雲一つない秋晴れのこの日、東海道中17番目の宿場町である「興津宿」を歩き、18番目の江尻宿(現在の清水市)を経由して草薙までの10㌔強を踏破しました。
すでに東海道筋では箱根についで難所と言われた「さった峠」を越えて興津にたどり着きました。さった峠ではあの広重が描いた絵柄通りの景色を堪能しました。
さて興津宿ですが、宿内といってもわずか1.2㌔の距離しかありません。そんな宿内の光景はかつての宿場らしい風情は残念ながらまったく残っていません。高層ビルがほとんどない家並みが東海道筋の両側に続いています。
興津の町並み
そんな道筋にあるのが興津宿内で数少ない見どころの「旅籠水口屋(みなぐちや)」と「坐魚荘」です。
興津駅前信号から東海道筋を西進して歩くこと450mで左側に現れるのが「水口屋ギャラリーフェルケール博物館別館」です。
水口屋の古いパンフレット
ここ水口屋は江戸時代には興津宿で脇本陣を経営していた家柄で、初代当主は武田信玄の家臣で、武田家滅亡後は駿河湾でとれた塩や魚などを甲斐国へ送る商人だったそうです。
そして明治に入ると政治家、皇族の方々、財界人、小説家、画家などの著名人が水口屋を別荘旅館として利用し、なんと昭和32年の国体の折には昭和天皇の宿舎として提供された由緒ある建物なのです。
立派な塀に囲まれた水口屋ギャラリーはかつて華やかなりし時代には「一碧楼水口屋」の屋号で400年の歴史をもつ超一級の旅館だったのです。
水口屋ギャラリー
特にこの旅館を利用した著名人の中でとりわけ重要な人物は明治の元老「西園寺公望」です。西園寺公は個人の屋敷である「坐魚荘」を持っていたのですが、これ以前に度々ここ一碧楼水口屋に投宿を重ね、風光明媚でかつ温暖な気候にことのほか愛着を感じて、終の棲家をした建てたのが西園寺公の私邸である「坐魚荘(ざぎょそう)」です。
そんな歴史をもつ水口屋は現在は興津の博物館として名を遺しています。
当時の建物を改築して現在は博物館として公開しています。
靴を脱いで中に入ると、落ち着いた雰囲気の展示室が現れます。部屋の中央には昭和32年の国体の折にここに泊まられた昭和天皇がお食事で使われた美しい磁器がガラスケースの中に納まっています。
そして部屋の周囲には西園寺公望公をはじめ、岩倉具視、伊藤博文、山縣有朋といった明治の名だたる政治家の書が掲げられています。
書1
書2
また、別の小さな部屋には「一碧楼水口屋」と墨字で書かれた大きな木製の看板が保存されています。
一碧楼水口屋の看板
水口屋は戦後、占領軍に接収されましたが、そんな折に来日したアメリカ人のオリバー・スタットラー氏が昭和36年に「Japanese Inn~東海道の宿 水口屋ものがたり」を出版し、これが評判となり多くの外国人が水口屋を訪れました。
水口屋を紹介した雑誌
思えばすでに通過した大磯でも明治の政治家などがこぞって別荘を設けていたことがふと頭をよぎりました。大磯ほど政治家たちの別荘が多いわけではありませんが、海辺に近く、温暖な気候という条件は大磯と変りないことから、興津が選ばれたのでしょう。
この水口屋ギャラリーを後にして、清見寺門前を通過すると東海道に面してすぐ左に現れるのが、西園寺公望公の終の棲家として利用された「坐魚荘(ざぎょそう)」です。
坐魚荘は西園寺公が70歳になった大正8年(1919)に老後の静養の家として建てられた別荘です。
この坐魚荘の名前は「ゆったり座(坐)って、のんびり釣り(漁)でもする家(荘)」という意味の周の太公望の言葉からとっています。
坐魚荘入口
2階建ての純和風造りの建物で、当時は居間からは駿河湾を一望にして、遠くには伊豆天城の山並みや三保の松原が見渡せたといいますが、現在は興津港や家々に邪魔され、かつての眺望を楽しむことができません。
西園寺公は昭和15年(1940)にここ坐魚荘でなくなりました。その後、坐魚荘は紆余曲折を経て、昭和45年(1970)に愛知県の明治村に移築保存され、現在見る坐魚荘は平成16年(2004)に復元されたレプリカです。
坐魚荘の内部は靴を脱いで中に入ることができます。1階、2階をくまなく見学することができます。
坐魚荘1
坐魚荘2
坐魚荘3
明治から大正にかけて活躍した政治家たちがこぞってやってきた興津の歴史を垣間見ることができる歴史的建造物です。
又、坐魚荘からさほど離れていない清見潟公園の一画に、同じようにここ興津に長者荘と名付けられた別荘を構えていた井上馨の銅像が置かれています。
井上馨像
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すでに東海道筋では箱根についで難所と言われた「さった峠」を越えて興津にたどり着きました。さった峠ではあの広重が描いた絵柄通りの景色を堪能しました。
さて興津宿ですが、宿内といってもわずか1.2㌔の距離しかありません。そんな宿内の光景はかつての宿場らしい風情は残念ながらまったく残っていません。高層ビルがほとんどない家並みが東海道筋の両側に続いています。
興津の町並み
そんな道筋にあるのが興津宿内で数少ない見どころの「旅籠水口屋(みなぐちや)」と「坐魚荘」です。
興津駅前信号から東海道筋を西進して歩くこと450mで左側に現れるのが「水口屋ギャラリーフェルケール博物館別館」です。
水口屋の古いパンフレット
ここ水口屋は江戸時代には興津宿で脇本陣を経営していた家柄で、初代当主は武田信玄の家臣で、武田家滅亡後は駿河湾でとれた塩や魚などを甲斐国へ送る商人だったそうです。
そして明治に入ると政治家、皇族の方々、財界人、小説家、画家などの著名人が水口屋を別荘旅館として利用し、なんと昭和32年の国体の折には昭和天皇の宿舎として提供された由緒ある建物なのです。
立派な塀に囲まれた水口屋ギャラリーはかつて華やかなりし時代には「一碧楼水口屋」の屋号で400年の歴史をもつ超一級の旅館だったのです。
水口屋ギャラリー
特にこの旅館を利用した著名人の中でとりわけ重要な人物は明治の元老「西園寺公望」です。西園寺公は個人の屋敷である「坐魚荘」を持っていたのですが、これ以前に度々ここ一碧楼水口屋に投宿を重ね、風光明媚でかつ温暖な気候にことのほか愛着を感じて、終の棲家をした建てたのが西園寺公の私邸である「坐魚荘(ざぎょそう)」です。
そんな歴史をもつ水口屋は現在は興津の博物館として名を遺しています。
当時の建物を改築して現在は博物館として公開しています。
靴を脱いで中に入ると、落ち着いた雰囲気の展示室が現れます。部屋の中央には昭和32年の国体の折にここに泊まられた昭和天皇がお食事で使われた美しい磁器がガラスケースの中に納まっています。
そして部屋の周囲には西園寺公望公をはじめ、岩倉具視、伊藤博文、山縣有朋といった明治の名だたる政治家の書が掲げられています。
書1
書2
また、別の小さな部屋には「一碧楼水口屋」と墨字で書かれた大きな木製の看板が保存されています。
一碧楼水口屋の看板
水口屋は戦後、占領軍に接収されましたが、そんな折に来日したアメリカ人のオリバー・スタットラー氏が昭和36年に「Japanese Inn~東海道の宿 水口屋ものがたり」を出版し、これが評判となり多くの外国人が水口屋を訪れました。
水口屋を紹介した雑誌
思えばすでに通過した大磯でも明治の政治家などがこぞって別荘を設けていたことがふと頭をよぎりました。大磯ほど政治家たちの別荘が多いわけではありませんが、海辺に近く、温暖な気候という条件は大磯と変りないことから、興津が選ばれたのでしょう。
この水口屋ギャラリーを後にして、清見寺門前を通過すると東海道に面してすぐ左に現れるのが、西園寺公望公の終の棲家として利用された「坐魚荘(ざぎょそう)」です。
坐魚荘は西園寺公が70歳になった大正8年(1919)に老後の静養の家として建てられた別荘です。
この坐魚荘の名前は「ゆったり座(坐)って、のんびり釣り(漁)でもする家(荘)」という意味の周の太公望の言葉からとっています。
坐魚荘入口
2階建ての純和風造りの建物で、当時は居間からは駿河湾を一望にして、遠くには伊豆天城の山並みや三保の松原が見渡せたといいますが、現在は興津港や家々に邪魔され、かつての眺望を楽しむことができません。
西園寺公は昭和15年(1940)にここ坐魚荘でなくなりました。その後、坐魚荘は紆余曲折を経て、昭和45年(1970)に愛知県の明治村に移築保存され、現在見る坐魚荘は平成16年(2004)に復元されたレプリカです。
坐魚荘の内部は靴を脱いで中に入ることができます。1階、2階をくまなく見学することができます。
坐魚荘1
坐魚荘2
坐魚荘3
明治から大正にかけて活躍した政治家たちがこぞってやってきた興津の歴史を垣間見ることができる歴史的建造物です。
又、坐魚荘からさほど離れていない清見潟公園の一画に、同じようにここ興津に長者荘と名付けられた別荘を構えていた井上馨の銅像が置かれています。
井上馨像
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