に再び江戸に戻ってきます。この年こそ松陰先生の将来が決定付けられたといっても過言ではありません。この年に起こったのがあの歴史的なペリー黒船艦隊の浦賀入港なのです。
この間、松陰先生は家学だけにとどまらず、西洋兵学まで学んでいました。そんなことから鎖国下にもかかわらず外国へ行きたいという奇行に走らせてしまったのが、あの有名な下田沖に停泊中のペリー軍艦への乗船事件です(安政元年/1854)。この件は結局成就ならず、その結果として海外渡航を計画した罪で伝馬町に投獄されてしまうのです。しかし、同年12月に萩に戻され、野山獄に投獄され、1年2ヶ月余り獄中生活を余儀なくされます。そんな獄中生活の中でなんと松陰先生は勉強会を開いていたといいます。
安政2年、松陰先生は実家である杉家に戻され、いよいよ本格的に教鞭生活が始まります。そして開いた塾が「松下村塾」なのです。この塾は僅か2年間余りしか開塾していませんでしたが、明治の元勲として活躍した若き伊藤博文、木戸孝允、山縣有朋などが巣立っていったのです。
そしていよいよ松陰先生の最後の受難の時期を迎えます。安政5年に井伊直弼が大老に就任するや、あの違勅である日米通商条約が調印されます。幕府はこの調印に反対する人々を次から次へと捕縛し投獄していきます。これがあの「安政の大獄」です。松陰先生もこのような時勢に対して藩主や塾生そして同士に意見書を送ったり、直接行動として老中暗殺計画まで練っています。こうした先生の考え方に幕府は危険人物として再び投獄され、翌年安政6年5月に萩から江戸桜田の藩邸に護送されてしまいます。
この時に詠んだ歌が
「かえらじと思い定めし旅なればひとしほぬるる涙松かな」
松陰先生は幕府の厳しい尋問を受けながら、実は楽観していたようです。当時の幕府がなりふりかまわず反幕勢力を押さえ込むと同時に、粛清の嵐を是とする風潮に、松陰先生は尋問中に言わなくてもいいことを言ってしまうのです。それが老中・間部詮且(まなべあきかつ)の暗殺計画です。松陰先生にしてみれば、これはあくまでも計画の段階であり、これをばらしても幕府は自分を死罪にはするまいと思っていたようです。それが甘かった。結局、安政6年10月27日の朝、評定所で罪状の申し渡しがあり、その後伝馬町の獄舎で松陰先生は30歳の若さで処刑されてしまうのです。
幕末好きの私にとって、いつかは松陰先生が活躍した長州の萩には伺い、かの地の松陰神社にも詣でてみたいという強い気持ちがあるのですが、江戸から長州はいくら新幹線や飛行機の時代であっても、「ちょっと行ってくる」と言った距離ではありません。幸いにもお江戸の世田谷に松陰先生が眠る聖地があることで豪徳寺から早速向かうことにしました。
閑静な住宅街を抜けて、世田谷区役所を通りすぎると遠めに黒い鳥居が見えてきます。
ちょうどこの辺りは松陰神社の縁に位置しているのですが、歩道の傍らに「公爵桂太郎の墓」の石柱が目立たない存在で立てられています。
公爵桂太郎墓の石柱
桂太郎の墓
桂家の墓域
この御仁は松陰先生と同郷の萩で生まれ明治から大正にかけて活躍した長州閥の軍人であり、政治家なのです。ご本人の遺言で墓所を松陰神社に隣接して置かれています。
新しく置かれた黒い鳥居の向こうに本殿が構えています。そして神社の入口にあたる石垣に以前あった石造りの鳥居に掲げられていた石製の扁額が置かれています。もっと大切に扱えばいいのにと思われるような置き方にびっくりします。
石造りの扁額
鳥居をくぐり参道を進むと左手に一つの石柱が立っています。なんだろうと近づくと石面に「松陰神社道」の文字が刻まれています。これは現在の三間茶屋を走る国道246号線がかつて大山道(神奈川県にある山で山岳信仰の場として有名。大山講と呼ばれ各地から通じる道を大山道と名付けられています。)と呼ばれていた時代に、松陰神社の方向を示す道標として立てられていたものです。ということは当時からこの松陰神社は街道を旅する人たちの参詣の場として知られていたことを伺わせてくれます。
大山道に置かれた道標
そしてこの道標の脇に、若き頃の松陰先生をあらわした坐像が置かれています。
松陰先生坐像
参道を進むと前方に整然と並ぶ石灯籠が見えてきます。これらの灯篭は松陰先生の門下生である伊藤博文、山縣有朋をはじめ、先生と縁故のある方々が寄進したもので、全部で32基が一直線上に並んでいます。
石灯籠
灯篭の柱に刻まれた名前を見ると、前述の伊藤博文、山縣有朋、井上馨、木戸孝允そして軍神と崇められる乃木希典将軍を読み取ることができます。さすが松陰先生のお力は絶大と思わせる瞬間です。石灯籠の写真の一番手前から伊藤博文、山縣有朋、井上馨、桂の名前が刻まれています。
一番手前から伊藤博文、山縣有朋、井上馨、桂
松陰先生の墓所は参道から左手に進み、突き当りを右手に広がる敷地の一番奥に置かれています。
その墓所の入口には木戸孝允が寄進した石製の鳥居が構えています。静かな雰囲気に包まれた墓域には松陰先生だけでなく先生と少なからず関わりのある方々の墓が並んでいます。先生の墓所にはまるで先生を守るかのように幕末に活躍した志士の方々が一緒に埋葬されています。
墓地へ通じる最初の鳥居
木戸孝允寄進の鳥居
幕末烈士の墓所
松陰先生の墓
その中でも千住の回向院に墓がある尊王の大儀を唱え安政の大獄で命を落とした「頼三樹三郎」もここに改葬されています。
頼三樹三郎の墓
そして先生の墓所の入口には明治元年の墓所修復の際に徳川氏から謝罪の意味で奉納された石灯籠が置かれいます。灯篭の傘にはかつて徳川家の家紋である葵の紋が刻まれていたといいますが、現在ではほとんど見ることができないほど風化してしまっています。また徳川氏から一緒に奉納された水盤が置かれています。穿った見方をすれば、徳川氏といってもどこの徳川氏からなのかまではわかりませんが、明治元年といえば徳川宗家は田安家の亀之助(家郷公)が継いでいますので…。
徳川氏奉納の石灯篭
徳川氏奉納の水盤
松陰先生の墓を詣でた後、御社殿へと向かいます。神社創建時の社殿は内陣となっており、現在の本殿は昭和2年に造営されたものです。
御社殿
社殿内部
この本殿の右手奥に本家・萩の松陰神社境内に保存されている松下村塾を模した建造物が建っています。平日は雨戸が閉じられていますが、土日のみ雨戸が開放されるようです。
模擬松下村塾
ここ松陰神社を訪れながらふと思うことは、平成維新などという流行言葉がまかり通る現代の世で、自らの保身だけで何ら主義主張もない現政権の体たらくとそれに効果的な攻撃を加えられない腰抜け野党の現状に、国家のあり方を真剣に考えた幕末の志士たちの爪の垢を飲ませてやりたいと思うのは私だけでしょうか?
国会議員の先生方の軽~い口癖である「死に物狂いで、一命を賭けて」のような口先だけの言葉は聞き飽きました。幕末の志士は本当に命を賭けて国家のあり方、国家の行く末を憂いながらも、世界に冠たる日本が維新からほんの僅かな時を経て、礎をつくりあげた原動力となったことをすべての国会議員は再認識すべきです。
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歴史の悪戯ともいうのでしょうか、徳富蘇峰が評価した「徳川幕府転覆の卵を孵化した保育場の一」と言わしめたあの「松下村塾」を開いた松陰先生がなんと仇敵とも思える直弼公の眠る豪徳寺のすぐそばに眠っているという不思議な縁(えにし)。
でも、どうして松陰先生の出身地である萩から遠く離れた江戸の、しかも世田谷のど真ん中に松陰先生が眠っているのか? 素朴な疑問が湧いてきます。実はこの松陰神社がある地は江戸時代から長州の毛利藩藩主「毛利大膳大夫」の別邸が置かれていた場所で「大夫山」と呼ばれていました。松陰先生が江戸伝馬町の獄舎で処刑されたのが安政6年10月27日です。その4年後の文久3年に松陰先生の門下生である高杉晋作、伊藤博文らによってここ世田谷の地に改装されたのです。千住の回向院にも松陰先生の墓があるのですが、ここ松陰神社にある松陰先生の墓が正真正銘のものなんですね。そして明治に入り、15年11月21日に先生門下の人々が集まり、墓の脇に先生を御祭神とする社を築いたのです。これが松陰神社の始まりです。
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それでは松陰先生が処刑されるまでの経緯を知っておきたいと思います。
松陰先生は天保元年(1830)8月4日長州藩(現在の山口県)萩松本村で毛利藩士であった杉百合之助常道の次男として生まれました。松陰というのは号で、名前は矩方、通称寅次郎。幼い頃は虎之助と呼ばれていました。
次男であった寅次郎(松陰先生)は6歳のときに萩で山鹿流兵学師範を務める吉田家を継ぐことになります。吉田家を継いだ寅次郎は叔父である玉木文之進のもとで教育を受け、松陰先生が11歳の時には藩主である毛利慶親公に講義をするまでに成長していました。そして22歳の時(嘉永4年)には山鹿流兵学で最も高い免許である「三重傳」を受けています。
嘉永4年といえば、ちょうどこの頃に中国でアヘン戦争が起こり、日本近海には外国船がたびたびやってきた時代です。この年に松陰先生は藩命により江戸留学が実現し、あの佐久間象山先生に師事することになりました。そして同年12月に外国船調査のため東北へ旅立ちます。東北各地を視察し翌年(嘉永5年)に江戸に戻りますが、国内旅行の許可証の不携帯の罪で身分剥奪の上、浪人の身となってしまうのです。
これを知った時の藩主・敬親公は特別の計らいで諸国遊学10年間の許可を与えたことで、松陰先生は嘉永6年の5月に再び江戸に戻ってきます。この年こそ松陰先生の将来が決定付けられたといっても過言ではありません。この年に起こったのがあの歴史的なペリー黒船艦隊の浦賀入港なのです。
この間、松陰先生は家学だけにとどまらず、西洋兵学まで学んでいました。そんなことから鎖国下にもかかわらず外国へ行きたいという奇行に走らせてしまったのが、あの有名な下田沖に停泊中のペリー軍艦への乗船事件です(安政元年/1854)。この件は結局成就ならず、その結果として海外渡航を計画した罪で伝馬町に投獄されてしまうのです。しかし、同年12月に萩に戻され、野山獄に投獄され、1年2ヶ月余り獄中生活を余儀なくされます。そんな獄中生活の中でなんと松陰先生は勉強会を開いていたといいます。
安政2年、松陰先生は実家である杉家に戻され、いよいよ本格的に教鞭生活が始まります。そして開いた塾が「松下村塾」なのです。この塾は僅か2年間余りしか開塾していませんでしたが、明治の元勲として活躍した若き伊藤博文、木戸孝允、山縣有朋などが巣立っていったのです。
そしていよいよ松陰先生の最後の受難の時期を迎えます。安政5年に井伊直弼が大老に就任するや、あの違勅である日米通商条約が調印されます。幕府はこの調印に反対する人々を次から次へと捕縛し投獄していきます。これがあの「安政の大獄」です。松陰先生もこのような時勢に対して藩主や塾生そして同士に意見書を送ったり、直接行動として老中暗殺計画まで練っています。こうした先生の考え方に幕府は危険人物として再び投獄され、翌年安政6年5月に萩から江戸桜田の藩邸に護送されてしまいます。
この時に詠んだ歌が
「かえらじと思い定めし旅なればひとしほぬるる涙松かな」
松陰先生は幕府の厳しい尋問を受けながら、実は楽観していたようです。当時の幕府がなりふりかまわず反幕勢力を押さえ込むと同時に、粛清の嵐を是とする風潮に、松陰先生は尋問中に言わなくてもいいことを言ってしまうのです。それが老中・間部詮且(まなべあきかつ)の暗殺計画です。松陰先生にしてみれば、これはあくまでも計画の段階であり、これをばらしても幕府は自分を死罪にはするまいと思っていたようです。それが甘かった。結局、安政6年10月27日の朝、評定所で罪状の申し渡しがあり、その後伝馬町の獄舎で松陰先生は30歳の若さで処刑されてしまうのです。
幕末好きの私にとって、いつかは松陰先生が活躍した長州の萩には伺い、かの地の松陰神社にも詣でてみたいという強い気持ちがあるのですが、江戸から長州はいくら新幹線や飛行機の時代であっても、「ちょっと行ってくる」と言った距離ではありません。幸いにもお江戸の世田谷に松陰先生が眠る聖地があることで豪徳寺から早速向かうことにしました。
閑静な住宅街を抜けて、世田谷区役所を通りすぎると遠めに黒い鳥居が見えてきます。
ちょうどこの辺りは松陰神社の縁に位置しているのですが、歩道の傍らに「公爵桂太郎の墓」の石柱が目立たない存在で立てられています。
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この御仁は松陰先生と同郷の萩で生まれ明治から大正にかけて活躍した長州閥の軍人であり、政治家なのです。ご本人の遺言で墓所を松陰神社に隣接して置かれています。
新しく置かれた黒い鳥居の向こうに本殿が構えています。そして神社の入口にあたる石垣に以前あった石造りの鳥居に掲げられていた石製の扁額が置かれています。もっと大切に扱えばいいのにと思われるような置き方にびっくりします。
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鳥居をくぐり参道を進むと左手に一つの石柱が立っています。なんだろうと近づくと石面に「松陰神社道」の文字が刻まれています。これは現在の三間茶屋を走る国道246号線がかつて大山道(神奈川県にある山で山岳信仰の場として有名。大山講と呼ばれ各地から通じる道を大山道と名付けられています。)と呼ばれていた時代に、松陰神社の方向を示す道標として立てられていたものです。ということは当時からこの松陰神社は街道を旅する人たちの参詣の場として知られていたことを伺わせてくれます。
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そしてこの道標の脇に、若き頃の松陰先生をあらわした坐像が置かれています。
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参道を進むと前方に整然と並ぶ石灯籠が見えてきます。これらの灯篭は松陰先生の門下生である伊藤博文、山縣有朋をはじめ、先生と縁故のある方々が寄進したもので、全部で32基が一直線上に並んでいます。
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灯篭の柱に刻まれた名前を見ると、前述の伊藤博文、山縣有朋、井上馨、木戸孝允そして軍神と崇められる乃木希典将軍を読み取ることができます。さすが松陰先生のお力は絶大と思わせる瞬間です。石灯籠の写真の一番手前から伊藤博文、山縣有朋、井上馨、桂の名前が刻まれています。
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松陰先生の墓所は参道から左手に進み、突き当りを右手に広がる敷地の一番奥に置かれています。
その墓所の入口には木戸孝允が寄進した石製の鳥居が構えています。静かな雰囲気に包まれた墓域には松陰先生だけでなく先生と少なからず関わりのある方々の墓が並んでいます。先生の墓所にはまるで先生を守るかのように幕末に活躍した志士の方々が一緒に埋葬されています。
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その中でも千住の回向院に墓がある尊王の大儀を唱え安政の大獄で命を落とした「頼三樹三郎」もここに改葬されています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/a8/a2d191f7b82fbb21f1b440c0a8be160c.jpg)
そして先生の墓所の入口には明治元年の墓所修復の際に徳川氏から謝罪の意味で奉納された石灯籠が置かれいます。灯篭の傘にはかつて徳川家の家紋である葵の紋が刻まれていたといいますが、現在ではほとんど見ることができないほど風化してしまっています。また徳川氏から一緒に奉納された水盤が置かれています。穿った見方をすれば、徳川氏といってもどこの徳川氏からなのかまではわかりませんが、明治元年といえば徳川宗家は田安家の亀之助(家郷公)が継いでいますので…。
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松陰先生の墓を詣でた後、御社殿へと向かいます。神社創建時の社殿は内陣となっており、現在の本殿は昭和2年に造営されたものです。
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この本殿の右手奥に本家・萩の松陰神社境内に保存されている松下村塾を模した建造物が建っています。平日は雨戸が閉じられていますが、土日のみ雨戸が開放されるようです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/04/dc/3f2efe16b02634cd886ba6b55024901e.jpg)
ここ松陰神社を訪れながらふと思うことは、平成維新などという流行言葉がまかり通る現代の世で、自らの保身だけで何ら主義主張もない現政権の体たらくとそれに効果的な攻撃を加えられない腰抜け野党の現状に、国家のあり方を真剣に考えた幕末の志士たちの爪の垢を飲ませてやりたいと思うのは私だけでしょうか?
国会議員の先生方の軽~い口癖である「死に物狂いで、一命を賭けて」のような口先だけの言葉は聞き飽きました。幕末の志士は本当に命を賭けて国家のあり方、国家の行く末を憂いながらも、世界に冠たる日本が維新からほんの僅かな時を経て、礎をつくりあげた原動力となったことをすべての国会議員は再認識すべきです。
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今月は松陰忌です。
幕末維新まつりがあります。
地震で破損した扁額は、社務所の片隅に保管してほしいです。